今回は熏習とは何かについて学びます。
どのような理由から熏習という名を立てるのか。それは所熏(熏じられるもの=阿頼耶識))と能熏(熏ずるもの=七転識)に各々四義を備えて種子を生(新熏種子)・長(本有種子)するが故に熏習と名づけるのであると説明されます。
種子論では、色は色という自己の種子を熏し、生じるときも同じ自己の色の種子から生じ、心は心の自己の種子を熏じ、生じるときも同じ自己の心の種子から生じる。けっして色から心が生じたり、心から色が生じるということはない。よって因果の道理に錯乱はないことを明かに説いていました。
これを受けて、熏習に所熏の四つの性質と、能熏の四つの性質を明らかにしたのです。ようするに、熏習されるもの(所熏)と熏習するもの(能熏)とに分けて説明し、所熏になりえるものと、能熏になりえるものの特質を述べているのです。
所熏の四義は『摂大乗論』にも説かれているのですが、能熏の四義は『成唯識論』独自の解釈になり、『摂論』を受けて『成論』が成立し、『成論』の背景に『摂論』があることがわかります。所熏の四義を備えたものが阿頼耶識なのです。 阿頼耶識を立てて初めて人間存在が立てられるのですが、これは唯識以前の仏教が六識で考えられていたと云う背景があります。
つまり、意識の根拠、即ち意根の存在証明が不十分であるということなのです。眼識は眼根を所依とし、乃至身識は身根を所依とするわけですが、第六意識の所依は意根である。その意根は前滅の識を所依として成り立つと説明されるのですが、経験の積み重ね(種子)はどこに収まるのかの説明がつかないのです。
無始以来の一切の経験が蓄積されている場所の説明ですね、表層の意識の奥深い所、深層に人間の非常に深い心があるのではないのかという眼差しが阿頼耶識を見出してきたのでしょう。そして阿頼耶識が阿頼耶識と名づけられるのは一切種においてであり、阿頼耶識はまた一切種識と呼ばれる所以なのです。
無始以来(曠劫以来といってもいいでしょう)の一切の経験の蓄積されている場所はどこにあるのか。これが所熏の四義になります。六識が六識が成り立っているのではなく、六識の行為を残し、蓄積していく場所があって、はじめて六識が生きて働いているのであることを明らかにしてきたのが大乗仏教であり、とりわけ唯識仏教であるわけです。
心の構造の重層性を明らかにしたのです。
熏の説明ですが、
熏と云うのは、発(ほつ)、或は由致(ゆち)であり、習と云うのは、生であり、近(ごん)でり、数(しゅ)である。つまり種子の果を本識の中に発し致して、本識中に種子をして生じ近ならしめ生・長せしめるからである。
説明しますと、
發とは一般的には、起こすこと、生じることを意味しますが、熏習論についての発には二つの意味があり、一つは開發(かいほつ)、(新熏種子を)初めて開きはっきりとさせることを熏といい、もう一つは繫發(けほつ)、繋は、つなぎとめること。本有種子であれば熏というという意味を持ち、本有種子をつなぎとめ生じることを熏という。
無始以来、本有種子を心の中につなぎとめ相続し現行を生じて熏習していることが繫發という意味になり、現行から新たに生じてくる新熏種子を開發という言語でいい表しているのだと思います。
「由」とは、所由(しょゆう))の義であって、いわれ、理由です。「因と言うは即ち所由なる故に種子を謂う。」ということですが、ここは、能熏の七転識は種子を第八識に熏習し、種子は、種子生現行として、現行を生ずる本となることをいっています。
「致」とは「いたす」ということ、ある状態に至ることを意味します。能熏の種子を第八識に植え付け熏習させる働きを「致」と表現し、「近」は刹那滅のことを、近く現行の果を生ずる表現として用いられ、「數」は「しばしば」といわれていますように、數數熏習してという意味になります。
今回は言葉の説明になりました。でも言葉を理解しておかないと、先に進むことが出来ませんので煩雑ではありますが、復習をお願いいたします。
また、
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