唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (108) 第十二 縁事境縁名境分別門 (2)

2015-05-21 19:50:47 | 第三能変 諸門分別 縁事境名境分別門
  『アポロンの雄鳥』№2より
  今宵は、雑感になってしまいました。
 私たちの思考方法の暗さを癡(無明)と押さえられているのですが、具体的には、主観と客観が分離した思考方法なんですね。現象世界は実体的に有であり、そこに関わっている自己も有である。ブラフマン(法)とアートマン(我)は実体的に存在するという実体観から、自己の成り立ちが左右されてくるという、責任の所在が客観現象にゆだねられているわけです。私は悪くない、世の中が悪いんだ。私は悪くない、貴方が悪いんだ。ここには、私が見えないと云う問題が隠されています。無意識の中に真理を覆い隠している作用が働いているからなのです。「貴方の顔色をうかがっての生活は地獄の苦しみだ」ということも言えるわけですね。
 私が見ている世界ですから、私が体、体が見分、世界が対境でる相分になり、相分が見分に働きかけて、私を苦しめると云う構図です。この構図が世間一般の考え方になりますね。この考え方の根底にあるのが、「癡」であると釈尊は教えられたのです。理と事に迷う因は癡であるということですね。我癡ですが、我癡を開いてきますと、具体的な働きは、我愛と我見になります。自分が一番愛おしい、そして、自分の見解が一番正しい。ここからは善の心所で云われる慚・愧は生まれてきません。
 一歩譲ったとしても、「私にも非はあるとは思うけれども」という「ども」がつきます。これは私の対応の非は貴方が作ったんだということなんです。私は悪くないと云う論理です。この論理は非常にきついものがあります。私は悪くないと云うところから、どうして絶対自己否定の慚愧心が生れてくるのでしょう。
 私たちが聞法を通して簡単に慚愧心を頂くといいますが、そう簡単なものではないんでしょうね。
 阿闍世の言葉が響いてきます。
 「耆婆よ、私は今思い病にかかっている。正しく国を治めていた王を非道にも殺害してしまったのである。どのような名医も良薬も呪術も行き届いた看病も、この病を治すことは出来ない。何故なら、私の父は王として正しく国を治めており、全く罪はなかったのに、非道にも殺害してしまったからである。」
 善き人との出遇いが阿闍世の心を開いたのですね。
 阿闍世とは、広くすべての五逆罪を犯すものであり、あらゆる煩悩を具えたもののことであり、無上菩提心をおこさないすべてのもののことであり、仏性を生じないから煩悩の怨が生じ、煩悩の怨が生じるから仏性を知らないもののことであると喩られています。しかしまた、阿闍世とは不生怨とも訳されています。不生とは涅槃のことであり、世とは世間のことがらであり、怨みを生ぜずという、世間とは、自他分別の渦巻く世界ですが、その渦巻く世界の中に在って、如来は「阿闍世の為に涅槃に入らない」と。無住処涅槃は不生といわれ、仏はさまざまな世間のことがらに汚されることがないから、阿闍世の為に、はかりしれない長い間涅槃に入らない、という。月愛三昧ですね。衆生に善の心を起こさせるものであり、衆生が願い求めているものを衆生に先立って指示されているのでしょう。善き友を縁とし、釈尊の教説に後おしされ、如来の声を聞いていく歩みが、無明の闇を開いてくるのでしょう。
 意識は、何かについての意識であり、意識の現象が、主観的側面と、客観的側面をもっている。意識の客観的側面を認識して存在の根拠が証明されている。すべては自の内我の発露である。発露であったという頷きであろうと思います。
 「如来の言葉はどれも同じ真実の味わいであり、ちょうど大海の水のようである。これを第一義諦(絶対的真理)というのえある。だから如来の言葉には何一つ無意味なものがない。老若男女を問わず、如来が今お説きになったさまざまなはかり知れない法を聞きたいものは、みな同じく第一義諦を得るであろう。因もなければ果もなく、生もなければ滅もない。これを大涅槃というのである。このことを聞いたものは煩悩の束縛から離れる。如来はすべての人々のために、常に慈悲の父母となってくださる。よく知るがよい。あらゆる人々はみな如来の子なのである。」
 私たちは、自分というものを中心として、満足を得ようと努力しているわけですが、そのすべてが顚倒なのですね。外からのシグナルによって左右されているものと思っていたのですが、そうではなく内なるシグナルによって執われていたという気づきが、内なる自己とは何という問題になって、自己とはという問いが発起されてくるわけですね。諸法無我からの問いかけであったのです。唯識的にいうなら、体は有為有漏の心王・心所であり、自体分そのものが迷いの体になるわけですね。そして自体分が異熟と目覚めた時、覚りへの方向性が定まるわけでしょう。迷いは単に迷っているのではなく、異熟という無記性を孕んで迷い、苦しんでいると云うことになりましょうね。意味があるんですね。

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