清浄法について述べる前に、復習になりますが、「心性本浄」(心性は本より浄なれども)の解釈について、もう一度読んでみたいと思います。『選注』ですとp34です。
護法合生義が述べられ、本有説並びに新熏説を破斥しました後に、分別論者を破す一段が設けられていまるのですが、ここに「心性本浄」の意味が明らかにされています。
「分別論者は、是の説を作(ナ)して心性(シンショウ)は本(モト)より浄なれども、客塵煩悩(キャクジンボンノウ)に染汚(ゼンマ)せらるるが故に名けて雑染(ゾウゼン)と為し、煩悩を離るる時に転じて無漏と成る。故に無漏法は無因生に非ずと云うと雖も、」
分別論者(部派の人々)の説というのは、後に『勝鬘経』に「心性浄と説けるは」という文章が引用されていますので、如来蔵思想を指すのではないかと思われます。尚『大乗起心論』も「心性浄」と説きます。如来蔵思想はまた部派(小乗)仏教の大衆部にある客塵煩悩(agantuka klesa)の考え方が影響していると思われ、煩悩は心に本来からそなわったものでなく、もともと心は浄く、煩悩が塵のように付着したにすぎないものであり、客塵煩悩に染汚されて、雑染となっているのだ、という説です。
「世尊、如来蔵とは、是れ法界蔵なり、法身蔵なり、出世間上上蔵なり、自性清浄蔵なり。此の性清浄の如来蔵にして客塵煩悩・飢え煩悩に染せ所たるは、不思議の如来の境界なり。・・・・。二法有りて、了知す可きこと難し。謂く、自性清浄心は了知す可きこと難し。彼の心の煩悩の為に染せ所ることも亦た了知し難し。此の如き二法は、汝と及び大法を成就せる菩薩摩訶薩とのみ乃ち能く聴受す」(『勝鬘経』)
唯識では、心性清浄及び客塵煩悩は認めていません。二つの理由を以て批判します。
一つは、空理非因の難。「而も心性という言は、彼何の義をか説く。」
一つは、起心非浄の難。「若し即ち心を説くといはば、数論の相は転変すと雖も而も体は常・一なりというに同じぬべし。」
ここは非常に難解ですね。鍵はですね、無記性であるということです。阿頼耶識は無覆無記であるという、染でもなければ、浄でもないということです。無色透明であるのが人間の根本のところにある心であるというのが唯識の主張になります。因是善悪果無記、心自体は無記であるということを現わしています。
空理非因の難では、空理は無為真如ですから因果関係は成り立たない、常法ですから、因と為り果と為ることはありません。空理を以て種子とすることは出来ないといっているのです。
論主の自解は、
第一解は、識の実性に約して釈す。
第二解は、依他起に約して釈す。
第一解
「然も契経(カイキョウ)に心性浄と説けるは、心の空理に顕は所(サル)真如を説くなり。真如は是れ心が真実の性なるが故に。」
「心性浄」と説かれている本来の意味は、「心の空理に顕さるる真如を」説くのである、と。
心性浄とは、空理所顕の真如(空理そのものではなく、空の理に現される真如)であり、分別論者の、空理そのものという主張は誤っていると指摘します。
「契経に説かく」、『勝鬘経』が述べている所は、心性浄とは、空理に顕された真如のことをいっているのである、と。心が実体的に存在するものではなく、因縁によって起こってくるもの、心は、因縁性である故に空であるということになります。心は有るけれども空である。
唯識の主張は、心は空である、ということを認めながら、空である心は有るのではないか、と云います。現実に心は動いている、喜怒哀楽する心の動きがあるけれども、動きそのものが空なんだと言うわけなんですね。真如を背景として動いている心は有るけれども、本来空であるということでしょう。心を実体化しない。執着しない。心は有るけれども、空である、因縁所生のものである、ということを言いたいのでしょうね。心は空であると言ってしまえば、心は無いんだということになってしまい、ニヒルに陥ってしまいます。これが空理所顕の真如として現されています。
第二解、「依他起に約して釈す」
空理所顕の真如ですが、真如はもとより無相ですから、識には認識されません。認識するということは、相が有るということになりますから、相に対して、真実そのものを性といいます。『論』には「心が性なるが故に」。真如は本来自性清浄なのですね。真如は言説を離れていますから、本来なら、言葉では言い表すことが出来ない性質のものです。言説を持ったときには、迷いの言葉を仮りて真実を指し示すということになるんでしょう。本願・念仏もですね、本来自性清浄の真如そのもの、自然法爾で、言葉もたえたものですね。
「法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。」(『唯信鈔文意』真聖p554)
本願・念仏という言葉も、一如法界等流の法ですね。私有化できる性格のものではありません。執着を起こしても執着されるようなものではないのですね。自己自身もですね、本願念仏に於いてある存在といえましょう。生きていることは、とりもなおさず本願念仏と倶に生きているのでしょう。
「或は説く、心体煩悩に非ざるが故に性本浄と名づけたり。」
第二解は「心体煩悩に非ず」。心の体そのものは煩悩ではない、無記性である、と。無記性であるが故に、果は無記ですから、現行されたものは純粋培養で、何色にも染められる要素をもっているわけです。真っ白の布は何色にも染められますのと一緒ですね。現行されている心は無記性でありますが、瞬時に煩悩に染汚され苦悩する現実が有るわけです。それを有漏心と名づけています。
「有漏心の性是れ無漏なるが故に本浄と名づくるには非ず。」
この有漏心を、その性が無漏であるとして本浄と名づけるのではない。有漏心は真如において有るものではあるが、真如そのものではないということを言っています。真如が有漏心を見出し、その有漏心が真如に触れる縁となるものでしょうね。真如によって見出された有漏が、有漏を縁として真如に触れることができる、ここが大変大事なところだと思います。
本願念仏に於いてある自己存在が、虚仮不実と見出されたわけですね。それが反って虚仮不実を手掛かりに本願念仏に目覚めていくわけです。未来永劫に助かる縁は無いと言う自覚のもとに、ですね。
今日は復習だけにしておきます。
明日は、
「諸の清浄法にも三種有り、世と出世との道と断果と別なるが故に」(『論』第四・十左)
一に世道(有漏の六行)
二に出世道(無漏の能治)
三に断果(所得の無為)
について学びます。
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