第三能変 別境 ・ 八識分別門 (4) 護法の正義
(2) 五識に定が存在することを述べる。そして問題点を会通する。
五識に定が存在することを述べる
「作意して念を一境に繋けずと雖、而も微劣に専注する義有るが故に」(『論』第五・三十四右)
「述曰。五識には第六識の如き、加行の意を作し、念を恒に一境に繋ける定なしと雖も、亦六に引かれて微劣に現境に専注する義あり。故に定と倶なること有り。雑集論(巻七)の中には、有漏の五識は能く三摩?多(さんまきた)の等引に入ることの定を遮す。三摩地の等持の定を遮せざるなり。謂く等持は定散に通ず。ただ境に専注する義なり。等引はただ定心なり。作意して専注するが故に。」(『述記』第六本・二十五右)
三摩?多(さんまきた) - ?(き)には休息するという意味があり、samahitaの音写。心を統一したという意味。定の異名。等引と漢訳する。定に七つの名称があるうちの一つ。身心の安らかな平等を引き起こすこと。
また『述記』には等引(三摩?多)・等持(三摩地samadhi)・等至(三摩鉢底samapattiさんまぱってい)について詳細に説明がされています。
「等引というは、(1)等を引くが故に等引と名づく。謂く、身心の中にあらゆる分位の安和の性にして、平等なる時、これを名けて等となす。此れは定力に由る。故にこの位に生ず。等を引生する故に名づけて等引となす。(2)等に引かるるが故に等引と名づく。謂く、在定の位の身心の平等なることは、前加行の入定の時の勢力が(惛)沈・掉(挙)を制伏するによるなり。これを名づけて等となす。この等が在定の分位を引生す。この在定の位の定の数は、前加行に従って名をえたり。名づけて等引となす。等よく引くが故に。
その等持というは、平等に心等を持して、ただ境において転ず。名づけて等持となす。故に定と散に通ず。
その等至というは、またニ義あり。(1)に云く、等に至るなり。謂く在定の定の数の勢力をもって、身心をして等しく安和の相あらしむ。此の等しき位に至るを名づけて等至となす。(2)に言く、等より至る。前加行に沈・掉等の能力を伏せるによって、この安和の分位に至る。名づけて等至となす。此れは等引と大義は少しく同なり。
梵に三摩?多という。此には等引という。三摩地というは此に等持という。三摩鉢底というは、此に等至という」(『述記』第六本二十五右)
三摩地(さんまじ) - 三昧とも音写。心を一つの対象に集中させる心作用。等持と漢訳される。定の心所の力が身心を平等に保つこと、その境地において心を専注せしめること。『二巻抄』には「三摩地の心所とは心を何事にても知らんと思う事に止めて散乱せしめざる心なり。是をば亦は定の心所と名く」といわれています。
三摩鉢底(さんまぱってい) - 等至と漢訳。精神統一の力によって心が安らかに平等となって状態をいう。
五識に定が存在するというのは、五識は作意して、念を一境にかけないとはいっても、しかし、微劣に専注する義があるのである。欲・勝解・念と同様に、五識は第六意識に引生されるものであるというのである。
問題点を会通する
「等引を遮するが故に性散動なりと説けり、等持を遮するには非ず、故に定ある容し」(『論』第五・三十四右)
(意訳) 五識が等引の定に入ることを遮するために、五識の性が散動(散乱)であると説いているのである。これはなにも等持を遮するものではない。五識が等持の定に入ることを否定するものではないからである。よって五識に定は存在し得るのである。
「等引を遮するが故に性散動なりと説けり」と『対法論』(大乗阿毘達磨集論)巻第一(大正31・665b・09)原文は「云何自性散亂。謂五識身」(五識身の自性は散乱なり)と、説かれている。もしそうであるならば、それは、五識に定の心所は存在しないことになる、という疑問が起こってくることに対しての応答がこの文になります。尚、巻第七の記述は上の『述記』に述べられています。「等引に入ることの定を遮す。三摩地の等持の定を遮せざるなり。謂く等持は定散に通ず」と。等引という定に入ることを否定するために、五識の性は散動である、と説いているのであって、等持という定に入ることを否定しているのではない、という。等持は定散に通ず、といわれるように、等持は定と散に通ずる名であって、自性散乱であるという散の状態の五識においても、等引(とは、定に限られた名称)は否定されても、等持の定は否定されない、従って五識に定は存在し得ると述べているのです。
尚、定の七義は『了義灯』に述べられていますが、後日に譲ります。