護法の正義における五識の倶有依は、五色根と第六識と第七識と第八識であり、その中の一種でも欠いたときには五識は活動しない、と説かれているが、聖教には五識の倶有依は五色根のみであると説かれている。もしそうであるのならば、護法の説は聖教に違背するのではないのか、という問いがだされているのですね。その聖教との会通が「聖教に五識はただ五根に依るとのみ説かれているのは五根が五識の不共依だからであり、また五根と五識は必ず同境であり、近依であり、相順するからである。」と説明されているのです。不共依は眼識と眼根との関係のように他と共通でない所依をいいます。(10月26日・前五識の倶有依についての項参照して下さい。)また五根は五識の同境依となるということ。五根も五識も倶に現在の境を対象とするからですね。近とは五根と五識が相い近いということから近依といいます。(他の識は五識のためだけの倶有依となるのではなく、他の識の倶有依ともなるので、他の識は五識に対して遠依という。)相順は五根が五識と相い順じているという、互いに一致していることですね。なにが一致しているのかというと、五識と五根は境と有漏・無漏とを同じくするということです。五根は現前する対象を認識するので五識と同じであり、五識が有漏の時は五根も有漏であり、また五識が無漏の時には五根も無漏であるという関係です。
五識の倶有依は五根・第六識・第七識・第八識であるけれども、五根は他の識に比べて不共・同境・近・相順の四義において勝れているので、『対法論』等の聖教には以上のような理由から五根を五識の倶有依とのみ説いているのであって、五根のみが五識の倶有依であると説いているのではないと会通しています。
「下は第二の段なり」 ・ その二は、初めに第六識の倶有依を説明する。正しく第六識の倶有依を示す。次に五識は第六識の倶有依ではないことを説明し、第三に他の論書の所説と相違があることについて会通をします。
「第六意識の倶有所依は、唯二種有り、謂く、七と八との識ぞ。随って一種をも闕きぬるときには、必ず転ぜざるが故に。」(『論』第四・二十左)
(第六意識の倶有依はただ二種である。それは第七識と第八識とである。随って第七識と第八識のうちの一種でも欠いたときには第六識は、必ず転じることはないからである。)
「此れは第六識に唯二の所依ありということをいう。」(『述記』第四末・九十四左)
護法の説では第六識の倶有依は第七識と第八識の二種であることをのべています。証を引けば『瑜伽論』巻第五十一(大正30・580b14・又由有阿頼耶識故得有末那。由此末那爲依止故意識得轉、の文)・『顕揚論』巻第十七等に云われている。「阿頼耶識有るに由るが故に末那有り、末那を依として意転ずることを得等といえり。前の『摂論』に共依という文等の如き是なり。」(『述記』)と。阿頼耶識が存在することによって末那識が存在することができる。この末那識に依止することによって第六意識が転ずることができるのである、という『論』に説かれていることが根拠になります。