つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

可能性

2011-03-05 | Weblog
生きているときだけ救われる可能性を持つ。死んでからでは救われることは無い。
それは、あの世が一切の反応を示さない世界となっているためである。どんなに願い祈っても
その思いが通じていくことは無い。絶対という世界であるためである。どんなに知ろうとしても知ることはできず、
生命の記憶の残らない世界である。輪廻までの時空の間であるが、変化の無い間であるために時間はゼロである。空間も無い。
決して知ることができないために、生命の空白の時間であるとして
空の世界という。あの世はこの世となんら変わらない世界である。それは、生前の記憶が現象されていく世界であるから。
記憶が現象してしまうために、現象された記憶は残らない。それは、縁によって再び生まれ変わったとき、何も知らない
真っ白な状態となり、生前を思い出すことができない。子供の姿となっている。
あの世、つまり、空白の世界で記憶が使われてしまったために、記憶がなくなってしまい思い出すことができなくなるのである。が、しかし、
時の無い世界であるために変化は無く、前世と来世の接点はくっついていることになる。たとえ何百何千何万と時が離れていても。
記憶はつながっている。接点に時空の隔たりがあっても無いのと同じなのである。衆縁和合、条件が満たされれば記憶はよみがえる。
エネルギーは不滅であるからで、それは、エネルギーで創られている法則そのものがなくならないためである。
そのようにしてエネルギーの記憶は現象されたのち、不滅なために常に若返っていく。満々と湛えた力そのものにかえる。それはエネルギーに
老化がないためである。空白の世界では、みんな若く整った姿になっていくのである。肉体という形あるものではなく、イメージの肉体である。
いくつも生まれ変わってきた人生の記憶の統一されたエネルギーが質となり、性格付けられていく。宿命となっていく。心となっていく。その判断で業となり縁を作っていく。
それを運んでいく命となっていく。運命である。位置づけられた命をどのように運んで生きていくかは、その人の心の判断である。
心にもとづき人は動かされていく。運命をどのように持っていくかで人生はあり、だから、運命は変えられるものであり、根本の宿命すら変えていくものとなっている。
どんなに善人であっても、時と場合によっては平気で悪を為すものである。それは、宿命によって今ある心というものは、
どうすることもできなく動かされてしまうためである。はじめのうち、
知らないために起こされた過ちの蓄積は、幾たびかの人生の中で改善されて、気づきの人生となって蓄積されていけば、
浄化されてよいエネルギーとなっていく。善い宿命となって、輪廻の苦しみから離れられていくものである。
そのために、人生は宿命を持って運命を生き、浄化するためにある。
無知であったために無明となっていた人生に、自ら灯明して、絶対変わらない世界、死後の世界を希望の世界としていくため、人は生きる。
生きているときだけである。苦しみの輪廻を絶てる術を学べるのは。
輪廻することの無い死後の世界こそ、生命の真実生きる世界である。それは極楽であり、永遠に変わらない世界となっている。
法則に善悪など無い。回る性質であり繰り返すものとなっている。すべてが元に返るために浄化となっている。これが絶対であり正しいとなっていくために絶対善となっているのである。
そのために、浄化することが正しいとなっている。善行は法に適い推奨されるのである。
難しいことではなく、易しい行なのである。知識など要らず、ただ善行に励んでいけば道理に守られて、覚られていくものとなっている。
覚りというのは、偉人、達人の為せる技ではなく、大衆のためなのである。
コメント
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