唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第五 三性分別門 (8) 第三に無覆無記の名を釈す。(3)

2015-11-03 22:13:03 | 初能変 第五 三性分別門
  「吾が心 深き底あり 喜も憂の波も とどかじと思ふ」

 「心を蔽(オオ)いて不浄(フジョウ)ならしむ」の解釈に、二つあると慈恩大師は注釈をつけておられます。
 法性心と依他心です。大雑把にいいますと、煩悩が心を蔽うことなのですが、覆うには蔽われる理由があると述べられています。問題は私にあるということなのです。貪れば貪る心に蔽われ、瞋れば瞋る心に蔽われ、愚痴れば、愚痴る心に蔽われるといいます。蔽覆(ヘイフク)或は、覆障(フクショウ)は私の心を蔽ってくるのではないということなのですね。ここにも、阿頼耶識は無覆無記であることの証明がされてあります。私の方に、貪る心、瞋る心、愚痴る心があるということが因であり、縁にふれて現行してくるわけです。この構造を知ることにおいて、転ずる世界が開かれてくると教えられているのですね。逆に言うと、知らなければ、闇とも知らず。知らない世界が本当の世界であると思って一生懸命に模索するのでしょうね。すべてがご縁の世界ですから、一概に批判は出来ないですが、自分が問題にならずに、自分の幸せを求めるのはいささか的外れではあると思います。
 「心を蔽って不浄ならしむ」。何を蔽ってくるのかと云いますと。一つは法性心であると。法性とは、一つには縁起の理です。一つは真如、一つは現象的存在は無常であるということになります。これを蔽ってくる。
 依他心は縁に依って起こってくるもの、生じてくるものですが、現行している事実は縁に依って生じているんだということを覆い隠してしまうわけですね。自己存在を妨害するものが外界に存在し、外界からの抑圧によって、自己存在が左右されているという錯誤ですね。自己存在を動かすわけにはいかないのが私の心なんです。自分が自分の思いに依って縛られていることの気づきが得られないのは、問題を外に投げ出して、外を変革することにおいてのみ自分の満足というか、満たされた生活が出来るんだという妄想ですね。
 覆(フク)・蔽(ヘイ)は外から私を縛るものではないということです。自分が自分を縛っている、ここへの眼差しが大切なことだと思いますね。
 次は「記(キ)」の解釈が挙げられます。
 「記と云うは謂く善と悪となり。愛・非愛の果を有し、及び殊勝の自体なるを以て記別(キベツ)す可が故に。此は善と悪とに非ず。故に、無記と名く。」(『論』第三・五左
 記は、善悪とはっきりと判る性質のものを云うと解釈されています。善とか悪とかはっきりしている性格をもったものが「記」なんです。無記というときは、はっきりしない性格をもったものということになります。善でもなく、悪でもなく、善悪を平等につつみこむような性格を持ったのが無記であるという。
 「愛・非愛の果を有し。」愛する結果、非愛(好ましくないもの)の結果、その二つのことを持っていて、「殊勝の自体なるを以て記別すべきが故に。」非常にはっきりとした強い性質を持っていますから、善・悪を分けていくことが出来るわけですが、阿頼耶識はそれが出来ない。すべてを平等に受け入れている器であると云えます。私達には分からないことでうが、私の根底にあって、いのちを支えている阿頼耶識の世界は善悪そのものを判断しない、すべて無記性として受け入れている。本当に大事なことを教えていますね。
 まとめますと、
 無覆無記とは。阿頼耶識の性格です。善・悪・無記に照らして、いずれの性格をもったものが阿頼耶識なのかを明らかにし、無覆無記なるものが阿頼耶識の性格であるとはっきりさせているわけです。
 「捨受のみなり」というときは感情に約して述べているわけですね。今は性格に約して述べています。感情に約すると平等、性格に約すると無記。安田先生は、「無記たるをもって性とする捨的な性格であるといってもよい。」と述べられています。
 阿頼耶識は無覆無記なる性格を持ったものという理由が三つ挙げられていました。
 (1) 異熟性である。因是善悪果是無記であると明らかにされました。
 (2) 阿頼耶識は主体ですから、一切諸法の所依であるということ。すべての経験の所依と成る性格をもったもの。
 (3) 所熏性であること。すべての経験の蓄積される場所ですから、分別が働いていたのでは蓄積されません。蓄積されている場という事実を踏まえて、阿頼耶識は無覆無記であるとはっきりさせているわけです。

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