唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (27) 来迎

2011-04-03 19:20:33 | 信心について

  『唯信鈔文意』に聞く  (27)

               蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

「来迎」ということは

  「『来迎』というは、『来』は、浄土にきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。」

 これ、ずっと変えてしまってありますね、「来迎」という意味をですね。「若不生者のちかいをあらわす」のが「来」という意味だ、と。「来迎」の「来」ですね。

  「穢土をすてて、真実の報土にきたらしむとなり。」

 穢土をすてて、真実の報土にきたらしむ。きたらしむるんだという。では、真実報土に生まれるということはどういうことかというと、無上の信心を発起するということの外にないわけであります。

   「すなわち他力をあらわす御ことなり。」

 「来」というのは、他力をあらわすみことばであるという。

  「また『来』は、かえるという。」

どんどん、宗祖独自の自由な解釈が出てまいります。「来」というのは、かえる。

  「かえるというは、願海にいりぬるによりて、かならず大涅槃にいたるを、法性のみやこへかえるともうすなり。」

 「願海にいりぬるによりて」というのは、これは信心を得ることでございますね。願海に入るということは、信心をうるということだと。それを「願海にいりぬるによりて」と仰せになってですね、「かならず大涅槃にいたるを、法性のみやこへかえるともうすなり」と。

大涅槃にいたるということは、法性法身のさとりをひらくことであります。法性法身のさとりをひらくということは、法性法身というのはですね、こころもおよばず、ことばもたえた、いろもなく、かたちもなし、と。こういうより外にないのですけれども、「みやこ」とありますから、この「みやこ」というのはどういう意味かと申しますというと、ただそういう無色無形の世界という意味じゃないわけですね。あらゆる功徳がみなあつまり、そなわって、欠けたところがない。「法性のみやこ」というのが、極楽になるわけですね。極楽浄土ですね。「法性のみやこ」という意味は、極楽浄土ということでございます。極楽浄土にかえるともうすのであると、こういう意味でございます。極楽浄土というのは「法性のみやこ」である。

 一面においては、色もなく形もないというのは、我々の妄念から、はかろうとすれば、色も形もはかることはできないということですね。仏の智慧によってみるならば、その世界は三種荘厳ですね。功徳として欠けたることがない。なぜか。一切衆生を不断に教化利益してやまぬ世界。自然に一切衆生を教化してやまぬ世界である。したがって、金・銀・瑠璃・ 硨磲・碼碯という、あらゆる功徳がそこに満ち溢れて、しかも自然に活動しておる。そういう意味で、「みやこ」といわれるのであります。

 それから次に、「法性のみやこ」ということからぞろぞろ出るんですね。

  「法性のみやこというは、法身ともうす如来の、さとりを自然にひらくなり。さとりひらくときを、法性のみやこへかえるともうすなり。」

 誰がひらくのかといったら、やはり念仏の行者ですよ。誰でもさとりをひらいたときに、法性のみやこへかえるわけにはいかんのですね。このさとりは段々ありますから、しかし、念仏の人が金剛の信心を得てひらくところのさとりこそ、法性のみやこへかえるのだと、こういう意味になります。

  「これを、真如実相を証すともいう。」

 「真如」は「真実にして常の如し」という意味を略したのですね。真実、つまり虚仮を離れた世界である。「如」は、これは「常の如し」という。常住、常というのは外道の我見ですね。普通は、如というのですね。外道の我見じゃない。決して固定したものじゃない。自由無碍でありつつ、しかも変わらぬという。それを「常の如し」と。「如常」というのでございますね。常というだけならば、これを常見と申しまして、我々の、いつもの「わが身あり顔」という我になるのですが、「如」と、常の如し、と。むしろその「如」という方ですね。「如」という方が、そのまま、あるいはありのままの状態。ありのままの状態が、いろいろとまた変化するんですね。変化するままが、少しも変化しないというような意味になりますね。説明すればその程度の説明でございます。

 「実相」と申しますのは、これはつまり、真実の相と申しますか、いわゆる我々の煩悩ですね。生死罪濁、生死とか、罪とか、煩悩というものが、そのまま仏のさとりの世界であるということですね。そういう意味でございます。煩悩を離れてさとりの世界は別にあるわけではない。煩悩のままが菩提である。我々から見るから煩悩の世界です。悩みの世界でもある。しかし仏の智慧から申しますならば、いずれも、この真如の光を失わない。そういう一つ一つのすがた、みなこれ真実ということでございますね。

 これ、「実相を証す」というのでございますね。煩悩そのまま仏のさとりであるということをさとるのでございます。「生死即涅槃」とさとるという智慧を、実相の智慧と申します。真如というても、実相というても、同じことを、いろいろそういうふうに説明をせられて啓蒙せられるわけですね。それから、

  「無為法身ともいう。」

 これは、先の法性法身ということと同じ意味でして、この「無為」というのは、有為でないといいう。有為と申しますのは、有ったり、無かったり、生まれたり、死んだりすることですね。無為というのは、生まれたり死んだりすることがないんです。有ったり無かったりすることもないんです。したり、しなかったりということもなし。何もすることがない。しかし、我々は、することがないと退屈でしかたりませんね。ですから、変な、することを出してきますですね。ですから我々には、無為というのは、できないんです。何もしないといえるのは、無為法身ですね。何もしないまま充実しておるという意味です。だから、それを、

  「滅度にいたるともいう」

 「滅度ともいう」でもよいのですけれども、「滅度にいたるともいう」と。はたらきとしていうと、そうなります。

  「法性常楽を証すともいう。」

 「法性」は、先に申しましたように、一切諸法の根本です。それは空性と申しまして、一切諸法の根本は空である。空を性としてあらゆるものが存在しておるんだという。あらゆる存在そのままが空であるというのが、法性というのでございますね。常楽と申しますのも、そこから出て来まして、その法性のさとりは常楽である、と。常楽と申しますのは、無常に対する常楽と解釈した方がわかりやすいかと思いますね。

 我々が楽という、常楽というのは、無常の楽である。いかに長く続くと申しましても、長くということ自体が時間ですね。ですから我々が、いつまでも無くならない楽しみと思うておるのは無常であると。それに対して、長いとか短いとか、有るとか、無いとかですね、そういう思慮分別を入れることはいらない。それは法性ですね。したがって常楽ともいえるということでございますね。それから「無上覚」という。

  「無上覚にいたるとももうすなり。」

 無上覚は、いわゆるいろんなさとりがありますけれども、仏のさとりを無上覚、と。無上、これ以上ないわけですね。これ以上ないというから、てっぺんかというたら、そのてっぺんという意味じゃなくて、無限。内容は、無限である。無限という意味と、上無しということが一緒になった言葉としてみるべきだと思います。

  「このさとりをうれば、すなわち大慈大悲きわまりて、」

 「大慈大悲」というものがきわまるのですね。したがって大慈大悲きわまれば、特別に大慈大悲などということもなくなるわけですね。

  「生死海にかえりいりて、よろずの有情をたすくるを普賢の徳に帰せしむともうす。」

 こういうふうに「来」ということを説明せられております。ずいぶん独自の説明を、「来迎」のところでせられるわけでありありますから、『唯信鈔』に説かれてあることに比較しますと、非常に大きな隔たりを感じさせますけれども、しかし、こういうことを仰せになったことが、これを受け取った人にどれだけ大きな意義、大きな生存の価値とでも申しますか、何一つ生存していく価値のない生活をしているという者に、どれだけ大きな意義を与えたかということを見ることができるかと存じます。一応ここで、「迎」というところに入らないで、「来」というところで終っておきます。

               次回からは第四講に入ります。

  震災復興に寄せる思い

 天災であれ、人災であれ、人知を尽くして復興に全勢力を傾倒しなければならないでしょう。今、真宗本廟では「被災者支援のつどい」を開かれ、被災者救済の為に全勢力を傾けられています。全国から団参の門徒衆がそれぞれの物資を持ち寄られ本山から被災地に届けられています。つながりを生きる私たちにとって人ごとではない、我が身の問題として受け止めなくてはならないでしょう。思うに親鸞聖人は疫病や天災に見舞われた人々の苦しみを救済しようと三部経千部読誦を思い立たれたことがありました。人として何か出来ること、という優しさからの思いであったのでしょう。『恵心尼文書』第五通に詳細が記されていますので全文掲載します。

 善信の御房、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、風邪心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、腰・膝をも打たせず、天性、看病人をも寄せず、ただ音もせずして臥しておわしませば、御身をさぐれば、あたたかなる事火のごとし。頭のうたせ給う事もなのめならず。さて、臥して四日と申すあか月、苦しさに、「今はさてあらん」と仰せらるれば、「何事ぞ、たわごととかや申す事か」と申せば、「たわごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。さて、これこそ心得ぬ事なれ。念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなして後は、経読 むことは止りぬ。さて、臥して四日と申すあか月、今はさてあらんとは申す也」と仰せられて、やがて汗垂りて、よくならせ給いて候いし也。
 『三部経』、げにげにしく、千部読まんと候いし事は、信蓮房の四の年、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申す所にて、読みはじめて、四五日ばかりありて、思いかえして、読ませ給わで、常陸へおわしまして候いしなり。信蓮房は未の年三月三日の昼、生まれて候いしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候う。
 弘長三年二月十日     恵信」 (真聖p619)

 「名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや」と、真宗門徒にとって何が大事なのか、今、問われています。名号です。南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏のほかに何の不足があって支援をするのか、ということです。南無阿弥陀仏のもとに支援をさせていただくのですね。とりもなおさず真宗門徒にとって「浄土」を明らかにする、存在の故郷である浄土ですね、この私たちの居場所を明らかにすることが肝要です。浄土とは「一切衆生を不断に教化利益してやまぬ世界。自然に一切衆生を教化してやまぬ世界である。」と教えられています。今、私たちは「念仏申す身に育てられること」が何よりも大事であると声を大にして叫ばねばなりません。世は無常である、と。「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」は一切諸法の根本をいいあらわしています、そして「我々」からでる世界は「一切皆苦」である、と。有ると思っていることが実は無いんだと、私たちが必死で有ると思って執着していることが無いんだと。そして私が・私が、と、思っている私も実体としては実は無いんだと。それが「煩悩の所為なり」と『歎異抄』でいいあてられています。そのことを蓬茨先生は「煩悩を離れてさとりの世界は別にあるわけではない。」と教えておられます。煩悩であると知ることが如実知見ですね。南無阿弥陀仏と念仏を申すところに開かれてくる世界が存在の大地ではないのか。私たちは「今」この存在の大地を見失い、見失った存在の大地の偉大性に目覚めようとしている機会にめぐり合っていると思われて仕方ありません。