おはようございます。コロナウイルスの感染拡大も少し落ち着いてきた感がありますが、本当に大事なのは今現在の後ひと踏ん張りだと思います。不要不急の外出はできる限り差し控えるべきでしょうね。今の行動が明日を演出する。今の行動が未来を決定し、明るい未来の創造は、今何をなすべきかが未来より問われていることだと思います。
このことを唯識ではどのように捉えているのでしょうか。難しい言葉では「三法展転因果同時(さんぽうてんでんいんがどうじ)」と教えています。
『成唯識論』では所熏・能熏のまとめとして説明されています。
「能熏の識等は種より生ずる時に、即ち能く因と為して復種を熏成す。三法展転して因果同時なること、炷(しゅ)の燄(えん)を生じ、焰生じて炷を燋(しょう)するが如し。亦、束蘆(そくろ)の更互に依るが如し。因果倶時なりと云うこと理傾動(り・きょうどう)せず。」(『論』)
「三法の喩を挙げて三法の体に喩う」(『述記』)といわれています。
三法とは、種子・現行・種子の循環性を現します。
種子生現行・現行熏種子。更互に因と為り、果と為る。現行は種子が表に現れた相なのです。種子生現行と云われています。
同時に表に現れた行動が種子として蓄積されていく、この面を現行熏種子いわれているのです。この関係が同時因果なのです。
種子(過去の行動の因子)が因と為って現行(現在の在り方)が果として生じ、生じた現行が因と為り、阿頼耶識の中に果としての種子を熏ずる。こういう関係が私の人格を形成しているのです。
大きく見ますと、社会全体でも同じことがいえると思います。一人の身勝手な行動が社会全体の風紀を乱していくことになります。これは人間は相互依存関係にあることの証明になります。私のさりげない行いが、私の知り得ないところで影響を与え、与えられていることにないますね。
私がここでパソコンと向き合えているのは、世界の裏側の人たちさえも、私を応援していてくださっているお蔭なんですね。私は、私の勝手で生きているわけではないのです。
元に戻りますと、
因としての種子
果としての、現行
と、
因としての、現行
果としての種子
これが、同時に起こることを三法展転同時因果と表しているのです。
「現われた自己は隠れた自己である。」(太田久紀師)と教えてくださっています。
教証としては、
「諸法をば識に於て蔵す。識を法に於ても爾り。更互に果性と為り、亦常に因性と為る。」(『阿毘達磨経』)があげられます。
種子が現行を生ずる場合には、生ずる縁が介在するわけです。さまざまな縁に依って生起してくるわけですから、衆縁(生)に依る、衆縁に依らない場合には現行は起こらず、種子は種子として阿頼耶識の中に蔵せられます。種子生種子として阿頼耶識の中に留め置かれます。
喩が出されています。説明としては、
・ 炷焰の喩 - 炷とは灯心のことで、ともしび。焰はほのお、炷の焰を生ずるのと、焰の炷を燃やすのと同時因果である。わかりやすいですね。
もう一つが、
• 束蘆の喩 - 甲乙二本の蘆を束ねて立てる時、甲乙二つのものが互いに相い依って立っていることに喩えられています。甲は乙を因とし、乙は甲を因とし、相互の同時因果に依ることを表しています。
なんとなく解ってもらえましたかね。ここで種子と熏習の説明は閉じまして、次に四分について考えてまいりたいと思っています。
また来週です。
このことを唯識ではどのように捉えているのでしょうか。難しい言葉では「三法展転因果同時(さんぽうてんでんいんがどうじ)」と教えています。
『成唯識論』では所熏・能熏のまとめとして説明されています。
「能熏の識等は種より生ずる時に、即ち能く因と為して復種を熏成す。三法展転して因果同時なること、炷(しゅ)の燄(えん)を生じ、焰生じて炷を燋(しょう)するが如し。亦、束蘆(そくろ)の更互に依るが如し。因果倶時なりと云うこと理傾動(り・きょうどう)せず。」(『論』)
「三法の喩を挙げて三法の体に喩う」(『述記』)といわれています。
三法とは、種子・現行・種子の循環性を現します。
種子生現行・現行熏種子。更互に因と為り、果と為る。現行は種子が表に現れた相なのです。種子生現行と云われています。
同時に表に現れた行動が種子として蓄積されていく、この面を現行熏種子いわれているのです。この関係が同時因果なのです。
種子(過去の行動の因子)が因と為って現行(現在の在り方)が果として生じ、生じた現行が因と為り、阿頼耶識の中に果としての種子を熏ずる。こういう関係が私の人格を形成しているのです。
大きく見ますと、社会全体でも同じことがいえると思います。一人の身勝手な行動が社会全体の風紀を乱していくことになります。これは人間は相互依存関係にあることの証明になります。私のさりげない行いが、私の知り得ないところで影響を与え、与えられていることにないますね。
私がここでパソコンと向き合えているのは、世界の裏側の人たちさえも、私を応援していてくださっているお蔭なんですね。私は、私の勝手で生きているわけではないのです。
元に戻りますと、
因としての種子
果としての、現行
と、
因としての、現行
果としての種子
これが、同時に起こることを三法展転同時因果と表しているのです。
「現われた自己は隠れた自己である。」(太田久紀師)と教えてくださっています。
教証としては、
「諸法をば識に於て蔵す。識を法に於ても爾り。更互に果性と為り、亦常に因性と為る。」(『阿毘達磨経』)があげられます。
種子が現行を生ずる場合には、生ずる縁が介在するわけです。さまざまな縁に依って生起してくるわけですから、衆縁(生)に依る、衆縁に依らない場合には現行は起こらず、種子は種子として阿頼耶識の中に蔵せられます。種子生種子として阿頼耶識の中に留め置かれます。
喩が出されています。説明としては、
・ 炷焰の喩 - 炷とは灯心のことで、ともしび。焰はほのお、炷の焰を生ずるのと、焰の炷を燃やすのと同時因果である。わかりやすいですね。
もう一つが、
• 束蘆の喩 - 甲乙二本の蘆を束ねて立てる時、甲乙二つのものが互いに相い依って立っていることに喩えられています。甲は乙を因とし、乙は甲を因とし、相互の同時因果に依ることを表しています。
なんとなく解ってもらえましたかね。ここで種子と熏習の説明は閉じまして、次に四分について考えてまいりたいと思っています。
また来週です。
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