ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

東京タワー オカンとボクと、ときどきオトン

2007年06月30日 | 読みました
             萩 江戸絞り
        小さなちいさな 米粒2っぐらいの花
          今年は沢山咲いている

6月も今日で終わり、半年がアッという間に駆け抜けていきました。

     東京タワー オカンとボクと ときどきオトン
          リリー フランキー

この本は唱歌の学校のたかはたさんからお借りしたものです。図書館では300人近い待ちでした。東京への日帰りの往復も東京タワーを見ながらこの本のことを思い出していた。

作者は我が息子達と同世代のようです。女手一つで息子を大学にやると言う事は大変な事だったでしょう。でもこのオカンの場合は、苦労のし甲斐があったようです。晩年はガンの苦しみを除けば、息子と二人と言うより、息子の友達をも自分の友達の様に仲間に入り、料理上手の腕を振るい、人の出入りの絶えない家で過ごす事が出来た幸せな老後だったと思う。

映画も見ているものだから「オカンのセリフ」を読んでいると樹木希林さんの声で聞こえてくる。

『春になると東京には、掃除機の回転するモーターが次々と吸い込んでいく塵のように、日本の隅々から、若いやつらが吸い集められてくる。暗闇の細いホースは、夢と未来へ続くトンネル、転がりながらも胸躍らせて、不安な期待が押さえ込む。根拠の無い可能性に心引かれた。其処に行けば、何か新しい自分になれる気がして。しかし、トンネルを抜けると、其処はゴミだめだった』

映画でもこの言葉はボクの東京での生活の説明として流れていた。オカンが身を粉にして働いた仕送りで遊びほうけていた時代だ。

『五十代になったオカンは、会うたびに年老いてゆく気がした。半年に一度顔を見るたびに身体がどんどん小さくなってゆく。その姿を見るたびに切なくなった。ずっと働き続けて小さくなった消しゴムの様なオカンと、東京で阿呆のように遊びほうけているボク』

『オカンが交通事故にあったときも僕は帰らなかった』

風疹に掛かって友達誰もが寄り付かなくなったとき『たまらずオカンに電話すると、オカンはとても冷静な声でこういった。「大丈夫よ。明日、朝一番で行ってやるけん。待っときなさい」意識朦朧としながら眠ってしまい、次の日の昼に目が覚めた時には、頭にタオルがのっていて、オカンがベッドの横に居た』

『誰かの言葉の引用なのか、オカン自身の言葉なのかは解らないが、黄ばんだその紙切れは二ツ折りにされて日記の奥に隠されていた。

     母親と言うのは無欲なものです
     わが子がどんなに偉くなるよりも
     どんな金持ちになるよりも
     毎日元気でいてくれることを
     心の底から願います
     どんなに高価な贈り物より
     わが子の優しい一言で
     充分すぎるほど倖せになれる
     母親というものは
     実に本当に無欲なものです
     だから母親を泣かすのは
     この世で一番いけないことなのです 』

親子って一番身近なはずなのに、成人すればお互いのことを知らずに過ごしている。本心は友に話しても親には話さない。もう子供じゃないんだからと自分に言って聞かせても、やはり幾つになっても親にとっては子は子なんだ。

東京に呼んだオカンに孝行もしていると思うが、亡くなって見れば「あ~もしてやればよかった。こ~も言ってやればよかった」と後悔する。東京タワーの見えるところで住んでいたが、展望台に登る約束は果たせなかった。その約束を果たすため「オカンの位牌」と共に東京タワーの特別展望台に登った。と言う親子の物語なんです。

扉の題字は「オトンの字」を使っている。親孝行してるな~。

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ねむの木のこどもたちとまり子美術展(3)

2007年06月29日 | 一寸そこまで
              二重橋
         もう50年も前に一度来ました
    興味が無かったので 記憶に残っていませんでした

新国立美術館のお隣の「ミッドナイトタウン」で昼食でもと思っていたのですが「ミッドナイトタウン」に日中行ってもね~とかへ理屈を言いながら、もう一度森タワーに戻って、5階の食事スペースで昼食を取る事にしました。お店は何処も長蛇の列です。おすし屋さんの列が一番短いので、其処に並びました。お店は綺麗だったのですが、お寿司は小さくて不味かった。魚に変わりは無いのですからシャリが私に合わなかったのでしょう。その店で一番安い900円のを注文したから文句はいえませんか?でも周りの皆さんも大体900円のを食べていました。でもね。神戸南京町の傍の800円でお釣の来るお店の方が美味しいですよ。食は関西なり!

お寿司の出来上がるのを待ちながら考えました。もう見たいものを見たから帰ろうかな?でも時間は有るしこのまま帰るのは勿体無い・・・。そうだレトロな東京駅を見て帰ろう。東京駅をカメラに収めました。そうだ、この前が皇居じゃなかったかしら、丁度、交番が在ったので「二重橋はどちらの方向でした?」「左に二つ目の信号を右に行って下さい」「東御苑は?」「右に行って信号を左に曲がると突き当りです」東御苑に行ってから二重橋を見に行こうと決めました。

東御苑の入り口でカードを受け取り、出る時にカードを返すシステムです。進んでいくと「同人番所(警備の詰め所)」とか「100人番所」とかの昔ながらの建物が残っていました。


奥に進みますと昭和天皇のご発意により武蔵野の面影を持つ樹林があります。私はその雑木林に入っていきました。そこかしこに珍しい花、見慣れた花が咲いています。ありがたいことに木には名札がぶら下がっています。

人影まばら、私が展覧会で絵を見ている間に相当雨が降ったらしく、道は程よく濡れ、その湿りで草いきれむんむんの道を歩いていました。胸苦しいほどの草いきれの中にあって、「こんな環境に身を置くのは何年ぶりかしら?」何て物思いにふけりつつ、緑を独り占めしながら歩いていますと、時ならぬ音「ずんどこぶし」が流れてきました、主人の着信音です。場違いな!?

何処からとなく水音が聞こえます、音のする方に歩いて行きますと、小さな滝がありました。その滝の流れ落ちるところに庭師の方が居ます。私が見ていますと「見て御覧なさい『イワタバコ』(一昨日の写真)が可愛く咲いていますよ。例年より2週間早いです。田舎に行きますと水辺に群生して咲いていますが、皇居では此処しか咲いていません。お帰りになったら調べてください。確か葉は食べられます」と説明してくださり、「側で見ると可愛さが良く解るのだけれど、岩が濡れて危ないので、此処なら大丈夫ですよ」と足場を教えてくださり「ゆっくり見ていってください」と去っていかれました。庭師の方が居られなければ見れなかった花です。

満足した私は二重橋に急ぎました。写真を撮って帰ろうとすると下の鉄橋の所で門番の交代に出会いました。イギリスのパッキンガム宮殿の様な派手さはありませんが、地味目の交替式の模様をカメラに収めました。午後4時でした。

東京駅に戻る手前で、この間出来上がったばかりの「新丸ビル」に一寸立ち寄ってみました。

良く歩きました。2万9000歩歩きました。後少しで尼崎駅に着くという所で、車中に30分缶詰になるおまけつきです。立花駅で飛び込みの人身事故(死亡男性は55歳の著名な弁護士)があり、処理の為に留め置かれたのです。電車は尼崎駅留めとなった為、私はバスを乗り継ぎ5分で着くはずのところを1時間掛けて帰宅しました。あ~しんど。
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ねむの木のこどもたちとまり子美術展(2)

2007年06月28日 | 一寸そこまで
           岡虎の尾(皇居東御苑)
       花の少ない今、この花が盛りでした
      白を良く見ますが ピンクは初めてです

会場に入るとまり子さんのご挨拶が掛かっていました。

『耳にしたり、目に付いたりするのは子供のイジメとか、自殺です。遺言なんてかいたって駄目よ。いじめるのは淋しいからなの。自殺って、強がってるの。駄目よ。のりこえたから、優しいの。そんな大切な命だから、絵を描くの。それは、強いから。だから一番高いビルのうえから、優しさを振りまくの、それが私の願いであり生きている事が「うれしいの」嬉しさを52階から振りまきます。どうぞ、待ってます。あたし、まってます。皆でコーラスしますね。』

学校の休みの日に、子供達が大勢見に来る日に、まり子さんは「ねむの木のこどもたち」とコーラスをするのでしょう。会場には小さなグランドピアノが置いてありました。絵を見に来てくれた子供たちに、障害があっても、絵を描いたり、歌ったり強く生きているよ!あなたたちも頑張りなさい!と言うメッセイジを送るのでしょう。

一番私が心打たれたのは画面に大きな丸と小さな小さな丸が描かれ、丸の中には大きい方には複雑に線が引かれ、小さい方には数本の線が引かれていました。題名は「おかあさんの心のおおきさ、ぼくの心の大きさ」でした。子供たちはわかっているのですね、まり子さんの心を。感謝をしながらがっしりと受け取っているのですね。

女の子の絵で、近寄らなければ見えない位小さな植物の連続模様が画面いっぱいに隙間なく書かれています。その絵の何処かに「お母さんと女の子」が絵の雰囲気を壊す事無く書かれています。学園では大勢の子供たちと一緒ですから、絵の中だけでも、お母さんと二人っきりでいたいのかな?二人の周りには小さな小さなお花がびっしりと書かれた居ます。書き始めは何処なのかな~。真ん中から描くのかしら、端っこから描くのかしら等考えてしまいます。「お母さんと少女」を描いて、その周りを埋めていくのかな~?「お母さんと少女」は真ん中にあるとは限りません、下の方にあることもあります。この女の子は食べる時意外は絵を描いているそうです。まり子さんの事務室で書くのが好きなんだそうです。何時も其処で、まり子さんの側で安心して描いているんだそうです。

売店では絵葉書や図録、本などを売っていました。私は絵葉書(100円)5枚と「やさしくね」(絵に短い言葉を添えたもの)と言うねむの木学園創立40周年記念出版の本(1500円)とを記念に買いました。

所々に感想を書くノートが置いてありました。私も書き残してきました。

「私は泣きたいのをがまんした。じ~っとがまんして絵を見つめた。まり子さんと出会えて、心を貰って幸せな子供たちを思って。私はしゃくりあげたいのをがまんした。がまんしてじ~っと絵を見つめた」

心を打たれること、感情の波が激しいとこんなにも疲れるのですね。私は途中一度、椅子に腰掛けて休まなければなりませんでした。数が多いから疲れるのではありません。一つ一つが私の胸に響くので疲れるのだと思います。

とてももう一つ展覧会を見に行く事は出来ないと思いました。でも「新国立美術館」は歩いていける範囲にあると言うので、建物だけでも見ておこうと思いました。地図は貰いましたがあまりに簡単すぎておのぼりさんにはわかりません。又人に尋ね尋ね行きましたら休館でした。でも警備が厳しそう。理由は翌日の新聞で知りましたが、皇太子ご夫妻が見に来られたそうです。正門の方にも回って予定通り建物を見て帰りました。
                          又、続く・・・。
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ねむの木のこどもたちとまり子美術展

2007年06月27日 | 一寸そこまで
             イワタバコ
       皇居東御苑の滝の淵で咲いていました
             左は滝の流れ

昨日は私にとってとても贅沢な一日でした。念願の「ねむの木のこどもたちとまり子美術展」を見に東京に日帰りで行ってきました。主人も誘ったのですが「東京に行くなら相撲を見たい」と言うので9月場所に行こうと言う事になり、この度は私一人で行ってきました。

立花始発に乗り、これも新大阪発の始発を利用したので、東京には9時に着きました。1月の「富士山を眺める旅」の時は車窓からの眺めは土色でしたが、昨日は田植えも終わり緑の絨毯が広がっていました。何時もは指定席を取るのですが、この度は始発でもあり、空いているだろうと指定席は取りませんでした。検札が来るまでは寝てはいけないと待っていたのですが来ないんです。考えてみれば何処に座っても良いのですし、切符がなければ改札を通れないのですから当たり前なんですけど習慣って恐ろしいものですね。

東京駅からは東京メトロの日比谷線で六本木で降りれば直ぐと、頭に叩き込んできたのですが、日比谷線がありません、駅員さんに訊ねて「丸の内線で次の銀座で乗り変えて日比谷線に乗る」と教えてもらいました。東京から六本木まで通しで買って160円、近いんだな~と感じました。六本木について「森ビルはどちらの方向ですか?」「森タワーですね?」何しろモグラのように地下に居るものですから方向がわかりません。3人ぐらいの人に聞いて、若い人たちにこやかに親切に教えてくださいました。

10時開館の10前にカウンターに着きました。時間が早いので暫く此処で待ってくださいと言われますので「お手洗いは?」「右手の奥直ぐ其処です」行けども行けども道なりに曲がってもありません。諦めて引き返そうかと思ったときにやっと見つけました。関東人の直ぐ其処は、田舎の人の直ぐ其処と一緒でだいぶ距離があります。もう一度他の場所でも「直ぐ道路中央にあります」これもぐるぐる回って解らず、もう一度他の人に聞いたぐらいです。

オフイス側への出入り口は厳重なガードです。駅の改札の切符タッチ機の胸位迄の高さのある機械の間をカードを通してオフイスに入っていました。胸にはネームカードをぶら下げていました。一社、株主総会のようで、何かあったときの為でしょうか、必要以上と思われる人数の社員が整列していました。

美術展は盛会でした。思っていた以上の人出でした。無料と言う事もあったのでしょうが、東京は人も多いからでしょう。若い人が多かったのも想定外でした。

どの絵も素晴らしかったですが、それ以上に、まり子さんの一人ずつの紹介文が素晴らしかった。子供たちと正面からぶつかっている、そして愛情を一杯注いでいる、子供たちもそれをしっかりと受け止めている事が、ひしひしと感じられました。たとえ障害を持って生まれても、愛情一杯貰って居る、ここの子は本当に幸せだろうな~と感じました。

どの子の絵にも何処か共通したところがあるのは、先輩の絵を見て、書き始めているからでしょうね。淡いタッチの子と、原色を使ったはっきりした絵と、大胆な絵と、はんこを押したような連続模様が気の遠くなるほど細かく書き込まれた絵と、それらが組み合わさって、それぞれの個性が出ていると思いました。もう一つ、おかあさん(まり子さん)を描いたのが多いのと、絵の中の何処かに描いた本人とおかあさん(まりこさん)が描かれている事です。

何万点とあるそうですから、選ぶのも大変だったでしょう。
                          続く・・・

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尼崎市抜き打ち召集訓練

2007年06月24日 | 新聞から
              南天の花
        ばっさりと切り取られてしまった花

今日は一日中、夜中に近い今も降り続いています。明日の明け方まで降り続くようです。やっと梅雨と言う感じがします。クーラーの試運転方々アイロンかけをしようと思っていました。一日中寒いくらいだったのでクーラーは必要なしで助かりました。

『尼崎市抜き打ち召集訓練 南海地震備え初動態勢を再構築へ』と言う記事が目を引いた。

『50%の確立で30年以内に発生すると予想された南海地震に備え、尼崎市は23日、課長級以上の職員ら347人へ抜き打ち非常招集訓練を実施した。実際に近い状態を作り、防災対策の課題を探る初の試み。電話連絡や携帯メールを使った召集から1時間以内に3割以上が出勤した。職員一人一人が課題を検証し、より速やかな初動態勢の構築を目指すという』

『能登半島沖など全国で地震が起こり、近い将来に東南海・南海地震の発生も予想されるなど、市民の危機意識が高まる一方、阪神淡路大震災を経験した職員の多くが退職している為、9年ぶりに非常召集訓練を計画。「災害は忘れた頃にやった来る」の教訓から、初めて抜き打ちで実施した ・・・中略・・・ 防災対策課によると、課長級の職員ら347人のうち、非常招集から1時間以内に市役所に駆けつけたのは全体の31%に当る109人。消防本部の消防士らは、午前10時5分までに全員が持ち場に到着した』

『白井市長は集まった職員に対して、「抜き打ちで驚いたでしょうが、地震への備えは鋭く問われています。市民の命を守る使命を重く自覚して欲しい」と訓示。所要をキャンセルして駆けつけた職員は「まさか休日に訓練があるとは思わなかった」と驚きながらも気を引き締めていた』

347人中109人が1時間以内に駆けつけたと記されていたが、残りの238人は? 時間はオーバーしたが駆けつけたということだろうか? 市民としてはそこの所が一番気になる。この度の1時間以内に駆けつけた109人の方が頼りになる人と呼んでも良さそうだ。

消防士さんは全員(10時5分までには)持ち場に就かれたとか。さすがです。頼もしい限りです。

抜き打ちで、それも休日の訓練、市民としても「ご苦労様でした」と申し上げるが、一日の内、市役所に勤務する時間は8時間、確立から言っても一日の2/3は勤務外で、出先又は家庭で連絡を受けることになると思うので、「抜き打ち、休日の訓練」正解だと思います。

白井市長は何処に居られる時に連絡を受けたと想定されたのだろうか。自宅からだと10分前後で市役所に到着されるだろうから・・・。

『午前9時の非常召集から約1時間後に開かれた災害対策本部員会議は、局長以上の構成員15人のうち5人が代理出席となった ・・・後略』

代理出席とはどういう事か?普通の場合は代理といえば、自分の直下の役職者を代理とするわけだが、今回はその方たちも対象者であるから、果て?何方を代理に?

細かいことのようであるが、市民の私たちも関心を持ってことに当ってこそ、役所の皆様も熱心に対応していただけるのではないでしょうか。この度の「抜き打ち訓練の経過、会議の内容」等「市報尼崎」に詳しく載せていただければと思っています。そうすれば新聞記事を読み落とした市民も市の災害対策本部の活動を知る事が出来ますし、私の様に結果を知りたい者もありがたいです。

ワーストなイメージが高かった尼崎が、だんだん良い方向に進んでいく様で嬉しく思っています。

     ★明日、明後日お休みいたします 



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中原の虹 (二)

2007年06月23日 | 読みました
         モントプレチア(桧扇水仙)
    ものすごい繁殖力で白色紫蘭が侵食されている
         球根で増えるので半分抜いた

昨日と打って変わって良いお天気。「オカヒジキ」茎から柔らかい葉の部分をつまんで、湯がいて(量が減らない)、オカカをかけて頂きました。生まれて始めての味、何の癖もなく美味しかったです。もう一回分あります、明日はわさびドレッシングをかけようかな?それともやっぱり、ごとうさんが言われるように、一番美味しい食べ方、たっぷりのオカカを掛けて頂こうかなと思案中。新鮮であるのは勿論、その上に新しい品種(暫くしてスーパーにお目見えする)のお野菜を下さるのでありがたい。


          ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

         中原の虹(二)     浅田次郎

『見聞したことや思いついたことを、こまごまと手帳に書き付けるのが吉永の習慣である。幼年学校でも士官学校でも、頭で覚えようとせずに筆記せよと躾けられた。口頭で下達された命令も必ず手帳に書き写し、それを読みながら復唱する。上官に状況の報告をしたり意見を述べたりするときも、同様に手帳の記録を読み上げる。つまり吉永の習慣と言うより生え抜きの陸軍将校の習性で、その動作一つから士官学校出身の出自の知れるものである』

と言う箇所を読んで「へえ~」と思った。軍隊と言う所は秘密主義で、命令など書いて残すなどもってのほかで、全て暗記して、証拠は残さないものと勝手に思っていた。それと報告書は漢字とカタカナ文字で書かれるのですね。勿論楷書で一字一字丁寧に書く為にはひらかな文字よりカタカナ文字の方がかっちりしていると思いますが。

『貧民窟ではズケやと呼ばれる残飯やと言う商売があって樽に飯も菜も汁も一緒くたにした残飯で、チャズケに似ていなくも無いから、ズケ屋と言うのであろう。・・・中略・・・陸軍士官学校などから、兵食の残飯が集まるのである。』

それを貧しい人が丼を持って買いに行くらしい。時には士官学校の残飯の事もあり食べ物が上等だからと少し値が高いらしい。貧民窟の人と言うのは働いても食べられない人のことを言うのだろうか?でも住む所だけはあるのだろう。勿論このお話の日本は、中国の清、西太后の時代のお話であるが・・・。

私が小さい時、働いてもいないし住む所も無さそうな「ルンペン」といわれる乞食が肩に空の炭俵を担いで、夕暮れ時、各家庭の家の外にあるゴミ箱を漁って、欲しい物をゴミつかみでつまんでポイっと背のかごに入れているのを良く見かけた。「ルンペン」:ドイツ語。ぼろを纏ってうろつく人。乞食。何故ドイツ語で呼ばれていたのだろう。神戸だけだろうか?日本中がそう呼んでいたのだろうか?

西太后と光緒帝の仲については、光緒帝が西太后を亡き者にしようとしたことが発覚して、幽閉生活を余儀なくされたという知識だったが、この本では西太后は帝を愛し、帝は西太后を慕い、西太后の死の時期を一にして帝も死ぬ。

西太后の鶴の一声で3歳の溥儀が帝の地位に就く。このように溥儀が帝になった場合、それまで住んでいた邸は、宮殿とするか、菩薩を祀る廟とするか、兎も角、親兄弟といえども住み続けてはならない。直ちに下賜された邸に転居しなければならないそうだ。ここで終わり、後は巻三で完結する。

あくまでも小説であるから、何処までが真実で、何処までがフィックションか歴史に疎い私には解らないが、だんだん「中国の清の時代」の事は私の頭の中で、おぼろげながら形作られていくような気がする。

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お疲れ様会

2007年06月22日 | 今日この頃
              折り鶴蘭
        今年はランが延びその先に花が咲いた

今日は朝から雨だった。こんな日は「晴耕雨読」の言葉通り、一日読書をしていたい気持ちだが、唱歌の学校の発表会の「お疲れ様会」と言う親睦会を西宮で持つことになっている。今回(二人ずつ交代)は会計だから遅れるわけにはいかない。

今流行の「居酒屋風のお店」ネットで調べて楽しみにしていた。15分前に着いたが誰も居ない「集合場所を間違った?」目の前に行くべきお店の看板が目に入ったので行ってみた。でもまだ準備中で誰も来ていなかった。

約束の時間にぞろぞろと集まってくるのが見えた。私は手を振って存在を示した。
集合場所が解り難かったので、一歩手前の場所で集まっていたらしい。私も解らなかったので駅員さんに尋ねたのだ。

間口に対して奥行きのある、所謂「うなぎに寝床」のお店。花は全て造花、それも安物ゆえにけばけばしい。但しどの花器も感じが良い。惜しいな~、変な花を生けて。

たった20名ですから会計は簡単。席は掘りごたつ風。足が下ろせて好評。私達が会費徴収している間に、抽選で座席を決める。食後もう一度抽選があった。それは今回もごとうさんが今朝5時に起きて取って来て下さった「無農薬野菜」の抽選だ。
さやえんどう、獅子とう、きゅうり、ピーマン、オカヒジキ等、名の書かれた札を引いて、その品物がいただける。私は「オカヒジキ」だった。

「オカヒジキ」は茎から外した葉っぱをおしたしにしてオカカを掛けると美味しいと説明を受ける。初めての味なので明日が楽しみです。先日も「レッドたまねぎを3個づつ頂いたばかりだ。ごとうさんのお陰で新鮮野菜を食べさせていただいている。感謝あるのみ。

さてお料理ですが、小さな茶碗蒸し、おさしみ、アサリの味噌汁、うなぎの箱寿司、天麩羅、9色のお料理が入ったお重にデザートは小さなチョコレートケーキと盛りだくさん。しかしこれは若者向きの量である。私達には量が多すぎて、皆何かを残していた。9色の盛り合わせも3色ぐらいで良いから同じ種品で味付けだけ変えるという無駄を無くした方がありがたいかな~。

割安感があるのでしょう。満席です。若奥様風のグループで一杯です。男性は我らのごとうさんだけだそうです。アルコールは自己負担、4~5人いらしたかな。

総括:雰囲気、飾り、料理纏めて私のお口にはあわず、もう一度行きたいとは思わない。半額の大阪のお店、選択したメイン料理と御飯、漬物、味噌汁だけ運んでくれるが、後は好きなものを好きなだけ選べる、セルフサービスのお店の方が良い。

私達がここで居る間に凄い雨だったらしいが、私達が次の目的地「あさひビール工場見学」に行く頃には小雨になっていた。

私は「キリンビール」が尼崎に在った頃行ったことがあるが、機械も変わっているだろうと参加することにした。

初めにビデオを見て説明を受ける。地方のネーム入りのバスから30人ほどの人が降りてきた。「としよりばかりやな~」「私達と変わらないよ」「でも私達の方が何となく若々しいよ」「着ている物が私達の方が高感度かな~」何て自画自賛していた。相手方は本当に色や型が「ば~さんスタイル」だった。

後の工場見学のときも、昼食が、一寸濃い目の味付けだった為に、喉が乾いて仕方が無かったので、ジュースの予定を変更、絞りたてのスーパードライを頂く。ぐ~と一杯の何と美味しかったことよ。

主人に「おつまみ」3種購入家路を急いだ。因みに我家は「キリン党」で~す。
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親と子

2007年06月21日 | 気にかかる
            グラジオラス
       咲き始めました 小さな品種です
     百合にもたれかかるように咲いています

夕べから今日一日と雨が降りません。朝と午後の二度の洗濯物がすっかり乾くほどお日様と風のある一日でした。明日は降る様ですが、本当は夜に降ってくれるとありがたいのです。庭の水撒きをしなくて済むから。これから3ヶ月ほど、朝起きて一番の仕事が水撒きです。水撒きをしながら花の咲き具合を見るのも楽しみではあるのですが・・・。

朝刊の一面に「朝の詩」と言う欄があります。毎日一遍、その中から1ヶ月に一遍「月間賞」として選ばれます。5月の「月間賞」に、神戸の102歳のたなかちよさんの詩が選ばれました。

            おとっつあん

     早うに逝ってしまった
     おとっつあん
     何でやさしい言葉を
     かけなんだのやろ
     何でもっと親切に
     せんかったのやろ
     親一人子一人で
     淋しかった子ども時代
     私を守ってくれた
     おとっつあん
     今日も手を合わせて
     おがんでいます
     ちよは元気でおります
     おとっつあん

これは私の心そのものです。フッと母を思い出すとき、私は何てそっけない子だったのだろう。女の子の癖に優しい言葉も掛けないで・・・。70歳を過ぎた、母の年をとっくに過ぎた今でも思います。大先輩であるちよさんも親を思い、感謝しておられるのを知って気持ちが楽になりました。

母を喜ばせようと勉強しました。でも今から思えば、成績の良し悪しより、女の子らしい優しい言葉の方が母は喜んだのでしょうね。母は若くして死にましたから、美人のままで死にました。彼岸に往った時、母より年を取った娘を解ってくれるのでしょうか?

選者の詩人は「100歳を越えても尚・・・と、胸を衝かれました。ちよさん、このように思い続けてこられたことで、貴女は十分に親孝行をなさいました」と話されます。

ご本人は「私が6歳の頃、母と離別したおとっつあんは新聞配達などをしながら男手一つで育ててくれました。おとっつあんの生き方や教えは、阪神大震災で住む家を失ったときなど、人生の数々の節目で私の生きる指針になりました。改めて感謝の気持ちを詩に託しました」といわれます。

昔の親は、今の親のように高学歴ではありません。でもわが子の心に何かを植えつけていっているようです。これは学校で学ぶ質のものではありません。人に対する心でしょうか。その時には解っていなかったことでも、年を経ると教えとして思い出すのですね。「昔の人は偉かった」は市井の人にも当てはまる言葉のようです。

親が子を子が親の命を奪うような今の世の中では、親を慕い子を愛する事の何処かに行き違いがあるようです。何なんでしょうか? 今を生きる私達が忘れてしまっているものは・・・。

今夜、大阪の11男4女の17人家族のテレビを見ました。その4男が「苦労を掛けたので、その恩返しにと結婚30年の両親に海外旅行のプレゼントをするのです。中学を出て働き(新聞配達)ながらコツコツ貯めたお金です。親のお金で学生生活するのが当然と思われている年頃に、こんな子もいるんです。又次女も親を早く楽にさせたいと働きながら、定時制高校に行く道を選びます。15人も居れば色んな子も居るでしょう。でも兄や姉の生き方は9人の下の子は見習うと思います。苦労ももう少し、頑張れお母さん!
                         (420回)


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千の風になって

2007年06月20日 | 気にかかる
              百 合
        鉄砲百合型 横向きに咲きます
            クリーム色です

一週間ほど前までカラスの親子がカーカーと五月蝿かったんです。何だか子カラスに教えているらしく大声で鳴くんです。子カラスの方も又少し細めの声で鳴き返すんです。一日中なので五月蝿かったんです。気がつくと居ないんです。訓練終了でしょうか。

「千の風になって」が売れているそうです。2005年の9月に発売された、秋川雅史さんのアルバム「威風堂々」の中に収録されていました。クラシックとして異例のシングルカットされたのが2006年の5月。去年の紅白で歌ったのが切っ掛けで爆発的な売れ行きを見せている。若い世代から、50.60代までと幅広い層に支持される事で、今年5月までベスト10をキープするロングヒットを記録、ミリオンセラーまで後一歩まで来ている。これまでにCDを買ったことの無いような人までが買い求めていると言う。

一番吃驚しているのは秋川さんご本人かも知れない。クラシックのCDは購買者が限られているから。改めでテレビの威力の凄さを感じさせる。

唱歌の学校では2.3前から歌っている。校長先生も余り好きではないといわれるが、私も好きと言うほどではない。先日の発表会のラストで会場の皆様もご一緒に歌う歌の中の一曲であった。

お寺さんは如何思っていられるのでしょう。端的に言えば「お墓詣りしてもらっても私は其処には居ませんよ」と言う歌なんです。

加藤登紀子さんも歌っているそうですが、私は由紀さおりさん姉妹の歌で聞いてみたいのですが・・・。歌っておられるのでしょうか? これだけの人気曲ともなれば、皆さんこぞって取り上げるのではないかと期待しているのですが。

           ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

台湾から日本語の勉強に来ている学生が「優先座席について」書いていた。
『私は、半年ほど前に日本へ来た。最初の2ヶ月毎日、南武線の電車で日本語学校へ通った。日本の電車には台湾と同じで、優先席が設置されている。・・・中略・・・台湾では席が優先席かどうかはあまり関係なく、もし年取った人が席が無くて立っていたら、近くで座っている人が席を譲る。所が私が電車で通っていた2ヶ月間、そんなことを余り見たことが無かった。日本では、老人に席を譲るのは優先席だけなのだろうか。私はそうだとは思わない。・・・後略・・・』

優先座席が若者に占領されているのは日常茶飯事の事です。その席を譲るべきお年寄りが前に立ったかを気にする前に、若者は目を閉じています。眠っている事もあれば、イアーホンで音楽に耳を傾けています。もし目を開けているとすれば、携帯を操作しています。自分の世界に入り込んで、周りを気遣う事は無いようです。

昔の電車の中で居眠っているのは、中年以上の方々でした。今ぐっすり眠りこけて居るのは若い方のようです。テレビ、パソコン等夜更かしするのでしょう。朝だと言うのにこっくりこっくりしています。

遊びで出かけているのですが、疲れて座りたいな~と思うことがあります。そんな時に限って満席だったりします。「元気で遊びに出かけられるのだから、立って居なさい」と自分に言い聞かせますが、優先座席返して欲しい時もあります。

JRの座席は7人掛けになっていて、おまけに窪みをつけてあります。若い人も体格が良くなっていますし、おばちゃん達も太めです。7人は座れません。あの窪みは無用の長物だと思いませんか。


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ワタル with オカン

2007年06月19日 | 新聞から
             サボテン
       葉に比べて小さな地味な花です
       根元から釣竿のように首を出し
    その先に思いもかけない形の花を咲かせます

やっぱり梅雨ですね。お日様サンサンなので、厚めのタオルケットを洗濯しました。昼まであんなに良い天気だったのに、気が付けば曇天です。午後にはやっぱり降り出しました。でもタオルケットはちゃんと乾きました。晴天の太陽はもう真夏並なんですね。

「親子漫才 弾ける笑顔」と題して21歳の息子と漫才コンビを組む52歳の母の事が載っていました。写真を見る限りいい感じです。21歳の息子とこんなに良い感じで相対せる親子って余り居ませんよ。世間一般では20歳過ぎた息子とは会話にも事欠くのではないでしょうか。たまに母と息子が仲良しだと「マザコン」って蔑められるのは何故? 母娘には言わないのに。

息子、亘(わたる)さんは母、美代子さんにとっては4人目で末っ子の3男坊です。良い子持ちさんです。普段から仲の良い親子だからこそ出来たんでしょうね。

コンビ名は「ワタルwith(ウイズ)オカン」と言うそうです。「親子漫才」と聞けば何となく「父と娘」を想像するのは私だけでしょうか?

コンビの結成は2年前、芸能人を目指すわたるさんが、漫才コンクールの最高峰「M-1グランプリー」に出場したいのに「相方が見つからない」と言った言葉からだそうです。「M-1グランプリー」に出場した後、わたるさんがNSCへの入学を決めるとみよこさんも願書を提出した。

みよこさんは「また、相方が見つからなくて困るんちゃうかな、私で力になれるなら、と言う親心もありましたが、50歳を過ぎて子育ても終わって、私自身、変わりたいなと言う気持ちも強かったんです」と言う。

ネタの稽古に発声練習、ダンスに筋肉トレーニングと体は中々付いていかなかったけれど、若い人たちに囲まれ、自分の世界が広がっていくのを感じた。そんなみよこさんを見てわたるさんは「ぐうたらしていたオカンが、別人のように生き生きして、父も他の家族も喜んでいます」と言う。

20歳で結婚して子供4人を育てたみよこさんがぐうだらしていたとは思えないが、子供の手も離れ、これからは自分の時間がたっぷりある、何かして自分も変わりたいという、その時期と上手く合致したんでしょうね。

みよこさんのたった一つの心配事は「横にべったりオカンが居ったら、この子に彼女ができへんのとちゃうかな」と言う事なんですって。「そんな心配いらへんよ、良い息子さんや、きっと優しいお嫁さんがきはるわ。親子仲の良いのは傍から見ても気持ちがいいし頑張って欲しいわ、応援します」って言ってあげたい。

このコンビは昨年8月の「ワッハ上方アマチュア演芸コンクール」で審査員特別賞を、今年2月に「新人お笑い尼崎大賞」奨励賞を受賞した。幸先よろしいな~。今年3月にNSC(吉本総合芸能学院)を卒業したばかりなんです。「尼崎」に関係ありと言う事が私の目を引きました。

「新人お笑い尼崎大賞」にも興味を持っています。去年でしたか、女の子二人のグループが話題になりましたが、尼崎も選ぶだけではなく、新しい才能が芽を出すまで発表の場を与えてあげればいいのですが。財政難・・・。

二人の目標は「M-1」の3回戦進出だそうです。漫才自体が日本独特のものですから「世界で一つだけの親子漫才」が花開く事を祈っています。

親子関係では悲しい話題の多い昨今に、ひさびさの明るい話題でした。


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