唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (88) ・ 倶有依 (64) 護法の正義を述べる、その(18)

2011-04-28 22:51:06 | 増上縁依(倶有依)

 第二に難を会す。五識は第六識の倶有依ではないことを説く。

 「問う、五と倶なるには必ず意有るをもって、五は意を以て依とすといはば、意了するとき五無にあらざれば、五も意が依と為るべし。此の難を釈すらく、」(『述記』)

 (護法は第六識の倶有依は第七識と第八識の二種であると説いているが、五識は第六識を倶有依とし、五識と倶なるには必ず第六識を倶有依とする。五識は第六識を倶有依とするならば、第六識も五識を倶有依とするはずではないのか、という問いです。)

 「五識と倶にして、境を取ること明了なりと雖も、而も定んで有るにあらず、故に所依に非ず。」(『論』第四・二十左)

 (第六識は五識と倶に活動し、境(対象)を取る(認識する)ことが明了であるとはいっても、しかし五識は恒に必ずしも存在するものではないので、五識は第六識の倶有依ではないのである。)

 五識と第六識の関係は分別依としての倶有依です。(4月22日の項参照)、第六識と五識の関係は五倶同縁の意識ですね。第六識は倶有依としての四義を備えているが、五識は間断することがある。独頭の意識の時には五識は間断する。このことは四義の中の決定の義を欠くことになるのですね。よって、五識が存在しないときでも第六識は存在するので五識は第六識の倶有依ではない。しかし、倶有依ではないが(倶有依としても四つの条件を備えていないが)依ではある。

 「(五倶同縁の意識は)五識と倶にして意識明らかに了すと雖も、而も(若し独頭の意識は)定んで有るに有らず、五識無き時にも意識亦有り。故に此に説かず。取って所依と為さざれども是れ依の義有るべし。」(『述記』第四末・九十四左)