唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 余門を例す (最終章)

2010-10-16 12:49:15 | 心の構造について

    第三能変 別境 ー 余門を例す ー

 「自下は第六に三性・第七に三界・第八に三学・第九に三断・第十に漏無漏と・第十一に報非報との等の諸門分別す」(『述記』第六本上・二十八左)

 『成唯識論』巻第五・別境の結びに、余門を例すとして、諸門分別が述べられます。

 「此の五を復、性と界と学との等きに依って諸門分別すること、理の如く思うべし」(『論』第五・三十五右)

 『成唯識論巻第五』

 (意訳) 此の五(別境の心所である、欲・勝解・念・定・慧)をまた、性と界と学と断と漏無漏と報非報との等分別することは、理の通り思うべきである。

 別境について、五門に分けて説明がされていました。

  1.  列名釈義門
  2.  遮遍行門
  3.  独並門
  4.  八識分別門
  5.  五受分別門

 これを以って別境の説明が終わり、巻第五は終わるわけです。その最後に、本来なら述べられなくてはならない第六門から第十一門などの諸門からの説明も、以上の五門と同じく、その理に由って考えるべきである、「理の如く思うべし」であるとして、諸門の説明は略しているのです。

 「述曰。自に任せて思を取るに、然も五数と煩悩・随煩悩と相応すること、有漏の善心と、或いは倶・不倶等ということ、下に自ら知るべし。煩悩等の中には欣と慼との行別なるを以ての故に。善の中には加行と生得との世と無為とを縁ずること別なるが故に。相応せざるに非ず。前の遍行の五は有心には必ず有り。明らかに一切に通じて皆遮すること無きが故に。但だ欲等に於て諸門分別す(『述記』第六本上・二十九右) 

 欣と慼(ごん・しゃく) - 欣は楽受と相応する、よろこぶ心。慼は苦受と相応する、うれう心。

 加行と生得 (けぎょう・しょうとく) 生得とは、生まれると同時に先天的に獲得されるもので、加行の対。加行は修行・努力・実践によってもたらされるものです。「三界の善心は、各々、加行得と生得との二種に分かつ」といわれています。生得慧(有漏智の一つで、生まれながらにして獲得されている智慧)・生得善(先天的に獲得される善)・生得智と云われ、後天的な加行に依って獲得される加行慧・加行善・加行智の対になる。修行の階位として第二段の位になる。第一段は資糧位で無上菩提に至るためのたくわえを集積する段階。その段階からさらに修行を深めていく段階が加行位です。世第一法ともいいます。世第一法は欲界の苦諦の理を縁じる段階。世間の汚れである存在(有漏法)のなかで最勝であるので、世第一法という。真理をさとる以前の修行の位で、そこで身につく慧を加行慧という 

 『成唯識論述記巻第六本上』 終

導本奥書には

 顕慶四年十一月二十五日於玉華粛誠殿三蔵法師玄奘奉 詔譯 

                  飜経沙門基筆受

 模写明詮僧都之導本  安和元年十月十六日点此巻畢

                         興福寺沙門真興と記されています。尚、この記載については若干の問題もあるようですが、唯識を学ぶ上では支障があるわけではありませんので、省略します。歴史的な勉学しようと思われる方は、深浦正文著 『唯識学研究 下』(永田文昌堂発行)・富貴原章信著 『日本唯識思想史』(大雅堂発行)を紐解いてください。

 次からは『成唯識論』巻第六に入ります。善・煩悩・随煩悩・不定と記されていきますが、大方の説明は前にしています(善については2009年10月12日の書き込みより、煩悩については2010年1月7日・随煩悩については2010年1月21日よりの書き込みになります。)ので、省略させていただいて、『唯識三十頌』第十五頌から学んでいきたいと思います。

 『唯識三十頌』 第十五頌

  依止根本識 五識随縁現

  或倶或不倶 如濤波依水

  (五識・意識は阿陀那識に依る。種子は因縁依・現行は増上依。五識は種子を内縁とし、作意・根・境等を外縁として生ず。或いは五識と倶なり。或いは一・二・三・四の識と倶ならず。濤波の水に依るが如く、五識は第八識に依るのである。)