唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (9)

2013-06-05 20:18:16 | 心の構造について

P1000876 此れは初二の難なり。(体無別難・不相応難)

 「若し羞恥を執して二が別相と為ば、慚と愧と体差別なること無かるべし。則ち此の二の法は定めて相応せざるべし、受と想との等きに此の義有るものには非ざるが故に。」(『論』第六・三右)

 古説の論破の初の二になります。「(古説が)もし羞恥を執着して、羞恥を二の別相と主張するならば、慚と愧の体は差別(区別)がなくなってしまうことになる。慚と愧の体に区別がないということは、慚と愧の体は一つであることになり、慚と愧の二法は定めて(絶対に)相応しない、同時に並び起こることはないであろう。それは、受と想などのようなものには、このようなこと(同時に二受・二想等の体が倶起することはない)は並び起こることはないからである、慚と愧の場合も同様である。

 このような議論は、古説を論破しつつ、護法の説を明らかにするということに主題があります。

 古説の立場 - 羞恥は、慚と愧の通相ではなく、別相としている。つまり、羞恥は慚と愧それぞれの固有の働きであると主張している。

 護法の立場 - 羞恥は、慚と愧の通相であり、羞恥は、慚と愧それぞれの固有の本質的な働きではないと主張し、別相とは、影像相分であるとする。つまり、

 羞恥は、通相である。
 慚の別相は、賢・善(を崇重する)である。
 愧の別相は、暴悪(を軽拒する)である。

 「論。若執羞恥至有此義故 述曰。下難古説有四。一體無別難。二不相應難。三非實有難。四不遍善難。此初二難也。執彼羞恥爲此二別相。應此二體無有差別。相無異故。既爾二體定不相應。無二受二想等體有此倶起義故。二量可知。」(『述記』第六本下・九左・大正43・435b)

 (「述して曰く。下は古説を難ずるに四有り。一に体別なること無しと云う難。二に相応せずと云う難。三に実有に非ずと云う難。四に善に遍せずと云う難。此れは初二の難なり。彼の羞恥を執じて此の二の別相と為ば、応に此の二の体差別有ること無かるべし。相異なること無きが故に。既に爾らば二の体は定んで相応せざるべし。二受・二想等の体此の倶起する義有ること無きが故に。二量知る可し。)

 慚と愧の通相は羞恥、恥じる心であり、親鸞聖人は『安心決定鈔』(真聖p944)に

 「『般舟讃』には、「おおきにすべからく慚愧すべし、釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といえり。慚愧の二字をば、天にはじ、人にはず、とも釈し、自にはじ、他にはず、とも釈せり。なにごとをおおきにはずべしというぞというに、弥陀は兆載永劫のあいだ無善の凡夫にかわりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世にいでて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまうを、いままできかざることをはずべし。機より成ずる大小乗の行ならば、法はたえなれども、機がおよばねばちからなし、ということもありぬべし。いまの他力の願行は、行は仏体にはげみて功を無善のわれらにゆずりて、謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずということなき功徳なり。このことわりを慇懃につげたまうことを信ぜず、しらざることをおおきにはずべしというなり。「三千大千世界に芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまわぬところはなし」(法華経)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かわりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまいしなり。この広大の御こころざしをしらざることをおおきにはじはずべしというなり。このこころをあらわさんとて、「種々の方便をもって、われらが無上の信心を発起す」(般舟讃)と釈せり。」

 と。「恥じる心」は自分勝手な御都合主義(功利的なもの)ではなく、「(如来種々の善巧方便をもって)無上の信心を発起」せしめんことに反逆していた自己の目覚めにおいて、自に恥じ、他に恥ずということが生れてくるのですね。自然法爾です。そして、「慚」は、賢・善を崇重し、「愧」は「慚」において暴悪を軽拒するという働きを生起してくるのですね。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿