唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (70) 第七、三界分別門 (7)

2015-03-23 23:42:54 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 岐阜県本巣郡根尾村の薄墨桜。作家宇野千代氏がこよなく愛されました。数年前に訪れましたが、その美しさと、見事さに圧倒されたことを思い出しています。 
 
  三界分別門は、三界繋属門と上下相起門と上下相縁門の三部門より構成されています。2014年10月11日からの続きになります。遡って復習してください。
  
  三界繋属門 ― 総論・「瞋は唯欲のみに在り、余は三界に通ず。」
  上下相起門 ― 上は、上地のことで、色界第一静慮以上の土を指します。下は、欲界のことで、これを第一地として、三界を欲界・色界(四静慮)・無色界(四静慮)をもって、三界九地の教説を立てています。
   前半は、欲界にいる者が、色界に在る煩悩を起こすことがあるのか、どうかを問い、
   後半は、色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こすことがあるのか、どうかを問う。
 今日からは、後半の問いについて考えてみたいと思います。
 色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こすことがあるのか、どうかを問う科段になります。ここも、前半と後半の二部門によって構成されています。
 前半は、色界に存在する者は、欲界の分別起の煩悩も、倶生起の煩悩も起こすことを説明し、後半では、色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こす場合と、起こさない場合があることを説明します。
 「上地に生在(ショウザイ)しては、下地の諸惑をば、分別にもあれ倶生にもあれ皆現起す容し。」(『論』第六・二十左)
 本科段は、前半の部分と逆の問いになります。
 色界は定の世界ですが、定の世界に入っていても、欲界の諸惑である分別起の煩悩と倶生起の煩悩のすべてを起こす可能性がある、と説かれています。ここは、一応は上地は色界を指すわけですが、広く言えば、無色界第四静慮である非想非非想処をも含めて、迷いの世界であることを教えています。退転するのですね。不退転ではないということです。菩薩は三界を超えた存在なのですね。迷いの世界は、三界九地で表されますが、菩薩行は十地として、初地が不退の位、不退転地なのです。また初歓喜地ともいわれています。

 余談になりますが、歓喜地についての私論です。
 「大乗仏教では、菩薩初地を、初歓喜地として十地の階位が説かれていますが、親鸞聖人は歓喜地をどのように抑えられているのでしょうか。「本師龍樹菩薩は、大乗無上の法をとき、歓喜地を証してぞ、ひとえに念仏すすめける」。また、「大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん」と龍樹菩薩を讃嘆されていますが、左訓には、「歓喜地は正定聚の位なり。身によろこぶを歓といふ、こころによろこぶを喜といふ。得べきものを得てんずとおもひてよろこぶを歓喜といふ」と了解を述べられています。菩薩十地の階位は初歓喜地を不退転地と押さえられていますが、龍樹菩薩は、七地沈空の難を課題として不退転地を問題にされたと、親鸞聖人は受け止められたのではないでしょうか。聖道仏教では菩薩の階位として修道が求められているのですが、信心の課題として、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」。摂取不捨の左訓に「ひとたびとりて永く捨てぬなり」「摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」と注釈を施しておいでになります。大乗正定の聚に住せん、とは「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相の心行を獲れば、すなわち大乗正定の聚に住せん。正定聚に住すれば、必ず滅度に至る。必ず滅度に至れば、すなわちこれ常楽なり、常楽はすなわちこれ大涅槃なり」、親鸞聖人は竪超の菩提心に対して、横超の大菩提心として、「信心ひとつにさだめたり」と、雑行を捨てて、本願に帰されたのでしょう。『十住毘婆紗論』、入初地品・地相品・易行品(真聖p161~167 行巻)に於て、「菩薩初地に入ることを得れば名づけて「歓喜」とすると」と説かれている「歓喜地」を、如来回向の功徳として、現生正定聚住不退転と、菩薩八地已上の等覚の弥勒に等し、と押さえられたのです。他力釈には「阿弥陀と名づけたてまつると。これを他力と曰う」。「即時入必定」・「入正定之数」として歓喜地を抑えられたのですね。
 見道を修して、我執・法執を断じ無分別智を得た人を菩薩として、最初に入った位を見道初極喜地といい、十地の最初に入聖した人を、菩薩、或は聖と、それ以前は凡夫、唯識五位の段階では見道通達位を聖者といい、それ以前の加行位の人を賢者といわれています。大乗仏教では歓喜地は初であります。初地が歓喜地の別名です。詳しくは、見道初極喜地です。
 但、親鸞聖人は歓喜地を等正覚として如来廻向を明らかにされました。
 唯識では、「清浄な信を上首として心に歓喜が生じ、心が歓喜するが故に、漸次、諸の悪不善法品の麁重を息除す」と言われています。その初地得果の位は、心に歓喜が生ずる位である為に初である歓喜が生起する地として初歓喜地といわれているのでしょう。初歓喜地において分別起の煩悩は断じられるといわれていますが、なお倶生起の煩悩を断ずる必要がある為に修道が要求されます。修道において倶生起の煩悩すべて断じ尽くされて十地・法雲地が獲得されるとされています。」

 本論に戻りますが、上地に存在する者が、下地の諸惑を起こす可能性があることを、どうして言えるのか?という問題に答えてきます。ここが又二つに分けられて説明されます。初は分別起・後は倶生起についてです。また明日にします。

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