「依」という場合は「つながりを生きる」というような「法」を指します。諸行無常という法ですね。しかし、その法に迷っているのが私たちです。何故迷っているのかを明らかにするところに所依の問題が提起されるのです。主体の問題です。内の六処(五根と意根)に依って迷っているわけです。南無阿弥陀仏は法ですね。その法に迷っていることが明らかになるところに機の深信が生まれてくるのですね。機の深信が所依の問題になります。そして、機の深信が南無阿弥陀仏を証明しているわけです。機・法二種深信といわれる所以ですね。
- 所依の四義にかなわないものは所依ではない、という -
「余は、有境と定と為主とに非ざるが故に」(『論』第四・二十右)
(内の六処の他は、有境・決定・為主の義を備えていないから所依ではない。)
ここには三義を以て所依ではないと述べられていますが、これは所依側の条件である前三義を以て、内の六処の他は所依ではないといわれています。尚、第四義は能依側の条件である為にここでは省かれています。
「此は但王の如し、臣等の如きには非ず」(『論』第四・二十右)
(これはただ王のようなものであり、臣等のようなものでなはに。)
倶有依は王のようなものであり、臣等のようなものではないと、述べています。王は主であり、臣は伴であって、互いに王となり臣となるという関係ではない(更に互に因依と為すを得ざるが故に。)ということです。