唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感 法然上人に学ぶ (1)

2014-12-05 19:49:03 | 法然上人に学ぶ
 法然上人に学ぶ
『選択本願念仏集』    源空集                     南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本 (往生の業には念仏を先とす・本とす)
 最初に標題が掲げられています。法然(法然房源空)上人はなぜ「選択」をされたのでしょうか。それには法然上人の生い立ちとその時代相、そして仏教が生きて働いていたのかをを検証する必要がある。
 仏教の歴史から仏教は私たちに何を伝えてきたのか。仏教は非常に難しい。煩雑であり宗派もたくさんあって何が正しいのかわからないという声をよく聞きます。巷に言われますように仏教はわかりにくいのも確かにあるでしょう。それは仏教がわかりにくいのではなく仏教を伝えてきたほうに責任があるようです。
 親鸞聖人は「念仏成仏是真宗」と明瞭に言い切っておられます。これ以外に成仏する方法はないのです。法然も標題においてはっきりと往生の業(人間が人間として生きていく生活)は念仏を本とするのであると教えてくださっています。それ以外に往生の業はないということです。 念仏は南無阿弥陀仏と唱えることですが、南無阿弥陀仏はインドの言葉を音写しただけのことですのでそのものに意味はありません。元の言葉はナモアミターユス・ナモアミターバーということで直訳すると「限りなき光と限りなき命の覚者に帰依します」ということになります。私たちは限りある命を生きていますがその自覚はありません。他の死は認識していますが自分は死ぬとは思っていません。ここでは阿弥陀仏に出会うことによってはっきりと「生あるものは必ず死すものである」と自覚させられることにあります。「死」と真正面に向き合うことができたとき私たちは「今」の生が生き生きと輝いてくるものであるということなのです。それ以外の方法をもってしては理論はいくらでも構築することはできると思いますが充実した「生」を送ることは不可なのです。 
 「今」の「生」がはっきりするということはどのようなことなのでしょう。私が生まれ育てられそして今日までに至り、未来際を尽くしていける道がはっきりしたということでしょうか。そのこと一つをはっきりするためにはあれもこれもという教えが必要というわけにはいきません。そこに「選択」という意味があるようです。「選択」とは選び取るという意味ですが、選び取るということは選び取った以外は捨てるということなのです。古来このことを「廃立」(はいりゅう)といいます。「南無阿弥陀仏」を選びそれ以外は捨てるという覚悟です。「往生の業」にはこれ以外に道はないということなのです。「往生の業」とは「死して火葬場一直線の生きかたではなく、必ず浄土に生まれる確信を持って生きうることができる生の営み」であろうと思います。このこと一つを仏教二千年の歴史の中で声たからかに宣言されたお方が法然上人なのです。
 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」(『歎異抄』)と法然上人の御弟子親鸞聖人は述解されています。その親鸞聖人の確信は盲目ではないということです。世間の宗教を名乗る団体には師弟不二と称して盲目的信心を強要するということもあるようですが(宗教団体のほとんどが多かれ少なかれ自分のエゴを満足させたいとする人を利用していると思えてなりません。)盲目的ではないということには覚悟が必要なのです。先ほどの文章につづいて親鸞聖人はご自分のお覚悟をお延べなっておられます。
 「念仏はまことに、浄土にうまるるたねにたやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし。」(『歎異抄』第二条ー真聖P627)と。
 親鸞聖人は法然上人との邂逅のなかで「ただ念仏」の道に立たれました。この「ただ念仏」の道を確立されたのが法然上人なのです。「現世をすぐべき様は念仏のもうされんように生きるべし」(『和語灯録』)と主張されたのです。私は法然上人までに届いた仏教が道を外れていたと思うのです。それは万人救済の道であるはずの仏教がいつの間にか逸脱をして出家者だけの特権になっていたことを痛烈に批判されたのであろうと思います。しかし痛烈に批判された方はたまりませんね。南都北嶺からの念仏弾圧にはすさまじいものがありましたが後にまた触れたいと思います。一言だけふれておきますが、法然上人はこの事態はすでに予測されていたのです。「選択集」結びにおいて次のように述べておいでになります。
 「庶幾(こいねが)はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋めて窓の前に遺すことなかれ。おそらくは破法の人をして、悪童に堕せしめざらむがためなり」(『選択本願念仏集』-P189) 以後『選択集』と記す   
 恵信尼消息には親鸞聖人が山を出でて(日本仏教の聖地、比叡山)六角堂に百日こもられ、後世を祈られ、生死いづべき道を捜し求められた様子が生き生きとと語られています。山を降りるということは山での修行の挫折を意味します。そこにはもはや生死を解決する道筋はないと覚悟されたのでしょう。山では想像を絶する修学をされたのでしょうから、論理的には人はなぜ苦悩し苦悩からの解放はいかにしてなされるべきかは十二分にわかっておいでになったはずです。にもかかわらず苦悩からの開放、苦悩に立つことができないのか、死をかけた戦いが親鸞聖人の胸中を駆け巡っていたのではないでしょうか。それに先立って法然上人もすべての人が救われる教えを見出すべく苦闘されていたのでした。一切経を五偏も読まれたと伝えられています。承安5年(1175年7月)善導の『観経疏』散善義の文「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に」の文に接しられ「ただ念仏」の道に立たれたのでした。これが偏依善導一師(ひとえに善導一師に依る)といはれる所以です。これ以後、比叡山を出でて京都東山のふもと大谷の地に住まわれることになりました。
 「念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。しからば則ち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願としたまふか。
 もしそれ造像起塔をもって本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望みを絶たん。
 しかも富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。
  もし智慧高才をもって本願とせば、愚鈍下智の者は定んで往生の望み絶たん。
 しかも智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。
 もし多聞多見をもって本願とせば、少聞少見の輩は定んで往生の望みを絶たむ。
 しかも多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。
 もし持戒持律をもって本願とせば、破戒無戒の人は定んで往生の望みを絶たむ。
 しかも持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。
 自余の諸行、これに準じてまさに知るべし。(『選択集』-P52)
 法然上人は貴族支配の平安末期から武士が台頭しての武家支配へと移行する混乱期に青壮年期を過ごされていました。いわゆる源平の政争による戦乱に明け暮れていた時代であったのです。仏教の歴史観である末法の到来を身をもって感じておられたのではないでしょうか。「末法にいりて、百年にみたざる」(『往生大要鈔』)時代であると述べておいでになります。当時の教界、比叡山天台仏教ではもはや一切衆生を救う手立てを持っていないという実感を持っておいでになっていたのではないでしょうか。「聖道の諸教は在世正法のためにして、またく像法法滅の時機にあらず。すでにときをうしなひ、機にそむけるなり。」(『教行信証』化身土巻)南都北嶺の仏教が時を失い、機にそむいてしまっていたのです。時機相応の教えでないということを露呈していました。法然上人の修道は天養二年(1145年)から承安五年(1175年)までの三十年間でしたが、籠山の制にしたがっての修道でした。(嵯峨清涼寺に参籠するまでの十二年とさらに研鑽をつんだ十八年に修学が分けられています。前半の十二年は師についての修学期であり後半の十八年は「よろづの智者にもとめ、諸の学者にとぶらう」求法期でありました。)その厳しく激しい修道のなかでもほうねんしょうにんの「生死出離の道・すべての人が救われていく道」を見ですことはできなかったのです。さりとて伝統教団に身をおき天台座主をめざす名聞利養のなかに自身を埋没させることなど、もってのほかのことであったのでしょう。そのような中から見えてきたのは
 「凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとえば猿猴の枝につたふがごとし、まことに散乱して、動じやすく、一心しづまりがたし。無漏の正智、なにによりてかおこらんや。若無漏の智剣なくばいかでか、悪業煩悩のきづなをたたずば、なんぞ生死繋縛の身を、解脱することをえんや。かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん。ここに我等ごときはすでに戒定慧の三学の器にあらず。」という「生死繋縛の身」であるという自身の姿を鮮明に見出された、その時に「かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん」という言葉がほとばしり出たのでしょう。そこに法然上人の一途さを伺うことができます。もはや伝統教団の修道に身をおいておくことはできないという、そこには聖道仏教との決別を意味しているのではなかったか。その決別を決断させたのが善導の教示であったのです。
 法然上人の課題はひとえに生死解脱にあった。そのことは『選択集』を結ぶにあたって『選択集』の要約を八十一字を持って示されています。
 「夫速欲離生死、二種勝法中、且閣聖道門、選入浄土門。  [それ速やかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣(さいお)いて、浄土門に選入すべし。]
 欲入浄土門、正・雑二行中、且抛諸雑行、選應帰正行。 [浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行の中に、しばらく諸の雑行を抛(なげす)てて。選びて正行に帰すべし。]
 欲修於正行、正・助二業中、猶傍於助業、選應正定。 [正行を修せんと欲はば、正・助二業の中に、猶助業を傍らにして選びて正を専らにすべし。]
 正定之業者、即是称仏名。称名必得生、依仏本願故。 [正定の業は即ち是れ仏の名を称するなり。称名は必ず生を得。仏の本願に依るが故なり。] (真聖全一P990)
 人間の課題は、ゆうなれば「夫速欲離生死」しかないのではないですか。「生きることが」問いとしてわが身に迫ってきたとき「悠長なこと」は言っておれないのではないでしょうか。生きている時は『今』しかないのですから。「速」はどのようにしたら成り立つのかが最大の課題であったのでしょう。            


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