唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 八識分別門 (6) 五識に慧が存在することを述べる

2010-10-07 22:41:28 | 心の構造について
 第三能変 別境 八識分別門 護法の正義を述べる (4)
      - 五識に慧が存在することを述べる -
 「所縁の於に推度(すいたく)すること能わずと雖も、而も微劣に簡択(けんじゃく)する義有るが故に。此れに由って聖教に、眼耳通(げんにつう)は是れ眼耳識(げんにしき)と相応する智性ぞと説けり。余の三も此れに准じて慧有りというに失(とが)無し」(『論』第五・三十四右)
 
 「述曰。五識は推度して深く取ること無しと雖も、亦微劣に簡択するの義有り。故に慧倶なること有り。此に由って『大論』の六十九に眼耳の二通は是れ二識と相応する智と説けり。前師此れを解することは前にすでに説くが如し。既に二識に慧有るが故に。例するに余の三識も亦然らず。或いは是れ無記或いは生得の慧なり。或いは加行の慧なり。聞思修の所成は即ち彼の類なるが故に。『仏地論』巻三に、漏尽と神通とを除き余の通は妙観察智なりと説くは、眼耳と倶なる意もまたこの二通なるを以ての故に、多時に相続して間断せざる故に、五識は数間断するが故に、唯だ意のみと倶なりと説くことは、多分に妙観察智の摂するなり」(『述記』第六本上・二十六右)
 
 (意訳) 前に述べた別境の心所である欲・勝解・念・定と同様の理由に由って。五識は所縁に対して推度することが無いとはいっても、しかし微劣に簡び択ける働きがあるからである。何故なら、五識は第六意識に引かれて引き起こされるからである。よって、五識に慧の心所は存在し得るという。これに由って、『大論』(『瑜伽論』巻六十九には「天眼通と耳通は、眼識と耳識と相応する智性である」と説かれている。また余の三である鼻識・舌識・身識も、此れに准じて五識に慧有りということに過失はない、と。慧の心所である智が、五識と相応するということは、とりもなおさず、慧と五識が相応することの証拠となる、ということを以て、護法の論拠としている。 (未完 ・ 『演秘』の記述を読みます)