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諸門分別 第十二の大門・縁事境縁名分別門を説く。
事 ― 体事のこと。五法(相・名・分別・正智・真如)の中の相・名・分別の三つである。相とは現象(相分)、名とは名言、名前のこと。分別は一切の真・心所を指し、相・名・分別で有漏法を指す。事境とは、事としての境という意味で、事境、名境の一つで、名前が指し示す対象(所縁・相分)そのものをいう。名境は対象そのものを指し示す名前としての対象をいう。
「自地(ジチ)を縁ずるは、相分いい質(ゼツ)に似(ノ)るを以て、分別所起(フンベツショキ)の事境(ジキョウ)を縁ずと名づく。滅道諦及び他地を縁ずるは、相分いい質と相似(ソウニ)せざるが故に、分別所起の名境を縁ずと名づく。」(『論』第六・二十二左)
煩悩が自地を縁ずる場合は、影像相分が本質相分に似るので、分別所起の事境を縁ずると名づくのである。煩悩が滅諦・道諦と及び他地を縁ずる場合は、影像相分が本質相分と相似しないので、分別所起の名境を縁ずると名づけるのである。
「自地(欲界)を縁ずる煩悩は、依も縁も倶に増すを分別所起の事境を縁ずと名づく。此の境の本質も亦今時の分別に由って起こるが故に。事とは体なり。」(『述記』)
分別所起は自体分を指します。自体分が相分に似た対象を縁ずる場合のことですね。つまり、有漏である煩悩が、欲界を縁ずる(認識する)場合は、煩悩も、その対象である相分もすべて有漏であり、本質相分に似て現ずる影像相分を煩悩が認識することを「煩悩が事境を縁じる」と名づけると云っているのですね。ここが前半部分です。後半部分は次回にします。
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