倶生起の身見(薩迦耶見)・辺執見が有覆無記であることの理由が示されます。
「當に知るべし、倶生の身辺二見は唯無記のみに摂むるを以て、悪業を發せず、数々(シバシバ)現行すと雖も、善を障えざるが故に。」(『論』第六・二十右)
まさに知るべきである。倶生起の身見と辺執見はただ無記のみのものであるから、悪業を生起しないのである。何故なら、しばしば(間断がなく)現行するとはいえ、善を障礙しないからである。
再録しますと、倶生起の煩悩に於て、有覆無記であるのは、貪・癡・慢・薩迦耶見・辺執見であるのですが、三界に通じて有覆無記であるのは、薩迦耶見と辺執見の二見のみであると言われています。貪・癡・慢で悪業を發するものは不善・悪業を發しないものは有覆無記であると説明されていましたが、本科段は再度。薩迦耶見と辺執見の倶生起にあっては悪業を發するものではないとし、有覆無記であると押さえているのです。
本科段は「雖数現行不障善故」と如何に読めるかですね。一見矛盾をきたします。悪業が間断なく生起するならば善を障礙しますからね。
『述記』の説明をみますと、「重ねて二見は無記性なるを以て悪業を發せずと云うことは前に同じなり。」
前に同じという理由は① 細である。 ② 善を障礙しない。 ③ 自他を損悩しない。 ④ 数現行の四つの理由からであると述べています。
分別起にあっては悪業を發するものは不善であるとしながら、倶生起にあっては悪業を發しないとし有覆無記であるとされているのは、私に思いますには、生まれきたのは無始以来の業を背負って生まれてきたのでしょうが、異熟果としては無記であると。一つのキイワードは「この身今生において度せずんばいずれの生においてかこの身を度せん」という「度す」という方向性が分別起を破って、この欲望に満ち溢れた世界の中で有覆無記として現行しているのではないのかと思うのです。
種子生現行 - 現行されたものは無記性。
無記性である現行が第七末那識に由って色づけされる。 - 現行熏種子
善の種子・悪の種子として、- 種子生種子として阿頼耶識の中に記憶される、 - 表面化する時は因は善か悪であるが、果は無記として現行する。
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