唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (60) 三性分別門

2014-09-25 22:09:06 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門

 本科段より、三性分別門に入ります。

 十の根本煩悩のそれぞれは三性(善・悪・無記)ではいずれになるのかを論じるところになります。

 「此の十の煩悩は何れの性にか摂めらる。」(『論』第六・十九左)

 三性とは善悪の問題です。そして善の煩悩は無いんですね。煩悩には悪のものと、有覆無記のものと、ただ有覆無記のものとがあることを論じられます。

 私たちは煩悩といえば直ちに悪のもの、身を煩わし、心を悩ますものとして捉えがちですが、根本煩悩を分析していきますと、煩悩と三性の関係、そして三界との関係について明らかになってきます。

 「瞋は唯不善のみなり、自他を損するが故に、余の九は二に通ず。」(『論』第六・十九左)

 瞋はただ不善(悪)のみである。何故ならば、自他(現世と他世)を損するからである。他の九は不善と有覆無記の二つに通じる。

 『述記』によりますと

 「瞋は唯不善の一性に摂めらる。起らざれば即ち已むべし。起る時は必ず自他を損する。現世と他世に皆損と名づくるが故に。余の九は二に通ずとは、此は総じて言うなり。」

 (「論。瞋唯不善至餘九通二 述曰。瞋唯不善一性所攝。不起即已。起必損自・他。現世・他世皆名損故。餘九通二。此總言也。」(『述記』第六末・四十四左。大正43・3452c)

 瞋は現世と他世を損する(傷つける)ということで、唯不善である、と述べられてあります。瞋は唯欲界のみの煩悩であり、怒りが有るということは正しく欲界にうごめく有情ということなのですね。瞋は倶生起のものと分別起のものとが阿存在しますが、欲界のみの煩悩であるということです。ですから前六識に働く煩悩で、第七識・第八識には働きません。

 瞋とは、「苦と苦具とに於て、憎恚するを以て性と為し、能く無瞋を障え、不安と悪行との所依たるを以て業と為す」心所である。

 「苦と苦具とに於いて」、瞋という煩悩が起きるのだと言われているのです。苦は四苦八苦といわれますように、今の自分が壊れるのではという不安からくる苦ですね。(壊苦)。それ自体が苦である(苦苦)。それから行苦です。自分が常にあるという思いがありますが、本来は無常・無我ですね。そのギャップに苦しむのだと言われているのです。この三苦を苦といわれるのです。苦具は苦を生ずる原因となるもの、苦を生んでくるすべてですね。それが心を激しく乱すわけです。怨みですとか、嫉妬ですね。これ等が激しく心を乱し怒りを生んでくるのです。「一切能生活者」といっていますね。性は「憎恚」するといわれます。憎み怒るということです。怒るということはもう鬼の形相ですね。相手を睨みつけて、威嚇していますね。怒ったときを想像してみますと、眼を見開いて睨みつけていますでしょう。この心を瞋というのです。そして根に持つということがありますね。いつまでもですね。これを恚というのです。『成唯識論』には「苦・苦具とに於いて、憎恚するを以って性と為し。能く無瞋を障へて、不安と悪業との所依たるを以って業と為す。謂く瞋は必ず身・心をして熱悩して諸の悪業を起さ令む。不善の性なるが故に」と教えています。
親鸞聖人は煩悩の身を生きる者を凡夫といわれていました。「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』真聖p545)と凡夫の心の内実を自身の身の上に於いて明らかに指し示してくださいました。この心の状態は日常的に起こっているもので、私の心のあり方を言い当てられています。鋭く厳しい指摘は「ひまなくして」ということです。いつでもですね、真実を知ろうとする心を徹底的に妨げるのです。欲もおおく、貪欲です。怒り、腹立ち、そねみ、妬む心は瞋恚ですね。それが臨終の間際まで絶えず、きえずといわれていました。煩悩の天敵は求道心・菩提心なのです。真実を知られたくないのです。ですから徹頭徹尾真実をしろうとするこころを妨害します。そして真実でないものを真実と思い込ますのでね。私はそれを頼りに生きているのです。この間の事情は善導の二河白道の譬えが絶妙に語っています。「月日は百代の過客にして、いきかう年もまた旅人なり」といわれますように人生は当てのない放浪の旅のようです。その中から一筋の光を求めて自分探しをするのも人生の大切な事ではないかと思うのです。自分探しをする時「自己とは」という問いの前に道を塞ぐように貪・瞋の煩悩が行く手を遮るのです。私の人生の中で初めて具体的に煩悩が問題になるのですね。二河白道は貪・瞋の煩悩を水火の譬えで言い表しているのです。「一切往生人等に白さく」と。求道心を持って道を歩む人ですね。真実を求めて歩いた途端、自分の中から障碍する貪・瞋の煩悩が頭をもたげてくるのです。ですから私の中から「能生清浄願往生心」(能く清浄なる願往生の心を生ぜしむる)が起こって来るわけは無いのです。「生ず」とは云われていませんね。「生ぜしむ」と云われ、ここに法蔵願心を思わずにはおれません。「設我得仏・若不生者・不取正覚」という願心ですね。私が目覚めるまで、どこまでも、地獄のそこまでも、あなたと共に流転していきましょう、という願心に限りない慈愛を感じますし、限りない恩徳を感ぜずにはおれないのです。親鸞聖人はこの「心」を「無上の信心、金剛の真心を発起するなり。これは如来回向の信楽なり。」と如来回向の信を明らかに指し示してくださいました。「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」(真聖P225)は私のことを言い当てているのですね。この心に「今」決着をつける時なのではないかと思います。決着をつけた時、一つの白道が開かれてくるのではないでしょうか。この道を歩めというわけですね。なぜかといいますと、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」と。いずれの道を選んでも「死」とまぬがれることは無いと云うことです。仏法不思議といいますが、聞法の縁ははかりしれないのです。縁無量ですね。よき人とのち値遇によって「我が身」が問われることになるのです。この時、死の問題が眼前に迫ってくるのです。死の問題はイコール生の問題であるわけです。生きることの意味が問われているのです。三定死の眼差しから歩むべき道が見いだされるのではないかと思います。それが「往生極楽の道」を問うということであり、「すでにこの道あり、必ず度すべし」ということに頷くことなのではないでしょうか。そして「我寧くこの道を尋ねて前に向うて去かん」という歩むべき道が定まるのです。「本願力にあいぬれば/むなしくすぐる ひとぞなき/功徳の宝海みちみちて/煩悩の濁水へだてなし」と、釈迦の發遣・弥陀の招喚の恩徳を謳われています。

 

 

 


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