唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (6) 問答

2015-03-22 14:55:13 | 初能変 第二 所縁行相門
  
 「云何が是れ識が所縁の境を取る、行相知り難きや。」(『論』第二・三十三右)
 第八識が所縁の境であるところの執受と処を認識しているわけですから、また能縁であるところの見分、即ち行相ですね。その働きがどうして分かりにくいのですか。第八識が働いていることが、どうして分かりにくいのかと云う問いが、経量部や有部から質問されているわけです。
 答えが、喩を以て説かれます。
 「滅定の中に、身に離れざる識有るが如く、応に信じて有と為すべし。」(『論』第二・三十三右) 
 滅定については、2010年11月30日以降の投稿を参考にしてください。若干触れますと、
「及び無心の二定」 と(無心の二字は下四位に通じる)いわれるのは、無想定と滅尽定のことである。倶に第六意識が働かないので無心と名づけるのでる。無想定は有漏の定であると、それに対して、次に述べられます滅尽定は無漏であると.
六識と第七識が滅するのは滅尽定においてである。無想定に於いては六識はなくなるけれども、第七・第八識はなくならない。「不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅す」といわれています。そして「身を安和にならしめる」作用がある、といわれますね。滅定は完全に六識は滅せられている定ですが、身を持っていることが大事です。それは六識は滅せられても生きているということなんですね。
 本科段に於いても、「滅定の中に身に離れざる識あるが如く」と、滅尽定の中にでも、身を離れない識有ることが説かれているけれども、声聞・縁覚という二乗にもあるのですかと問われれば、そこはわからない、不可知である。けれどもです。不可知ではあるけれども、「応に信じて有と為すべし」と。
 二定は第六意識は働いていないと云われています。第七識と第八識が働いている状態を、無想定といい、第八識のみが働いている状態を、滅尽定と云われます。無想定は凡夫でも入ることが出来ます。しかし、滅尽定は阿羅漢と菩薩のみが入ることが出来る定なんですね。阿羅漢と菩薩は第七識を断じ、第八識の働きだけになっているからですね。第八識が第七識の染汚を受けなかったら、元の純粋性のまま生きていくことが出来るわけです。生きていると云うのは、身を持っていることですね。
 「然れども、必ず滅定の中には識有ると許すべし。有情に摂むるが故に。有心の時の如し。」(『論』第二・三十三右)
  だからして、識が有ると解るしかないのですね。理から云うとですね、必ず、滅定には、識が有ると許すべきである、と。何故ならば、滅定も有情に摂められるからである。何らかの心が働いている(有心)時のようである。このように説明されています。
 「無想等の位も、まさに知るべし、亦爾なり。(『論』第二・三十三右)
 異熟も、無心の睡眠と悶絶と等の位を等取す、と云われていることから、知るべきである、と結んでいます。
 以上で第二の所縁行相門が閉じられます。また、『成唯識論』巻第二も終わりまして、第三の心所相応門から、巻第三に入ります。一応、巻第二まで読んできましたので、しばらく休憩をしまして、第三能変の続きを読んでみたいと思います。

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