心所を簡ぶ。
「但心所は心を所依と為すとのみ説いて、心所を心が所依と為すとは説かず、彼は主に非ざるが故に。」(『論』第四・二十右)
(心所は心王を所依とするとのみ説いて、心所を心王の所依とするとは説かない。彼(心所)は主ではないからである。)
「心に依るが故に心を所が主と為す。心所を心が所依と為すと説かず。彼の心所は体主に非ざるを以ての故に。即ち第三の義(為主の義)なり。此れは是れ(所)依の外にして別簡の法なり。故に重ねて之を言へり。」(『述記』第四末・九十右)
「此れは是れ(所)依の外にしてと云うより、故に重ねて之を言へりに至るは、此れ総じて前の簡ぶ所の法を出す所以を結するなり。依というは謂く所依なり。色・心所等は是れ所依の外の所簡の法なり。故に所依の後に方に指して簡ぶを重言と名くなり。・・・」(『演秘』第四本・三十五左)
心所は倶有依ではないと説く一段です。心所は心王の所依(倶有依)とするとは説かない、何故ならば心所は主ではないからである。主ではない所から、四義の中の第三の義(為主の義)によって所依ではないと述べています。前科段において「唯心・心所のみを有所依と名づく」という『瑜伽論』の説明は心・心所が倶有依であるという理解が生じる為に、為主の義において除外されている心所を重ねて倶有依ではないと説かれるのです。
依と所依
「『瑜伽』第一義に五識の所依に三有り。一には種子依乃至第三には等無間依といえり。前の此の論には諸の心・心所をば皆有所依という。然るに所依に三有りと言えり。即ち種子と等無間との依を以て皆所依と名づく。何が故に此れが中に定んで六の内処を以てのみ所依と為して、余をば但是れ依とのみいうや。」
依という場合は、すべてが含まれます。一切は縁に依って生起するということですね。横道にそれますが「ともしび」四月号に深沢先生が、曽我先生のことを語られる中で、曽我先生の語る「血のつながり」について述べておられます。「それは別な表現で言い表わすなら「万物一体の仁」になるのではないか」と。「万物一体の仁」とは「聖人之を憂ふる有り。是を以て其の天地万物一体の仁を推して以て天下を教へ、之をして皆な以て其の私に克ち、其の蔽を去り、以て其の心の體の同然に復らしむる有り。」(王陽明)と。「それはどういうことかと申しますと、この万物一体の仁は、中国語では「天地は我と同根、万物は我と一体」ということで、要するに、天地と私は根っこが同じだ、と。あるいは、万物、一切のものと我々はみな、兄弟だということです。」(『ともしび』四月号p4)と、そして曽我先生の感応道交ということは「「万物一体の仁」にもとづき、人は動物だけではなくて、植物とも感応する。山と川とも人間は感応する。」と述べておられます。一切です。すべてのものと感応することができる、ということは、すべてとつながって生きている、ということですね。これは依ということでしょう。法ですね。南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏において感応道交できる道が開かれてくるのですね。明日から始まるドラマ・過去にタイムスリップした医師を描く「仁」という意味は、すべてとのつながりを生きる人物像を浮き彫りにしていくのではないでしょうか。
依に対して所依と言う場合には四義を備えなければならないと護法は説きます。しかし『瑜伽論』等の典籍には依を所依と説かれている。このような記述が有るのは何故かという問いが出されているのですね。
『瑜伽論』巻第一は「五識身相応地第一」と表題がされていますが、その五識身は五感覚のことで別体です。五識各自、体有りということですね。相応は五識は心王であり心所の助伴という、等しく相互に結合し関係し合っているのです。(1)所縁の境(同一の対象を認識する)と(2)所依の根(同じ感官から生じる)と(3)起こるべき時間の平等(同一の時に働く)と(4)事の平等(体数の上での一対一の関係)一つの心王に対して触・受などの心所も各々一つしか相応しないという数の上での平等(四義平等)で心・心所相応というのです。このような文言があるのは何故かということに答えているのが次の科段になります。