唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(13) 触の心所 (12)

2015-09-08 22:13:48 | 初能変 第三 心所相応門


 明後日(10日)、八尾市本町、真宗大谷派 聞成坊において、『成唯識論』講義を午後三時より行います。有縁の方々足をお運びください。

  補足説明
 『倶舎論』第十四頌後半から、第十五頌において五蘊についての釈が述べられてありますので、読んでみたいと思います。
 「受領納随触 想取像為体 四余名行蘊 如是受等三 及無表無為 名法処法界」(受は随触(ずいそく)を領納(りょうのう)す。想は像を取るを体と為す。四の余を行蘊と名く。是の如き受等の三と、及び無表と無為とを、法処法界と名く。)
 受蘊は随順する触を領納する。想蘊は心の内に想い考えることを体とする。第三句は行蘊、色・受・想・識の四蘊以外を行蘊と名づける。
 「如是受等三 及無表無為 名法処法界」の三句は、処界門を示している。受・想・行と無表色と無為法、これらすべてが十二処では法処、十八界では法界に摂められる。
 色蘊は五根・五境と無表色との十一種であるとし、五根五境を十二処では十処、十八界では十界とすると説明されていますが、この科段では、受・想・行の三蘊は、十二処、十八界ではどこに摂められるのであるのかを説明しています。
 第一句は受蘊についての説明です。
  受は、苦・楽を感じる感受作用で、領納といいます。触を領納するのですから、領納随触といわれます。境が触れたその触を受け入れ感受作用を起こす。即ち、苦境が触れると苦触を起こし、苦受を生ずるという。反対に楽境が触れると楽触を起こし、楽受を生ずる。この受に、苦受と楽受と非苦非楽受(捨受)との三受がありますが、さらに苦受を苦受と憂受に、楽受を楽受と喜受とに分け、全部で五受に分けられて説明しています。苦受と楽受は感覚的なもので、五感覚と共に働き(身受)、憂受と喜受は分別作用と共に働く(心受)といわれています。
 第二句は想蘊
  想は、対象が何であるのかを知る知覚作用。「像と取るを体と為す」、また「想とは、謂く境の於に差別を取る相なり」と定義されます。言葉(名言)によって対象を、「これは男性であって、女性ではない」というように、明確に知覚するといわれます。六根に依って六想をわけることができます。
 第三句は行蘊  
 色・受・想・識の四蘊以外を行蘊と名づけられます。不相応行をも含めます。即ち、心所の四十四法と不相応行の十四法の五十八法が数えられます。
 受・想・行と無表色と無為法、これらすべてが十二処では法処、十八界では法界に摂められ、法処・法界は四十六の心所と十四の不相応行、無表色と三無為法の合計六十四法であるとされます。
 十二処・十八界の説は、主観と客観を結びつけるものは何か、どうして認識が成り立つのかを、根・境・識でもって経験的世界のすべてを表そうとしたものなのです。根は識の依り所であり、境は識の対象、識は根を依り所とし、境を対象として、認識を成り立たせているのですね。
「又諸の有為法は 謂く色等の五蘊なり 亦は世路と言依と 有離と有事等となり。」(第七偈)(諸の有為法とは、色等の五蘊である。亦(有為法の異名)は世路と名づけ、有離と名づけ、有事等という。)
 初めに色等の五蘊が有為法であることを述べます。五蘊の中には無為法は入らないのです。七十五法の内七十二法が五蘊です。次に有為法の異名(同義語)を挙げます。
• 世路(せろ) - 世は、「時」の意、三世(過去世・現在世・未来世)をあらわし、路は所依で有為法を指します。有為法はすべて三世の為に所依となり、世の路となる(依主釈)。三世は有為法を別にしては存在しないということから、世路は有為法の別名になります。
• 言依(ごんえ) - 「言」とは語られた言葉、「依」とはよりどころという意味。有為法は言葉が生じるよりどころとなるという意味で言依という。
• 有離(うり) - 有為法は有(煩悩)を離れることによって涅槃を得ることができるから有離という。
• 有事(うじ) - 事は因のこと。因を有するもの。有為法は因より生じ、因を有することから有事という。
 有為法の異名を挙げ、次いで有漏の異名を説きます。
 「有漏を取蘊と名づく 亦は説いて有諍と 及び苦と集と世間と 見處と三有等と為す。」(有漏を取蘊と名づける。亦は有諍と名づけ、苦と集と世間といい、見處という。そして三有とも称する。)
• 取蘊(しゅうん) - 「取」とは煩悩のこと。五取蘊の取蘊。「蘊」(自己存在を構成する五つの要素の集まり。)は、取より生じる、或いは取に属する、或いは取を生じるから有漏法を取蘊という。
• 有諍(うじょう) - 煩悩を諍といい、煩悩を有するものという意味。善を排除し自己と他者とに損害を与え、闘争を増大するもの。煩悩を増大するものが有漏法であり、有を増大という意味で解釈されます。
• 苦 - 有漏法は聖者の心に違することから苦という(苦諦)。
• 集(じゅう) ―有漏法は苦果を集めることから集という(集諦)。自己へ執着し欲を起こして苦を生じる原因を集積することから、集という。
• 世間 - 世間・出世間の世間のこと。時間と空間とに束縛される現象的存在を世間という。三界からなる世界のことで、この三界は、言葉が通用する世界、煩悩が渦巻く世界、真理が覆われている世界のことで有漏法の別名となる。
• 見處(けんじょ) - 見は、あやまった見解のこと。根本煩悩の中の悪見のことで、薩伽耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見の五つで五見のこと。有漏法は五見の所依であることから見處という。
• 三有(さんう) - 三界のこと。欲界・色界・無色界における迷妄的生存をいう。
 私たちは、三有生死ともいわれる迷いの境涯を住処としているのですが、三有生死を離れるというのが仏道の目的になります。親鸞聖人は「信巻」横超断四流釈において「断」ということを特に強調されています。「断」ということは真宗の教学の中では余りいわれることはないように思うのですが、三有生死は断ずべきものとして語られています。
 「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。」(「信巻」真聖p344)

 『浄土文類聚鈔』の『念仏正信偈』には「三有生死の雲が晴れる」と教えてくださっています。

      弥陀仏日普照耀、已能雖破無明闇、
      貪愛瞋嫌之雲霧、常覆清浄信心天。
      譬猶如日月星宿、雖覆煙霞雲霧等、
      其雲霧下明無闇、信知超日月光益。
      必至無上浄信暁、三有生死之雲晴、 (真聖p411)

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