唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ) (1)

2017-06-17 09:26:59 | 阿頼耶識の存在論証
 
 「教をもって教を成じ教によって理を成ずる。理をもって理を成じ理によって教を成ず。」(『成唯識論述記』)
 「「経と言うは経なり。経能く緯を持ちて疋丈を成ずることを得て其の丈用有り。経能く法を持ちて理事相応し定散機に随いて零落せず。能く修趣の者をして必ず教行の縁因に籍りて願に乗じて往生して彼の無為の法楽を証せしむ。」(『観経四帖疏』・玄義分) (経は経糸と横糸を織りあい反物を完成させるはたらきをもっている。経はよく法を保ち、教えに説かれて法とが相離れることなく、経は各々の機に随って摂めとり、取りこぼすということが無い。よく仏道を修め歩む者をして必ず教行の縁因に依って、阿弥陀仏の大願業力の働きに乗じて浄土の覚りを開き無為の大楽を証することができるのである。)

 今日から四食証を全文読んでみたいと思います。『成唯識論』巻第四冒頭から始まります。
 四食証は十理証の第八理証になります。概略については述べていますので、重複する所がありますが、復習として学んでいきたいと思います。
 何故四食証が第八識の存在論証になるのかといいますと、四食の中に識食(シキギキ)が説かれていることからに由ります。冒頭から説かれてきます。
 「又、契経に説かく、一切の有情は、皆食に依って住するという。若し此の識無くんば、彼の識食の体有る応からざるが故に。」(『論』第四・初右) 契経は『四食経』を指すと云われていますが、「一切の有情は、皆食に依って住す」と。私たちの、いのちの相続は食によって保たれているのですが、食はただ単に食物ではなく、食することに大事な意味があるのだと教えています。
 (また、あらゆる経論に「一切の有情は、皆食に依って住するという」と説かれている。もしこの第八識が無いのであれば、この識食の体は無いであろう。)
  四食は段食(ダンジキ)・ 触食(ソクジキ)・意思食(イシジキ)・識食の四つの食を云います。
 私たちは食事(ショクジ)と言っていますが、仏教はジキジと読ませ、飲食(インショク)もオンジキと読んでいます。養う・育てるという意味が込められているのですね。
 私たちの普段の食事は仏教では段食といいます。食べ物や飲料のことですが、仏教は有情が生存するためには段食だけではなく、触食・意思食・識食の合計四つの四食によって生存を保っていると説きます。識食は第八識を指しますが、諸経論に四食によって有情の身命は保たれていると説いていることから、若し第八識がなかったならば識食は存在しないことに成り、そこに矛盾をきたします。つまり、有情は生存できなくなるのです。ここが論証の核心になるのではないかと思います。
 キリスト教で言えば、「人はパンのみにて生きるに非ず」でしょうが、ここには二つの意味がありますね。
 「イエス・キリストが語った「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(マタイによる福音書4・4)」と。
人が生きるのは、物質的なものだけによるのではない。人は神の御言葉に養われて、初めて本当の意味で生きることができる、というのがこの聖句の意味であり、私たちが聖書の御言葉に養われるべきことを言ったものなのでしょう。
 意味的には相通ずるところがあるように思います。
 身命を生長し資養し破壊せしめないのは、ただ食物のみによってではないということが先達の教えから窺い知れるところです。
 少しづつ読んでいきます。

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