つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

生きてさえいれば

2011-03-13 | Weblog
災難に遭う。も、
生きてさえいればと思う。も、生きて、途方にくれ
数多くの悲しみに打ちのめされる。その現実は死の恐怖にも等しい。
いっそのこと死んでしまえばどんなに楽かと思えども、それは正しくは無い。
死が理解できずに死の恐怖に直面すれば、恐怖に犯されて、そのまま恐怖の世界が創られていき、あの世は地獄となっていく。
死んでいくことさえわからず、あるいは、あぁ~このまま死んでいくのかと、意識が穏やかに遠のいていくだけで、
恐怖が無ければ、あの世は恐怖となることが無い。
意識は肉体を離れて、意識の世界となっていく。
どう思っているかによって明と暗に分かれ、そこに、さまざまに縁に導かれて、意識の現象の世界となって繰り広げられていく。
明の扉、暗の扉の開けた世界が、心によって創られている。苦しみも楽しみも
心の持ち方によって選択できるものである。
心のあり方が、人の経験とならない死後のことであるために、心の持ち方を理解できずにいる。

普通に天寿を全うして死を迎えれば、脳はぼけていき、死の恐怖を思わない。
自然に、死が恐怖となることがなくなり、意識は肉体を離れていくものとなっている。
それが、恐怖から離れられ、あの世が地獄とならなくなっていく。
普通に死んでいく(時期が来れば)のに、死は恐怖とならなくなっていくようになっている。

死ぬときに、きれいな花畑を思い出し、好きな人とのひと時を思い出し、楽しい思い出を描いていれば、
あの世は、そのまま楽しくきれいな世界が現象となっていく。
けっして心配してはいけない。
あの世に未練を持っていけば、未練が苦となって、苦しみの世界となってしまうためである。

心の持ち方は、死んでからでは適わない。なぜなら、時間を持たない、空間を持たない、変わらない世界となっているためである。
だから、生きてさえいれば、心のあり方をただせるために‘生きてさえいれば’というのは正しい。
コメント
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