唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (4) 四分分別

2014-02-15 21:34:09 | 唯識入門

 一切種子についての解釈が十に分けられて説明さています中の、第五の四分分別について考究されます。

 阿頼耶識の因相のときに一切種子識というのだと。『論』には「此れ能く諸法の種子を執持して失せ不た令むるが故に一切種と名く」と説かれていました。

 四分分別

 「種子は第八識の体に依ると雖も、而も是は此の識の相分にして余には非ず。見分は恒に此(相分)を取りて境と為すが故に。」

 種子は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能差別なり」というのが大前提になります。阿頼耶識には、能蔵という、種子を蓄積する働きがあるわけですから、阿頼耶識の中に一切の経験が蓄積されているのです。

 四分分別での問題点は、種子と阿頼耶識の関係を問うています。あらゆる経験を種子として蓄積していくことは、経験を所縁として阿頼耶識の中に蓄積していくわけですから、阿頼耶識の能縁は見分、所縁は相分。阿頼耶識と種子の関わりでは種は所縁ですから、阿頼耶識の相分になると答えているのではないでしょうか。経験そのものが阿頼耶識の中に蓄積されるということではなく、相分として蓄積される。私たちの心の奥深くで、経験されたもの種子として対象化し、対象化されたものを見分として見ていく、自分とはこういう人間だと。対象化された自分を問う、その究極が「自己とは何ぞや」という課題になるのではないでしょうか。

 ですからね、種子が大事なんですね。どのような種子を蓄積していくか、これが因となって、現行してきますから、対象化された経験の種子を縁じて現行が生れてくるのです。縁に依って生起するといいますが、「依」は種子なんですね。私たちは経験の束縛から抜け切れないのでしょうね。経験を頼りにして、経験からから人生を割り出して、「私の経験から察しますと」という割り出しの仕方をしますね。唯識は、経験が種子であり、阿頼耶識の相分なんだと。その相分を自分が見てあらゆる判断を下していることを教えています。相分が自分を変革する重要な位置を占めているのですね。

 そしてですね、この相分は、見分でもなく、自証分でもない。見分は働きかけるほうですが、そういうものではないということです。ただ、働きかけられるほうである。何によってかといいますと、見分に依るということです。見分は恒に、一時も離れず、相分を対象として執着を起すわけです。

 阿頼耶識の対象ですが、第二の行相所縁門において詳しく論じられますが、端的にいいますと、阿頼耶識の所縁は、種子と有根身と器世間であるということです。「不可知の執受」ということですね。器世間は「処」と言われています。身は種子と倶に動くということをいっているのですね。「摂して自体と為して安と危とを同ずるが故に」という有名な定義がされています。身はすべての経験を引き受けて動いているということですね。又、器世間という外界ですね、これも阿頼耶識から変現したものである、阿頼耶識を離れて器世間は無いということになります。身と土の関係です。阿頼耶識は内に種子と有根身を変じ、外に器世間を変じているわけですから、身と土は不即不離の関係になりますね。その根本課題が、種子は阿頼耶識の相分であるということ、どういう種子を植え付けるのかが問われているのです。聞法したら、しただけ。うつつを抜かしていたら、その分だけ身に響いてくるということになりましょうね。因は多種多様、いろんな選択肢があるのでしょうが、果は一つです。身は責任主体としてすべてを引き受けて存在しているのですね。心しなければなりませんね。

 このことが又前提となって、種子に二つあることを明らかにしてきます。有漏の種子と無漏の種子ですね。これが三性分別として説かれてきます。


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