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善・悪・無記についてですが、第八識は善・悪について色付けをしない無記性のものであり、第七識は唯だ悪(不善)であるけれども無記性である。そして表に現れている六識に心所のすべてが相応している。善の心所も悪の心所も、不定の心所もすべて六識と相応して現行してくるわけです。いずれにしても、深層で動いている心は無記性であるというところに大きな意味があります。それは私の思いを超えているということです。
私は、私の思いを超えている現実に、自分の思いを重ねて執らわれて自他分別を起こしています。これは悲しいことですが、本能なんですね。いかんともしがたいことです。でも、ここに悲しみをもつということが大切なことなんですね。悲しみが自分の思いを破ってくれるんです。
「有為の無記法をば世俗無記と名づく、愛・非愛の果を招くこと能わざるが故に、自性麁重にして不善に濫ずるが故に。虚空と非擇滅(ヒチャクメツ)とをば勝義無記と名づく。二果(当来の愛・非愛の二果)を招かず、不善に濫ずる所無きが故に。・・・」(『述起』第三末・二十九右)
そして、阿頼耶識は無覆無記であると明らかにしてきます。
「阿頼耶識は何れの法に摂むるや。」
「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に。」(『論』第三・五右)
異熟といっています、つまり、過去を背負った自分であるけれども、その過去に左右されない自分を生かされているんだということなんですね。阿頼耶識は無記だということはそういう意味なんです。善でもなければ、悪でもない。無記としてのいのちを賜っている。それを私有化しますから苦悩が生じてくるのですね。いのちは。苦でもなければ、楽でもなく、善でもなければ悪でもない、純粋無記の性格をもったものなんですね。確かに、過去の行為を引きずって今の私が存在するわけですが、今の私が未来に引きずることは無いのです。現状の生活の営みは変わることは無いでしょうが、私でいえば、過去の悪行を清算してというわけにはいきません。悪業を引きずった私が存在しています。後悔もし、なんであんなことをしでかしたのかと悔やむわけですが、もとに帰ることはできません。為した行為は否応なしに引き受けているわけです。それが自分を縛っていることに間違いは有りません。しかし、その悪行が悪行の価値観を変えることが出来ると教えているんです。それが無記性ということなんですね。「これでよかったんだ」と。ここに過去に対する慚愧心と、未来に対する方向性が定まるわけですね。
「いのちに触れよ」我執の底からの叫び声です。阿頼耶識はいつでも、いかなる時でも、命に帰れと叫んでいます。無覆無記、救済の原理ですね。
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