ここからの科段は心・心所の倶有依について説明する。これが二つに分かれる。初には識の倶有依を解釈する。後には心所の倶有依を解釈する。また初の中が四つに分かれる。一には五識の倶有依について・二には第六識の倶有依について・三には第七識の倶有依について・四には第八識の倶有依について解釈する。此れは初である。この初がさらに三つに分かれる。
ー その一に五識の倶有依を挙げる。 ー
「此れに由って五識の倶有依は、定んで四種有り、謂く、五色根と、六と七と八との識ぞ。」(『論』第四・二十右)
(これによって五識の倶有依は必ず四種がある。つまり五色根と第六識と第七識と第八識との識である。)
- 五識の倶有依についての護法の説 -
眼等の五識の倶有依とは何であるのかという問いに対して護法は眼等の五識の倶有依は五色根と第六・第七・第八識の四種であると答えています。その根拠は『述記』に述べられています。
「五根を以て依と為すと云うことは、大論(『瑜伽論』)と対法の第一等に云うが如く一に非ず。何の典記にか出たるならば亦誠証有り。『解深密』と七十六(『瑜伽論』)との等に五識の起こる時には必ず一の分別の意識有りと説くが如し。前に縷々引けるが如し。」(『述記』第四末・九十一右)
『瑜伽論』巻第七十六の記述は「一の眼識転ずれば、即ち此の時に於て唯一の分別意識のみあって眼識と所行の境を同じゅうして転ず。」(『解深密経』と同文で、『解深密経』からの引用)と述べられ、『世親摂論』第四にも五識は意(第六識)を以て依と為すと説かれているといいます。
第六識に依るを証す。
また「意識無き時に五識は独り起こって聞くという文を見ざるが故に。『世親摂論』第四に五識は意を以て依と為し、意いい散乱する時は五は生ぜざるが故にと云う。彼に準ずるに明けし五は六を以て依と為すなり。」(また第六識が存在しない時に五識が単独で生起するということは諸典籍に説かれていない。従って五識は第六識を以て倶有依とするのである。) (つづく)