つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

ためされて

2011-03-14 | Weblog
弱り目に祟り目という。
悲しみや苦しみとに出遭い、辛く切ない思いを経験して、
二度と再びこのような不憫な思いはしたくないと、固く心に誓う。
時は半世紀ほど流れて、
平穏な日々を繰り返していく。幸せということが当たり前であり、便利であることが当然の如くにあって、
不思議とも思わなくなる。固く心に誓った悲劇の封印は、風化してポロポロとほころび始める。
あらゆるものとのつながりと、共存共栄を忘れ始め、まず自分の利を先んじる。
人の不幸は蜜の味と、知らず知らず欲がはりついて、競い争い蹴落とす社会が立ち上がってきたとき、
あちらこちらで歪が生まれ、補えど補えどがたがたと痛んだ姿になるばかり。
偽善がまかり通る世になってくれば、そもそも浄化の法則となっているエネルギーの法則との摩擦となって、
淘汰されはじめる。これは自然の道理である。
この道理を忘れて、驕り高ぶり、自然を人に合わせて変えていこうとしたとき、がたがたに痛んだ姿に、
踏んだりけったりの始末が現れる。

ミクロなものからマクロなものまで、偶然に出来上がったような形に見えても、実のところ
緻密に計らいがされ、形となっている。ある一定蔓延る悪魔があれど、支配することは無い。
それは、法則が善悪の無いものとなっているためである。

人は心で生きている。その心が邪に傾けば、常に修正される事態が生じる。
諸行無常であるために、戒め否められる。
試されて、心の無常を打ち破ったとき、突然の悲劇は二度と起こらない。
コメント
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