唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(10) 三分義(5) まとめ

2014-11-18 22:51:09 | 初能変 第二 所縁行相門
 三分義までをまとめてみます。
 仏教とは何を教えているのでしょうか。仏法は何を意味しているのでしょうか。私とどんな関わりが有るのでしょうか。関わりなくして私は生きていくことができるのでしょうか。
 「問いを持つことの大切さ」
 私は仏教と出会ってから答えばかりを探していました。「なぜ」という素朴な問いがでてこなかったのですが、ある日家族と、命の大切さについて話をしているとき、「問いを持つ」ことができたのが仏教と出会った証であると教えられたのです。そういえば『大経』に大切なことが教えられてありました。親鸞は『教行信証』教巻において「出世の大事」について『大経』を引用しておられます。(真聖ー152~153)『ここに世尊、阿難に告げて日わく、「諸天の汝を教えて来して仏に問わしめるか、自ら慧見をもって威顔を問えるか」と。阿難、仏に白さく、「・・・・・自ら所見をもって、この義を問いたてまつるならくのみ」と。仏の言わく、「善いかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。・・・」と、この後世尊の出世の大事が語られていくわけですが、問いと答えには物の違いがあるのです。格が違うというか、分限が違うというのか「問い」は衆生の分限「答え」は仏の世界、そして仏によって見出されたのが衆生という存在なのです。「問い」も仏によって引き出されたといってよいのだと思います。「何故私たちは苦しみ悩むのか」「何故命は大切なのか」「自己中心でしか物事を考えられないのか」等、「なぜ」という問いを頂いたことの大切さを大事にして唯識の世界を歩み続けたいと思います。 
 ー八識三能変ー
八識とは表層から深層にむかって八つの重層的構造を持つとする捉えかたで、三能変とはこころが三層をなして深層から表層に向かって能動的に対象に働きかける面を言います。
 八識ー眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識
 三能変ー異熟識(阿頼耶識)・思量識(末那識)・了別境識(前六識)
「唯識三十頌」第二頌~第十六頌において転変する識を明らかにしています。
 「経」は仏説ですから「如是我聞」「我聞如是」ではじまります。「かくのごとき、我聞きたまえき」「我聞きたまえき、かくのごとき」。このように私は仏陀より聞きましたというスタイルではじまります。「論」は「経」を聞いて私はどう頷いたのかを表白するものですから最初に仏陀への帰依を表します。ここでは満清浄者=仏陀 分清浄者=菩薩に帰依の気持ちを表しています。最初に唯識性ですが『成唯識論述記』(以後『述記』)に唯識性を釈すとして「唯識性というは略して二種あり。一つには虚妄、即ち偏計所執なり。二つには真実、即ち円成実なり。・・・又二種あり。一つには世俗、即ち依他起なり。二つには勝義、即ち円成実なり。」唯識性というのはただ真実・勝義をあらわすのではないのですね。仏法は今、即ち迷いの只中に真実を明らかにしていくのです。迷いの外に真実があるわけではないのです。迷いによって真実が覆われているといってよいのかもしれません。迷いの只中に真実を明らかにしていくのが仏法なのです。迷い(虚妄)をあきらかにし、世俗を離れて勝義はないと明らかにした者に稽首、即ち帰依するのです。ここでは本当に大切なことを教えていただいています。私たちは日常生活において迷迷悶々としています、自分の思うようにならない、何とかしたいという思いから外を変えていこうと悪戦苦闘を繰り返しています。しかし今思い悩んでいる他に真実はないのだと教えているのです。虚妄=偏計所執はなぜ起こるのでしょう。実体のない存在に実体があるとする心と、その心の対象となって執着された存在と、その心と対象とによって実在すると誤って執着された存在の姿によって起こってくるのです。迷っているということはすばらしいことなのですね。迷っていることが即ち真実に触れていることなのですから。そして迷っている場所を世俗というのでしょう。迷っているということを本当は自覚されていないのでしょう。実は迷っていることを真実であると誤解をしているのではないでしょうか。無意識の領域で妄想を真実として行動を起こしているのではないかと思います。私たちの無意識の領域では刹那刹那に自分の思いに色づけされた考えを正しいとする力が備わっているといわれています。(ユング派における無意識の神話賛成機能 mythopoetic function of the unconscious) 何が正しく、何が妄想なのかを如実に見極められなければなりません。仏道を歩む・仏法を学ぶということにはどんな意味があるのでしょう。わたしにはこの「問い」がいつも心の奥底に潜んでいます。仏法を学ぶということに於いて「世間での成功を夢見ているのではないか」、「サクセスストーリーを歩むことができるのではないか」という期待感があるように思えてなりません。それに対し仏法は「勝過三界道」(三界の道に勝過せり)であると教えられています。私の思いは伊蘭子(どこまでも迷いの境界)です。伊蘭樹を生むことしかできないのです。これでよかったんだと思ったとたん迷いが生まれてくるのです。迷いが隠れているのですね。ですから永遠に理想を追いかけていかなくてならないような仕組みになっているのです。仏法(因縁所生の法)に出遇うことによって本当の自分に遇うことができるのです。迷いの境界にあっては千載一遇の出来事なのです。
 四分義略説
 「識所変」といわれますね。「唯識無境」と。本来は識のみあって境はない、と。その時の識とはなにかという問題ですが、識は了別である。了別は区別のことです。ものを区別して知るという意味になりますね。八識を区別して知るわけです。この識の中には心所も摂める。識と心所は相応するからである。「心所をも摂む」と。識と心所は一緒に働くのですね。八識五十一の心所です。次に「変」ですが、一つは、「変と云うは謂く識体転じて二分に似るなり」ということですね。動くときには、二つに分かれる。もう一つは、「内識転じて外境に似る」。認識活動はこのようにして成り立っているのです。「識体転じて二分に似るなり。相と見とは倶に自証に依って起こるが故に。この二分に依って我・法を施設す。」
 私たちの認識活動は外と内を分けています。主・客二元論です。自分の見ているものは外にあると思っていますが、唯識はそれを否定し、外にあると思っているのは間違いだと。実は自分の心の現れたものであるというのです。主・客ともに自分の心に依るというのですね。自証に依って相分・見分が起こる。識体は自証です。識体が転じて相・見二分という働きになる。外にものが有って認識するのではなく、自分の心の中に現れたものを自分が認識していく、自分の心でみ見ていくというのが、私たちの認識構造なのです。ここが大事なところです。迷いは如何にして成り立っているのかをはっきりさせる為にですね。
 外に有ると思っていたものは、実は自分の心の中に映じたものであった。それが相分である。相分を変革する為には、自分の心を変えなくてはならないということになります。これが一つの解釈ですね。もう一つは、「内識転じて外境に似る」内に有るこころの状態が外のものの如くに現れてくる。
 ものを知るという認識構造は如何にして成り立っているのかですね。先ほど「識は了別」と述べましたが、「此の了別の用は見分に摂めらる」、そして「所縁に似る相を説て相分と名づけ、能縁に似る相を説て見分と名づく」、これが二分義です。難陀の解釈になりますが、認識は一応このような構造をもっているということになります。
 ただ、有漏の時ですね。未転依のときにはどうなるのかということですが、「有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず」。「自体が生じるとき」という。三分義で、自体分と。執着という問題です。二つでてきます。一つは、「識に離れたる所縁の境有りと執する者」、もう一つは、「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」という人間の種類がだされています。境が有ると執着するもの、が一つ。外境は実有であると見る見方。この時は相分を行相と名づけ、見分を事と名づく。是れ心・心所の自の体相なるが故に」と述べられています。しかし、もうひとつの人間像ですが、「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」。ここでは相分は所縁であり、行相は見分である、と。「相と見との所依」を自体分という。自体は自証分である、ということです。
 迷いの構造を明らかにする時には、すべては有であるところからはじまるのです。有るのは、自体分だけ(一分義)、或いは有るのは、見分だけ(二分義)、或いは三分義・四分義はすべて有るというところから始まります。相分も有る、見分も有る、自証分も有る、証自証分もあるというのが迷いの構造である、ここから出発するのです。執着心はある、これが迷いを生んでくる元だと。
 四分義は何を現わそうとしているのか、私たちの認識の構造は、心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しています。
 第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね、心は必ず何かを対象として認識をしているのです。「謂く、云く」と答えています。不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処と了である。執受とは種子と有根身、これは微細に働く、処は有情の所依処で器世間のことだと云われています。了というのは、「了と云うは謂く了別」、これは行相であり、識は了別するということが行相になると云われているのです。
 『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。
 先ず、「種子と有根身」ですが、種子は、「謂く諸の相と名と分別との習気なり」と、私たちの経験のすべてが種子として蓄積されているということ、これが習気といわれるものです。それと、有根身、「諸の色根と及び根の依処となり」と。
 所依処は識の相分であり、外境、外の世界であるということです。
 執というのは、「摂の義持の義」、受は、「領の義・覚の義」である、「摂して自体と為し、持って壊せざらしむ、安危共同にして而も之を領受す、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。」と云われ、種子と有根身と阿頼耶識は、安らかな時にも、危険な時にも、一体となって働くいく、これが識の根底に於て「暴流の如く」動いていると教えています。 
 
 覚受 - 感覚。身体が苦・楽などを感じること。生きているということは、覚受が働いていることになります。
阿頼耶識には、二つの側面があることを述べましたが、『論』には「阿頼耶識は、因と縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち、所変を以て自らの所縁と為し、行相は之に杖して起こることを得るが故に。」と説かれています。
 阿頼耶識の所変を阿頼耶識は自らの所縁としている、と説かれています。阿頼耶識から変化したものを、自らの認識対象としているということです。そして、阿頼耶識の所縁を大きく分けて、執受と処になります。昨日述べた通りです。ただ、内的なもの(執受)に、種子と有根身が有ると述べられているわけですが、種子は有漏の種子ですね。煩悩に染汚された行為の結果しか阿頼耶識の中に植え付けることはないのです。「諸の種子とは、諸の相と名と分別との習気なり。」と云われる所以です。これは、すべての有漏の善等の諸法の種子であり、無漏の種子は植え付けられないのです。それ故、『瑜伽論』等には、「遍計所執の妄執の習気なり」と述べているのです。
 有根身は、根(感覚器官)を有する身体ですね。五色根と根依処とに分けられます。根は、又、勝義根と扶塵根とに分けられますが、勝義根は真実の根、淨色所造と云われています。これは何を意味するのでしょうか。五色根といわれる根そのものは宝石のような光り輝くものであることを、ヨーガ行者は発見したのでしょうね。そして、根を助けるものを根依処と云われ、扶塵根とも云われています。これら執受と処は、微細には働き、広大であるところから、認識されることはない所から不可知と云われるのです。
 このことを前提として、「了」について考えてみます。「了とは、謂く、了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」と。了別とは、ものごとを認識する働きの総称で、識の働きのことですが、これが「識の自体分が了別するを以て行相と為るが故に。行相と云うは見分なり。」と云われます。ものごとを区別して知る働きは見分に摂められるのである、と。     
 「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て了別の用有るなり。此の了別の用は見分に摂めらる。然も有漏の識が自体の生ずる時に皆な所縁能縁に似る相現ず。」 
 私たちがものごとを認識する時には所縁・能縁という形をとるわけです。そして、所縁に似る相を相分といい、能縁に似る相を見分というのだと。所縁と能縁は別別に起こることはないのです。同時であって異時ではないわけです。それがですね。自体が生ずる時に、所縁・能縁という形を取ると云われているわけですね。「識は外境に似て現ずる」、外境に似て現れるものは相分ですね、そこに見分が働いている、と云われているのですが、こういう所に問題が生じているわけでしょう。
「了」についての所論です。「了」とは、異熟識が、自分の所縁に於て、了別の用(働き)をもつことであって、四分の中では、見分に摂められる、と説かれているわけです。
 そして、「然も有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず。」(有漏の認識作用は、自体が生ずる時に、皆な必ず所縁・能縁と云う対立した相を現わす。)
 この「自体生じる時」という自体は、自体分(自証分)といいますが、これが私たちが認識するときの軸になるわけですね。自体を中心に、外の境が実在すると思う対象の相を「相分」と名づけられているのです、そして実に外に認識する対象が実在すると思う働き、能縁の側面を「見分」と名づけられているのですね。自体を軸として、相分・見分が、外境は実在すると認識するのです。これが迷いの根本構造になります。二分の相は体に対して云われるわけです。体もまた実体化されているわけです。その体の上に現れる二分の相とは、私たちの、外境は存在すると妄執している相なのですね。妄執している相が相分・見分として現行しているのです。これが三分説になるわけですが、二分説は、識の体は、能縁の見分が自体であり、相分が相であるわけです。二分説は、難陀の説になりますが、見分を相とはみないわけで、体であると。対象化しない、実体ではなく、作用であるとみているわけです。私たちに認識の底には、このように、二分に見ていくという構造があって、ものを知るということが成立しているのです。これを、
 「識に離れた所縁の境有りと執する者、彼説く、外境は是れ所縁なり。」
 私とは無関係に外の世界は存在する、私の主観を抜いて外境は有ると執着する見方です。しかし実際は主観の相違によってものの見方が違ってくるのですね。私の見ている世界と、他の人が見ている世界は違うのです、千差万別です。ですから、「識に離れた所縁の境有りと執する」ということは間違いだといえるわけです。
 これに対してですね、相分は所縁であり、見分は行相である、と見ていく有り方ですね。「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」は、「相と見との所依の自体をば事と名づく、即ち自証分なり」と。
 自証分は自覚作用であるということです。見分・相分は自内証であって、外的関係ではないと明らかにしているわけです。そうしますとね、私たちの認識はどのように成り立っているのでしょうか。私が見ているという認識はありますが、それは外に実在としての環境世界が有るという関係に於いて認識が成り立っています。外境を所縁とし、相分を行相・見分を事とみている有り方なんです。このものの見方が間違っていると指摘しているのが三分説になるのです。
 二分を以て、安慧正量部の説を論破するのです。理証・教証をあげて論証しています。
 「若し心・心所、所縁の相無くば、自の所縁の境を縁ずること能わず。或は、一々能く一切を縁ず。自境も余の如く、余も自の如くなるが故に。」
 (もし、心・心所法に所縁の相が無いならば、自己が縁ずる所の境をもつことはないであろう。識と境が混乱するならば、識は一切を縁じてよいことになる。)
 識と境とは必然関係なのですが、識と境が偶然の関係であるなら、何を縁じてもいよいことになってしまいますから、「自境も余の如く、余も自の如くなるが故に」(自境も縁ぜない余の如く、縁ぜない余も自境の如しである。)
 『述記』には「青を縁ずる時の如き、若し心・心所の上に所縁の相貌無きは、正しく起こる時にあたりて、自心所縁の境を縁ずること能わざるべし。」と、因明を以て説明しています。これが宗になり、「所縁の相無しと許すが故に」が因になり、「余の縁ぜざる所の境の如し」が喩になりますね。能縁についても同じことがいえます。能縁と所縁との二つに似て現行するのですね。意識は、見・相二分に似て意識されるということ。
 所縁(対象)は相分・行相(作用)は見分という見方は、
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者の、則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分とは行相と名づく。相と見との所依の自体をば事と名づく。即ち自証分なり。」
 私たちが見ているものは、相分という心の影像、主観によって捉えらえたものを見ていることになります。自分が心の中に捉えた映像を、自分が認識して知るという構造です。これが識の本質になるわけです。この本質を自体分といいます。この自体分が無かったなら、見・相二分は外界の存在になり、外界は実在と見るという錯誤を生じるわけです。自体によって二分が成り立つのですね。自分が自分を知っている、他人は騙せても自分は騙せない、騙したことを自分は知っている、自分は自分から逃れる術はないというのが自体になるわけですね。道理です。自証をもって自体とする、これが道理である。見・相二分の所依が自体である。二分では判然としなかった識の構造が、体は識、用は二分ということで諸法唯識が成り立つのです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿