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第八阿頼耶識は、無覆無記なりと結ばれましたが、では、無覆とは?無記とは?如何なることなのかという疑問が出てきます。この問いに答える形で、無覆無記の名義について説明されます。
阿頼耶識は無記だというところに、僕は救われるのです。若し、阿頼耶識が善であるか、悪であるかが一方的に決定されていましたら、僕はここに生きる術を失ってしまいます。自分から言えることではないですが、過去の経験のすべてが許されてある、過去の経験を引きずって、背負って現在の姿があるわけですが、その全体が無記性ですよ、と。今あなたは何処に向かって歩を進めているのですか。過去の為した業は消え去るもではありませんし、悪業が許されるということはないでしょうが、菩提を求めることは許されてある。そこに僕は限りない恩徳を感じます。そして慚愧をいただきます。
人倫の道にはずれるようなことを平気でしてきたわけですから、いつ闇に葬り去られても文句はいえないんですね。また過去を見つめます時に、胸が痛むわけです。「あんた勝手なことをしてきて、いまさら何をいってんねん」と言われるでしょうね。墨林さんはよくご存じだと思いますが、そんな僕でも、仏法を聞ける、聞くことを許されている。過去の悪業を許してもらう為に仏法を聞いているわけではなく、過去の悪業に向き合って、無記の貴方が、人間として菩提を求めよという声を聞けという催促に耳を傾けていくことが、生かされていることへの応答ではないのかなと思うことです。
無覆無記の名義について。最初は覆について解釈されます。
(1) 覆とは、覆障。
(2) 覆障の体は、染法。
(3) 何を覆障するのか、聖道を障へる。
「覆と云うは、謂く染法ぞ。聖道を障へるが故に。(『論』第三・五左)
「述して曰く、何をか無覆と名づけるとならば、覆と云うは覆障ぞ。体は即ち染法なり。覆の義は如何ぞ。聖道を障えるが故に。」(『述記』第三末・三十二右)
覆というのは、覆障という意味であり、(煩悩等が)心を覆い隠してその心を不浄にしてしまう。だから覆は染法であり、染法は聖道を障礙することになりう。仏道の妨げになるということですね。
「又能く心を蔽って不浄なら令むるが故に。」(論』第三・五左)
覆とは、心を蔽いかくしてその心を不浄にしてしまうということ。それが覆の指し示している意味だと。
漢字の読みも分からんのかと言われそうですが。