唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

大隋煩悩ー惛沈(こんじんー重く沈んだ心)

2010-02-15 23:47:48 | 心の構造について

惛沈(こんじんー重く沈んだ心)「しずみおぼれたる心なり」(『ニ巻抄』)といわれ、心が重く沈んだ状態をいうのですね。掉挙の反対です。掉挙は高ぶる心といわれていました。「境」に於いて、私の境遇です。境遇は縁に依って与えられるものですね。縁に依って与えられた境遇に耐えられなく心が沈んでしまうのが惛沈です。

「心を境に於いて無堪任(むかんにんー耐えられない)ならしむるを以って性と為し。能く軽安(きょうあん)と毘鉢舎那(びばしゃなー観)とを障るを以って業と為す。」

「述して曰く。此れは乃ち別して善の中の軽安を障う。通じて観品を障う。過失増することを顕わしてニを障ゆること有りと。」(『述記』)

 「境に於いて無堪任」ということが性質であると。自分にとっての境遇に耐えられないで心が重く沈んでしまうという状態ですね。「軽安(きょうあん)と毘鉢舎那(びばしゃなー観)」とを障碍するということですから、修行においていわれることです。先に高ぶる心(掉挙)は奢摩他を障うるといわれていましたが、奢摩他は止・毘鉢舎那は観で奢摩他毘鉢舎那で止観と訳されます。心を禅定に保ち、ものの本質を観ずることなのです。それを障碍する心が掉挙であり、惛沈なのです。軽安は善の心所の中にありました。のびのびとしているという心です。境遇に於いて煩悩を遠離し調和して軽やかであるというのです。

 「惛沈は別に自性有り。痴の分と雖も而も是は等流なるを以ってす。不信等の如し。即ち痴に摂めらるるものには非ず。」(第三説)

 いろいろな説が紹介されているのですが、まず第一説は貪りの一分であるというもの。第二説は一切の煩悩に於いて共通して有るものという。そして第三説が本旨です。「惛沈は別に自性有り」といい、独自の心所であるといっています。ですから癡の一分とか、一切の煩悩に共通して有るというものではなく、独立して働くというのです。心が高ぶったり、沈んだりするのは癡と共にとか、一切の煩悩と共にということではなく、独自に働いているといわれるのです。

 「惛沈は境に於いて瞢重(もうじゅうー暗く重い意識)なるを以って相と為し、正しく軽安を障ふ、而も迷・闇には非ず。」

 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とは縁起の道理ですが、私は、内に虚仮を懐いて外に賢善精進の相をしめしているのです。このあり方が瞢重(もうじゅうー暗く重い意識)なのですね。曽我先生は「善人(賢善精進の人)は暗い、悪人(信心獲得の行者)は明るい」とよく仰せでした。佛道を歩むということは真実の自己に出遇うことなのでしょう。真実の自己に出遇うことに於いて我執に死して自信教人信のまことに生きる人生を賜ることなのですね。法然上人は「自行化他」に生きんと仰せられています。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿