唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(24)経量部&有部の説を論破

2017-08-23 21:29:26 | 阿頼耶識の存在論証
  昨日FB友のKさんが、源信展を観、その中で當麻曼荼羅に圧倒されたコメントを投稿されていましたので、Gooから画像を拝借しました。 
 唯識の解説書はたくさん出版されていますが、基本図書は一冊でいいと思います。専門書になると思いますが、体系的に読まれるには安田理深先生の『唯識三十頌』(選集二~四巻)を推奨します。そして手許に『成唯識論述記』は必読書です。
 今日は、前段からのつづきになります。
 第四です。経量部及び有部の主張を論破します。
 「又、彼に説く応し、上二界に生じて無漏心なる時には、何を以てが食と為す、無漏の識等は有を破壊(ハエ)するが故に。彼の身命に於て食と為る可からず。」(『論』第四・三右)
 上座部の説を論破し、また経量部と有部の説に対して説く。有情が上二界(色界・無色界)に生まれて無漏心である時には、何を以て食とするのであろうか。
 (無漏は、有漏を見出し、観察して)無漏の識等は有漏を破壊するものであるから、彼(上二界に生まれて無漏心になっている有情)の身命に対する食とはならない。
 下界(欲界)には段食があるんですが、上二界に生まれますと、段食はないのですね。そうしますと、上二界に生まれた有情は何を以て食とするのかが問われているのです。それは、上二界に生まれて、有漏が無漏に転依しても、身は有漏だからです。
 無漏の識等は、有漏の身を持つ有情の食とはならない、と、その理由は有漏を破壊するものだからである。あたかも涅槃等のように、上二界に於ては無漏は食ではない。
 このように説いているのですが、部派仏教の場合には、思考方法が六識体系なのですね。そして六識の中で前五識は上二界には存在しないのです。欲界の第六意識が、上二界に転じますと、無漏の識になるのです。
 そして、無漏は有漏を破壊しますので、無漏になった第六意識は、有漏の身を持つ有情のための食とはならないのですね。そうしますと、部派の説明がつじつまがあわなくなります。上二界に生まれた有情は生存ができないことになるからです。そしたら、上二界に生まれて生存が可能なのはどうしてなのかという問いが出てきます。それが第八識の存在証明になるのですね。

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