唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第五 三性分別門 (2)

2015-10-25 23:08:00 | 初能変 第五 三性分別門
 

 「阿頼耶識をば何の法にか摂むるや」に入る前に、法の四種である、善と不善と有覆無記と無覆無記について、『述記』の所論からうかがいます。
 最初の問いは「法に四種有り。何れの法にか摂せらる。大乗にも亦自性善等有りと云う。」(『述記』)
 善に四種あるということですが、自性善・相応善・等起善・勝義善であり、自性善とは、それそのものが善であるというものです。第十一頌に挙げられています善の心所の十一をいいます。相応善は、自性善と倶に働くこころで、等起善は自性善と相応善とから付随して引き起こされる善い身業と語業と不相応行をいい、発起善ともいいます、勝義善は、真如のことで、第一義善であり、善無為の法になります。
 最初の三は有為の善法で、世俗善といいます。「世と出世との可愛(カアイ。好ましいこと。)の果を招くが故に、麁重なり生滅あり、安穏に非ざるが故に。」有為の善法は、「唯だ善の心と倶なるを善の心所と名づく。謂く信と慚との等とき定めて十一有り。」(『論』第六・初右)と説明され、善の心所には何があるのかを述べています。十一ある、と。内容は、
「信・慚・愧(き)・無貪・無瞋・無癡・勤(精進)・安(軽安)・不放逸・行捨・不害」の十一です。
 無貪・無瞋・無癡を三善根といい、それに反して、貪・瞋・癡を三不善根、或は三毒の根本煩悩といわれている。善の心所が立てられるのは、その正反対の心所(煩悩・随煩悩)を対治するためである。
 不善は、「諸の極悪の法」であり、「世俗不善と名づく、能く麁顕(ソケン。はっきりと認識されたあり方。)の非愛の果を招くが故に。諸の有漏法をば勝義不善と名づく。自性は麁重(ソジュウ。身心の重々しい状態。)にして安穏ならざるが故に。」
 有為の善法は、いつでも不善に変わる要素を持ったものであり、有漏なんですね。例えば善の心所の中で「信」が最初に挙げられます。「仏法の大海には信を以て能入と為す」という「華厳経」の教えもあって、非常に大事なことではありますが、「信」は何処で成り立つのかですね。自分が信ずるという時には、必ず功利心が働いてきます。そこで他を裁きます。自力の執心と教えられますが、怯えがあるのですね。自分が壊れる怖れです。怖れが自分の中にあるから他を裁くのです。そこでは「信」は成り立ちません。いつでも自分の評価を気にして一喜一憂しているのが私の姿です。仏教は、そのような立ち位置では駄目だと、財や健康や名誉を当てにしていては苦の因を解くことは出来ないんだと。この三つは髻(モトドリ)ですから、断ち切らなければならないというわけですが、ここに自分の深い執着心が解けない、見えないという暗さがありますね。
 自力の執心に立たないという所に「信」は生まれてくるのですが、それを他力というのですね。すべての因は自分にあったという気づきですね。そして一切は御縁の世界に生かされている身であるという頷きでもあるのでしょう。そこに安穏という、安らかで穏やかな心がもたされてくる、そのように教えられているんだと思います。
 倫理の世界では、善因は善の果を引き、悪因は悪の果を引くと教えられているようですが、仏教でいう善・悪(不善)、世俗善・世俗不善とし、世俗善は、善因楽果であり、世俗不善は、悪因苦果であって、共に安らかで穏やかな心をもたらすものではないと教えているのです。

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