優れているものは少数。
どうでもいいものは多数。
価値あるものは少数。
無価値なものは多数。
常識としてあるものは多数にしてあるが、
非常識としてあるものは少数。
どこに
良い悪いを決めるのは多数にして決められるが、
多数が誤っていれば転倒した社会が現れる。
善が悪で悪が善となれば、すべてが悪だらけ、
地獄というのは、そういうところである。
悪が善となって正義となるために、正されることがなくなっていく。
どうか(同化)している社会、世界となるために、気が付かなくなってしまう。
気づくことがなければ、反省されない世界となっていく。
いまその時点に来ているが、法則の正義は善悪がないための絶対善の法則であるために、
必然正されていく絶対世界である。
この世は曖昧であるために、善悪どちらもあるが、あの世は記憶の現象世界であるために、
物理的な肉体はもう存在しない。記憶の現象肉体である。
そのために、記憶が正しい記憶(道理をよく知って善悪など無いとした法則)であれば正しい世界となって
善の世界、つまり極楽の世界が現象する。絶対であるために、この世のように曖昧は無い。
対するものがない極楽だけである。
この世でそう覚れるのは少数。貴重であり気高いものである。
どうでもいいものは多数。
価値あるものは少数。
無価値なものは多数。
常識としてあるものは多数にしてあるが、
非常識としてあるものは少数。
どこに
良い悪いを決めるのは多数にして決められるが、
多数が誤っていれば転倒した社会が現れる。
善が悪で悪が善となれば、すべてが悪だらけ、
地獄というのは、そういうところである。
悪が善となって正義となるために、正されることがなくなっていく。
どうか(同化)している社会、世界となるために、気が付かなくなってしまう。
気づくことがなければ、反省されない世界となっていく。
いまその時点に来ているが、法則の正義は善悪がないための絶対善の法則であるために、
必然正されていく絶対世界である。
この世は曖昧であるために、善悪どちらもあるが、あの世は記憶の現象世界であるために、
物理的な肉体はもう存在しない。記憶の現象肉体である。
そのために、記憶が正しい記憶(道理をよく知って善悪など無いとした法則)であれば正しい世界となって
善の世界、つまり極楽の世界が現象する。絶対であるために、この世のように曖昧は無い。
対するものがない極楽だけである。
この世でそう覚れるのは少数。貴重であり気高いものである。
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