ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

今年最後に

2006年12月28日 | 今日この頃
            ゼラニューム
       春にさし指し芽した四季咲きです
      ぼつぼつ小さいながら咲き始めました

昨夜は主人が「焼き鳥屋に行きたい」と言うので芦屋の焼き鳥屋に行きました。やっぱり安くて美味しかったです。おすし屋さんの半額で満腹です。比べるのが間違いかな?

芦屋大丸を通ります。何時も「目の正月」と言いながら眺めて通ります。夕べもそのつもりでした。店の前に立つと「私を連れて帰って」と呼んでいます。私は引き寄せられるように側に行き、そっと値札を見る。「あれ?」もう一度確かめる「間違いない」半額のバーゲン値が付いている。正価だと買えないが、この値段なら、息子に貰ったボーナスで買える。

「これ貰ったボーナスで買える」値札を見せる「着てみよか?」袖丈が少々長いだけで9号は私のサイズ。買うことにした。今まではパソコン本体の為にキープしたり、デジカメや印刷機を買っていた。此処当分はいらない、事もない。一眼レフのデジカメが欲しいな~と思っている。だから夏のボーナスは貯めている。

でも少しはお洒落もしないとモロに年相応になってしまう。やっぱり嬉しいな~新しいものを手に入れるという事は。そういえば小学生の頃、新しい服を着ている友達を見つけると「オニュー」といって背中を叩いたっけ。

年末には毎年芦屋大丸の地下食料品街で買い物をすることにしている。早速地下へ、酒の肴と仏さんへのお供えのお菓子を買うのである。「上等の雲丹が欲しい」と言う。上等を買う、隣の「いくら」の瓶を見て「これも」、その列に並んでいた「カラスミ」を見て「美味しいやろな~」と言う。結局それも籠に、気に入ったブレザーをゲットして、気の大きくなっている私の財布の紐が緩んでいる。「お正月やからいいか」と欲しいものを買って、次の目的地「焼き鳥や」へ。

「焼き鳥や今日休み違うか?本店の三宮(弟の店、芦屋は姉の店)が元町に近いから今日水曜日で休み違うか?」「三宮は月曜日が休みやよ。同じ曜日でなかったね。木曜日が休みと思うけど」「行って休みやったらあほらしいから電話掛よ、電話帳何処にある?」「公衆電話にあるわ」公衆電話を見つけて電話帳を繰ったけれど、見当たらない。「104に聞いたら良いけど、書くものないし、聞いても覚えられへん」「二人で覚えたら出来るで」104で教えてもらった番号を「反復します」と言いながら2度確かめた。普通は番号は機械の声に代わるのに、今日は人間が教えてくれた。忘れぬ内に直ぐダイアルを回す。幸い定休日でなかった。

帰り道で気が付いた、もう一つの用事を・・・。最後のお歳暮を送るのをすっかり忘れていた。各々自分の欲しいものをゲットして、人様へのお歳暮は忘却の彼方である。

そういうわけで、今日又、大阪に出かけることになった。人の込まない内にと出かけたが、さすがにお歳暮を贈る人はいなかったが、帰省のお土産を買う人で、お菓子売り場は賑わっていた。鹿児島に送ったのだが、まだ今年中に間に合うと言われた。トラックの運転手さん本当にありがたうございます。値下げまでしているんです。900円位が、今は700円で送れます。

明日からはお正月を迎える準備に入ります。今日で258回書き続ける事が出来ました。又来年は一応の目標1000回を目指して頑張りますので、よろしくお願いいたします。

   12月29日から1月3日までお休みいたします。

皆さま良いお年をお迎えください。

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懐かしい友達

2006年12月27日 | 思い出話
              小 菊
           今年はこれ一色だけ
         来年は6~7色咲かせますよ
          今年苗を買いましたから

昼食時、テレビが「陣内さんと紀香さん」の婚約発表の場面を写し始めた。「2月に生田さんで式あげるそうやけど、写真はすぎおさんかしら?」と私。画面は婚約式の時の写真に切り替わった。写真の下の方に見覚えのある名前が「あれ?今、撮影すぎおって書いてなかった?」

絶対見間違いではない、早速,携帯に掛けて見る。「もしもし、今テレビで見たんだけど、紀香さんたちの婚約写真撮ったん?」「うん」「きれかった?」「綺麗とか何とか、そうゆう気持ちで見てないで。仕事やから、いかに満足してもらえる写真を撮るかしか考えてないで~」仕事ってそんなもんなんや。「そいで、式の写真も、すぎおさん撮るん?」「そうやで・・・」「十二単やって、今テレビで言うてるで~?」「そうや、十二単やで、着付け専門の人が付いてくるんやろう」「あの写真どうして渡したん?宅急便?」「あくる日に紀香さんから送って欲しいって電話があって、パソコンから送信したよ」

「昨日は新聞社や雑誌社から写真欲しいって電話が掛かってきて大変やったんや。でも個人のものやし、紀香さんの方に渡してあるので、あちらの方から貰ってくださいって、気を悪くしないように言うのもしんどかったで。こっちも商売やから変な噂立てられたくないしな~」「そうなんや~」「撮影の日も極秘やったのにどこかから漏れて、生田さんの周り報道関係の人で一杯やったらしい。僕は仕事でみてないけど・・・」「蛇の道は蛇やな~」2月の陣内さんと紀香さんの結婚式の撮影までは色々と関連事で忙しいらしい。

久し振りの電話である。後はクラス会の事等一杯喋った「ところでお父さん(主人の事)元気?」「元気よ。かわるわ・・・」男同士、釣やら囲碁の話をしていた。
すぎおさんは何故か主人のことを「お父さん」といい、主人はすぎおさんのことを「髭」(あごひげを生やしていたから)と呼ぶ。

主人が現役の頃、三宮のスナックに同級生5,6人と両手に溢れる位の回数飲みに行った。主人も同席して、そんな私達を見て「羨ましい!」と言っていた。主人は男女共学ではない世代の人だから。だから私の友達も大切に扱ってくれたと思う。主人公認の異性のお友達、すぎおさん、くぼたさんはそんな時一緒に騒いだお仲間だ。そ~だもう1人、タイでお世話になったうえださんも公認だ。懐かしいな~。

そんな集まり以外にも当時は、私は飲めないがカラオケに嵌っている頃で、毎週末は歌う為に三宮に通っていた。

何かの拍子に遠い昔を思い出した時、その時代を共に歩んだ人達が居る、それが同性であれ異性であれ、懐かしくてたまらなく会いたい時がある。今そんな気持ちだ。元気な内に「男の中に女が1人」って集まりやってみようかな~。いやいや珠ちゃんが寄せてって言うかもね。「おいで~、良いわよ」ってね。考えるだけで楽しくなってきたわ。

「今度、珠ちゃんと神戸で会う時電話するわ。お昼でも一緒しよう・・・」「時間があいていたらな~」「うん」と、長~い友情の空間は電話している内に消えた。友達って良いな~。あの時代も、この時代も私は良い友人に囲まれていた。この何年間か、今の自分に追われていて忘れていた友情もある。勿体無いことをしたと思っている。

今私が一番会ってみたいのは、集団疎開で共に暮らした人達だ。会って話してみたい、あの頃の事を。加古川の疎開先は、今、ゴルフ場になっているんだって。
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年賀状

2006年12月26日 | 今日この頃
            原種のガーベラ
       寒さにもめげず健気に咲いています
      春を待ちかねたあわてんぼうさん姉妹

今年の冬至は12月22日。先日柚子を沢山頂いたので、柚子湯に浸かるのを楽しみにしていました。だのにその日の昼から風邪気味で寝てしまったのて、すっかり忘れておりました。冬至の日に柚子湯に入ると風邪引かないって言われていますが。私は入る前に風邪引いてるんですから世話ないわ・・・。

それから冬至に南京を食べると中風にならないとも言われていましたよね。毎年、お姑さんに南京を食べてもらっていました。だのに中風で寝込まれてしまいました。だから私は食べない事にしました。

スーパーでも冬至に南京を勧めてはいましたが、中風との関係については一言も触れていませんでした。「冬至に南京を食べて、柚子湯に入ると健康に暮らせる」とありました。普段食べているものも昔とは違いますし、結果細胞も違ってきているし、中風には効かなくなったのでしょうか。

頂いた柚子は新年までお預けです。七草粥の日にでもゆったり入りましょうか。
絞って飲むことも考えましたが、酸味が苦手ですしね・・・。

そういえば昔はうどんの上に一欠け載っていましたね。母が包丁の手前の方で切ってうどんの上に載せて呉れるととても良い香りがしたような気がします。

           ☆  ☆  ☆

やっと義妹のセーターが編みあがりました。クリスマスには届けたいと頑張っていたんですけれど、風邪で寝込んだ為に遅れてしまいました。

連動して年賀状も遅れました。今日書き上げましたので明日郵便局に出しに行きます。喪中の葉書は19枚で止まりました。主人と私の出す葉書の数が一昨年くらいから逆転しています。亡くなった方ばかりではありません、会社のお仲間でお付き合いの薄い方はもう止めようと出さなくなったからです。現役当時は500枚ぐらいでした。それが450,400,350,300枚と今年は250枚です。親戚40枚、主人80枚、残りが私です。でも主人位になると毎年ぐ~んと減っていきます。私も何れはそうなるのでしょうが、そうなると寂しいでしょうね。

年賀状の事を一時、虚礼廃止とかマスコミが盛んに言っていましたね。会社関係はそうかも知れませんが、私としては虚礼の為に出した事はありません。一年間のご無沙汰ですがお元気でしたかと言うお伺いと私の一年間の報告です。

5,6年前までは半分ぐらいまで絞って、暑中見舞いも出していましたがだんだんと不精になりました。復活させようと思ってはいるのですが、今年もパスしてしまいました。私達の年代の方はまだまだパソコンをさわりませんので、メールでと言うわけにはいかないのです。

手書きの方が心がこもっていると言われますが、パソコンもデザインを決めるのに案外時間が掛かります。印刷は今の印刷機はとても性能がよくなって早く刷り上りますが、ワープロの頃は大変時間も掛かりました。

字の上手な方や絵の上手な方は是非手書きでお願いしたいのですが、ミミズの這ったような字の方は郵便配達の方の為にもはっきりした字の綺麗な印刷ものが良いのではないでしょうか。間違いなく配達されます。

お正月で何が嬉しいといって、年賀状を見る時です。近状が一寸添えられていると尚嬉しいです。去年、クラス会で、孫が就職して結婚しそうなのでと言って居られた、たねこさんっちは如何なんでしょう、ひ孫一番乗りのお知らせを待っています。そんな年になりましたかね~、私達も。


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一日遅れのお話

2006年12月25日 | 新聞から
             さんちかの花
            今日まで女王様
            明日からは壁の花

ディープインパクト優勝しましたね
私は最初で最後の走りを見ました。
気持ち良い勝ち方ですね。
初めから前にいるのではなくて、
後方から駆け抜けて勝利を奪うんですものね。
皆さんが陶酔、熱狂される気持ちが解りました。

ディープインパクト自体最後のレースだって解っているのでしょうか?
武豊さんが言い聞かせていると思うのですが・・・
あの惜しみない歓声が自分に向けられたものと知っているのでしょうか?

外国映画で見る馬主のような山高帽の方、
にこりともなさらなかったあの方。
あの方が馬主さんでしょうか?

騎手と馬はどうして組み合わせるのでしょうね?
馬主さんが騎手を決めるのでしょうか?
武豊さんは2年間一緒だって言っていましたね。
今度はどの馬に乗られるのでしょうね。

ディープインパクトは今度は種牡馬(しゅぼば)になるんですね。
上手くいけば2010年の夏にはジュニアが走るんですってね。

夕刊では静かな諦観の顔でしたね。
今頃は生まれ故郷の北海道ですね。
池江さんは付いていかれたのでしょうか?
もう調教の必要がないから、
おそらく行っておられないでしょうね。

変だな~と思っていませんか?
寂しがっていないでしょうか?

でも生まれて4年間で一生を駆け抜けるなんて
競走馬は辛いですね。

            ☆  ☆  ☆

今年はなんて嬉しいのでしょう。私宛に贈り物が又二つ・・・一つはまさこさんから20日にルミナリエに行かれたそうで、ルミナリエの美しいJスルー・カードが二枚。本年度の入場者数は465万名、昨年は435.8万名、一昨年は538.3万名ですって。募金は集まったのでしょうか?

まさこさんは一回り下の同じ「猪」です。白井市長の集まりでよくお会いしたり、きみ子さんの演奏会でお会いしたりで、お話しする機会が多くなりました。余りパソコンを弄われないので、孝行息子さんに頼んで白井市長の部分だけでも読んでとお願いしましたら、ご主人が全~部印刷してくださったそうです。吃驚しました。相当の数あったと思います。

もう一つは、いさを(女性です)さんから大~好きなチョコレートと産地(千葉県の方)の殻付き落花生にお茶まで添えて送ってくださいました。ありがたい事です。彼女とは四国88ヵ所歩き遍路の時出逢いました。お互い夫婦遍路です。歩く時は別々です、宿でお喋りをしました。3泊ほどご一緒だったと思います。この時も私の方から声をお掛けしました。そして一足早く回り終えた私達は、いさをさんご夫妻に合わせて結願の報告に高野山にご一緒いたしました。

私は見かけが、大人しく消極的に見られ勝ちですが、実際は違います。お友達になりたいと思えば積極的に自分から行動します。それが、いさをさんたちのように二度と会えないかも知れない方に対してもです。良い想い出の接点がありさえすれば、私には良いお友達なのです。遍路でご一緒した方達は、お住まいも千葉、神奈川、長野、愛知、愛媛、と違います。もう二度とお会いする事は無いと思います。でも私にとっては大切なお友達なのです。確か「年賀の友になってくださいますか?」と言ってお所をお聞きしたと思います。

年末にこんなに良い事が続いているのです。来年はきっと良い年になる予感がします。美味しいもの色々食べて楽しみの多い年でありますように!!
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心の宝物

2006年12月24日 | 思い出話
         ドイツのチョコレートの上蓋
         繊細な幾何学模様が記された
        甘みを抑えた今の大人の味です

としこさんがご主人とドイツのクリスマスマーケットツアーに行かれたそうです。
丁度日本の年の瀬市の様なもののようです。そのお土産にとクリスマスバージョンのチョコレートと綺麗なハンカチを送ってくださいました。今までにも何度かヨーロッパの珍しいチョコレートを頂いた事があります。日本では手に入らない品物ですからその都度大喜びしました。

この度はタイミング良く、私はクリスマスプレゼントを頂いた気になっております。実際はとし子さんが私の退会時にイタメシをご馳走してくださった、そのお礼に年末に私からの小さな贈り物を送った、これに対するお礼だと思うのですが、律義なことです。お陰さまで私は「海老で鯛」を釣りっぱなしです。風邪で余り食欲もなかったので、このチョコレートを食事代わりに粗方1人で頂きました。

チョコレートを頂きながらとし子さんのことを思い出していました。

とし子さんは美人です。私と同世代の今でも美人なんですから、若い頃は華やかなというよりは日本的なつつましい美人だったに違いないと思っています。残念ながら私達は還暦の前後に出会っています。

とし子さんが会長の時です。会の初めに会長のお話タイムがあります。何時も良いお話をされるのですが、何しろ早口です。私なら2つのお話で精一杯なのに3つも4つも次から次へ喋られます。私は惜しいな~と思いました。良い事を幾ら話されても、頭に定着する「間」がないんです。お話には「間」はとても大切です。

余り親しくもない、大先輩のとしこさんに対してメールを差し上げました。「もう少しゆっくり喋るようになさいませんか?良いお話もあまりに早口で喋られますと考える間がなくて、頭に残りません。何時も良い話をなさるのに惜しいな~と思っております」組織の中では大先輩です。でも人生では私が先輩です。惜しいな~と思えば伝えずに居られない私です。10ヶ月間、会長在職中あ~やこ~やと感想を述べました。私が思い切ってメールを出さなければ、今のようなお友達になっていなかったような気がします。どちらかが行動を起して、心を開き、初めて友情は芽生えると思うからです。

クラブの集まりをカウンスルといいますがその会長であった方がクラブ訪問なさいました。その方の言葉に感動した私は早速、これまたメールを差し上げました。自分の感じた喜びは伝えなければ居れないんです。それこそ大大先輩である方にと躊躇いもありましたが、人に与えた感動はご本人も知ってくださった方が良いと思ったからです。縦社会に例えれば、雲上人、でも直ぐ喜びのお返事をくださいました。このたび退会のお知らせを出しました所「ご卒業おめでとうございます」とお返事いただきました。体調の為とは言え一抹の挫折感を持っていた私にとって、こんな嬉しい言葉はありませんでした。私はこの方から二度の感動を頂きました。

他にも書ききれないくらい沢山良い方に巡り合いました。残念ながらお会いする事はもう無いと思いますが、皆さんから頂いた感動は私の心の宝です。大切に時には取り出して懐かしんだり、お手本にしたりいたしましょう。

とし子さんにお話を戻して、或る時クラブのお仲間が「○○(とし子)さんは何時の間にか発表の時は早口が直られて、良いお話をされるようになって感心しています」と話された事があります。皆思いは同じだったんです。言われる内容は元々良い事を言っておられます、それがゆっくり喋る事によって人の心を打つようになったという事でしょう。としこさん、「ゆっくり」と言う言葉を時々思い出して、人様に感動を与える話し手になってください。



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風邪に負けて

2006年12月22日 | 今日この頃
             京都府立植物園
        イチゴが上を向いて付いているよう
            群生の美しさです

徐々にと言うのではなく、朝起きて急に「風邪」と感じて
お医者様に行って咳は出ない等症状を言って
何故か心電図と尿の検査も受けて、「薬」を貰って
朝夕の食後の薬なんだけど、昼食後
「今、朝ごはんだと思ってね」と体に言い聞かせて
薬を飲んで、寝ました。
体の中で「風邪」が出口を探して大暴れしているのを感じました。
夜の支度をして、又薬を飲んで、ぐっすり休みました。
今日一日すれば直るでしょう、
こうして打つ気になっていますから。
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石井筆子と言う人

2006年12月21日 | テレビから
            京都府立植物園
    花の形が大好きなストレプトカーパスに似ている

「その時歴史が動いた」で石井筆子の名を知りました。知的障害者福祉の創始者の1人。宮城まり子さんよりず~っと昔に、此方は自身の娘二人が障害者であるという。

父は幕末から明治維新に賭けての志士である。明治政府では福岡県令(知事)、要職を歴任し男爵に叙せられる。長女として生まれた。

筆子は東京女学校を卒業後、皇后の命によりヨーロッパに留学。帰国後、津田梅子とともに華族女学校の教師となる。筆子はフランス語の授業を受け持った。そのときの教え子に貞明皇后が居た。鹿鳴館の舞踏会にもたびたび参加し「鹿鳴館の華」と呼ばれていた。

静修女学校の校長に就任し、近代女子教育者としても活躍した。静修女学校は津田梅子が主宰していた女子英学塾に引き継がれ現在の津田塾大学となる。

同郷の高級官史と結婚するが生まれた女の子、長女と三女が知的障害者。次女は虚弱で早世。夫も35歳の若さで死亡、知的障害者では家の後は継げないと離縁される。

知的障害のある長女を抱えて生きる。知的障害者の為の滝乃川学園(現在する)の創立者石井亮一と周囲の反対を押し切って結婚、後は二人で園を守る。男子寮の男の子の火遊びから火事になる。筆子の知人達の寄付によって園は再建される。

成人した子供達のために農業を教えようと現在の土地を借金で購入、間もなく筆子は脳溢血で体が不自由になる。そんな時期に夫石井が他界する。

園を止めようと思うが、「志を曲げるわけにいかない」と不自由な体で継続を決める。夫の「誰かを支えている時は自分の事ばかり考えて、実は相手からどれだけ恵をもらっているかは気付かないのです」と言う言葉に励まされた。

   いばら路を 知りてささげし 身にしあれば 
           いかで撓(たわ)まん 撓むべきかは

知的障害者の職業訓練充実、小学校への養護学級導入を社会に訴え続けた人である。82歳で心を残しつつなくなった。

戦時中は知的障害者のように世の役に立たないと思われた者への差別は酷いものだったらしい。教育からは除外された(学ぶ必要がないと)酷い時は隔離さえされた。

今年はこの石井筆子にスポットを当てた女性監督が二人居た。

「無名(むみょう)の人」ドキュメンタリー映画 87分
監督:宮崎信恵 朗読:吉永小百合 ナレーション:神山繁

「筆子その愛ー天使のピアノー 映画
監督:山田火砂子(ひさこ) 筆子:常盤貴子 石井亮一:市川笑也(歌舞伎)

「筆子その愛」は来年2月(大阪 テアトル梅田)に掛かるらしい。全国を回るらしいが一斉に上映という事ではないらしい。又見たい映画が出来てしまった。

「無名の人」の方は何かの会が申し込めば上映と言う事らしい。大阪ではドーンセンターで10月初めに一度、上映されたらしい。

筆子の様に幸せな生活から、是でもかこれでもかと言うよう不幸が襲う生活になるが、しっかりと人の為に生きる人もいる。お嬢様育ちでもこんなに真の強いしっかりした人もいるのだ。筆子の人生から比べれば我が人生はなんと生ぬるいものよ。
「あ~だったら」「こ~だったら」なんて不平が言えなくなる。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」にならないように心しよう。
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再び「フラダンス」

2006年12月20日 | 今日この頃
            京都府立植物園
       風鈴をぶら下げたような形から名が付く
    沖縄ではハイビスカスと呼ばず、ぶっそうげと呼ぶ

二階のテレビがとうとう壊れました。17年間働いてくれました。居間のテレビはまだ頑張っています。1ヶ月早かったのですが・・・。見る回数が違うんですね。当時は23インチは大きい方でした。「大きいな~」と思ったものです。

今度のテレビは液晶です。32インチです。奥行きはありません。「このテレビ重たい?」「前のに比べれば軽いですよ」「前の重いのでも、震災の時転がったのよ・・・」と言ったら置き台に釘で固定してくれた。

「お客さんの前の(デジタルでない)テレビは大部分買い換えてもらいました・・・」と電気屋さん。我家にもう一台ありますよ。私と同じで年数はたっているけど頑張っているのが・・・。

「テレビが映らなくなったのよ・・・」と私「それは良い話ですね~」と電気屋さん。「所変われば品変わる」ではなくて、「立場変われば反応変わる」です。この言葉に思わず笑い出してしまいました。

先日ビデオデッキを買い換えて、やっと使えるようになったと思えば又一難です。うかうかして居れません。好むと好まざるに関わらず、どんどん複雑に便利になっていきます。

               ☆  ☆  ☆

3回抜けて久し振りに「フラダンス」へ。アッと驚く為五郎!一寸古すぎ?メンバーがチェンジしている。若返っている。口コミでしょう9割方若奥様。私のお仲間は粗方姿を消している。「付いていけない」という事だ。好奇心から始めた時は老若半々だった。

心細く、どんどん集まる若奥様に「場所塞ぎ」と思われないかと、顔はニコニコ心でいじけながらレッスンの始まりを待つ。

先生の言葉も違ってきた。今までは腰を振るな、手首のスナップを利かせだったが、今日からはだんだん難しい注文が出てきた。体重移動の最後は進行方向に、横に腰を突き出す。是でやっとフラダンスらしくなってきた。日常生活の中で腰を左右に振ることは余りないので、案外難しい。「くの字のように腰を突き出す、上半身は動かさない、頭がピコピコ上下しない、リズムは足で」といわれ、しているつもりでも、鏡の中の私はどう見ても突き出ていない。

どうにかなれて「く」らしくなったと思えば「手をつけましょう」手に気を取られて足は棒立ち。

最後の20分(50分授業)は練習曲「月の夜に」を踊る。今までは「日本語版」だったので、その言葉道理踊ればよかった。今日からは「英語版」である。先生が日本語で歌ってくださるが・・・。日本語版より歌詞の関係か英語版のほうがテンポが緩く踊りやすい。休まずに来ている人はダンスの流れをおぼえているが、私の様に休みがちだとまだ覚えていない。先生を見ながら付いて行く。


「曲は同じだが早いのを掛けます」アップテンポ、倍ぐらいの速さである。踊りの順番さえ覚えていれば早い方が踊りやすいはず、何でもゆっくりするほど難しい、間の取り方が難しいのです。

鏡の中の私、先生に必死に付いていけてる、時々微妙に外れるが、まあまあの出来だ。音楽に合わせて踊るのは得意だった私がまだ少し残っている。「体のどこかが何時も動いている様に、止めてはいけない」皆もアップ・テンポに必死についていく。踊り終えた時皆ほっとした顔になる、そしてお隣同士「楽しかったね~」とニコニコ顔でレッスンは終わる。

夜、腰が少し痛い。「く」の字に振り過ぎたかな?楽しかったけど「年寄りの冷や水かな~」
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囲碁

2006年12月19日 | 新聞から
            京都府立植物園
          一度は育ててみたい花
          普通は一鉢一輪なのに
         双子のように寄り添っていた
          花は見るが蕾は珍しい

「囲碁」是は主人の趣味の一つである。私はパソコンを使い始めた頃から、ゲームの中に「囲碁」が含まれていて、無料でできることは知っていた。でもそれを主人に知らせると、夢中になってパソコンを乗っ取られる恐れがある。だから教えないで、「囲碁」のソフトを買って、それでポツリポツリ、私の邪魔にならない程度にしていた。

ところがです、孫が「パソコンで無料であそべるで~」と教えたからたまらない、孫から手ほどきを受けて、覚えて朝に昼に夜にやり始めた。お陰で私の時間がぐ~んと減った。「軒を貸して母屋を取られる」である。

初めこそ遠慮がちであったが、今は隙を見て使おうとする私に文句を言う程増長してきた。時々私もヒステリックに叫ぶ「このパソコンは私のやで~。一寸遠慮し~」。二台持つ事も考えた。でもそうすれば、時間がある二人はパソコンにへばり付くことになる。それは健康の為にも良くない。私は午前中にジムに行く、主人は午後にジムにいく、その時間と夜は10時までが主人、10時からが私と言う型ができている。

しかしその10時が中々守られない事が多い。何故ならこの頃はパソコンの「麻雀」も始めたからだ。囲碁なら一局の時間が比較的短い、しかし麻雀は長いからである。時間厳守さえしてくれれば、生麻雀と違って、お金を賭ける事がないので良いのだが・・・。

囲碁は今世界中で楽しむ人が増えているそうだ。今回関西棋院からその普及の貢献で、普及功労賞をもらった人が居る。その人の名は「明田克行さん」といって、なんと我が尼崎市役所を定年退職された方である。退職後指導に回った国はモンゴル、南アフリカ、ブラジル、イスラエル、ロシア、タイなど10カ国を超えるそうだ。

明田さんは「囲碁に言葉は要らないんです。碁石を動かす手談(しゅだん:手で語る意。囲碁の異名)で出来ます」「韓国や中国などの強い国ではなく、弱い国に行って囲碁を広めたい」と思っているそうです。

11月中旬に東京で行われた第17回国際アマチュア・ペア碁選手権大会に出場した帰りに明田さんのお弟子さんたちが大阪の関西棋院囲碁サロンを訪れたそうだ。
明田さんも自分の成果を喜ばれた事でしょう。

囲碁だけではないが、自分が上手だから、人に教えられると思うのは間違いで、自身は上手でも、人に教える事の下手な人もいる。この違いは何処から来るのだろうか。その人が上手になるまでの過程にあると思う。天才的な才能で何の苦労もなく覚えた人は人の指導が下手だ。できる様になるまでに色々の壁にぶち当った人、自分でコツコツ学んだ人こそ教え上手だ。本当に好きな事と言うのは地道な努力を厭わないと言う事だ。

手仕事は「盗め」とか「習うより慣れろ」とか言うが、名人は寡黙な人が多いし、言葉で説明を受けなくとも、その仕草が示していると言う事だろう。

私がもう少しパソコンが上手になれば、良いアドバイザーになれると思う。編み物の時もそうだが、自分でコツコツと覚えたので、その人の「何故?」が直ぐ理解でき、適切なアドバイスが出来るからだ。それは私が壁にぶち当りながら前進してきた経験を持っているから(スムーズに理解できた人は「人の何故?」が理解できない)習う方の問いかけを理解し、手を差し伸べられるからだ。経験ほど尊い教えはないと思っている。
                      (250回)
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硫黄島からの手紙

2006年12月18日 | 映画の話
             月下美人
      現在の硫黄島では初夏の星降る夜に
        群生で咲いているそうです
       叶わぬ夢ながら見てみたい!

上映されてから10日目の今日やっと行って来ました。何時も空いているので一番の上映に行くのです。今日は違っていました。7分方座席は埋まっていました。勿論この時間に来られるのですからシニアの方が多いです。

2時間21分と言う時間を感じさせない映画でした。「父親達の星条旗」(ブログ11月20日)と対になった映画です。「散るぞ哀しき」(ブログ7月19日)の栗林中将の話と1人合点していたが・・・。

勿論栗林中将の手紙も出るには出てきたが、それが主では無く、映画のストーリーとしては今の硫黄島の壕内の発掘場面から、大戦時代の壕を造る為の発掘場面への展開、そして最後には又現在の発掘場面で、掘り出されたものが「家族に宛てた届けられなかった手紙」であり、この映画の題名となったらしい。

あの手紙が掘り出されたのはフィクションなのか、事実なのか考えてしまったのですが、その時私の頭を過ぎったのは「硫黄島から戦場の郵便配達」(ブログ12月10日)のコメント欄に「とおりすがり」さんから頂いた。『手紙は60年以上前のものとは思えないものでした』と言うのはこの手紙の事だろうか?袋からはらはらと舞い落ちる葉書は現実のものならば、大切に扱われるだろうから、やっぱりフィクションなのかな~。

画面はモノトーンと言うかセピアと言うか、白黒映画と言うほど濃淡がはっきりしているわけではなく、柔らかい一色の濃淡だった。爆弾や機関銃等の弾の炸裂の色だけが赤だった。赤色の存在を示しているとはいえ、決して目を剥くような赤ではなくやはり柔らかさを感じた。

戦闘場面が90%の映画でありながら、目を背ける事無く、過去の事実として、受け入れつつ見れたのは、この暖かいというか柔らかい色調にあると私は思う。

日本の陸軍と海軍は犬猿の仲であるとは周知の通りで、硫黄島でも栗林中将の赴任まではお互いに連絡する事無く、独自で動いていた。栗林少将は着任後直ぐに海軍と連絡を取る事を要請した。「硫黄島から・・・」の時にも一寸触れたが、市丸海軍少将が赴任後は上手くいったようである。

栗林中将と意見を異にする伊藤中尉は自決ではなく体に爆弾を巻きつけて敵の戦車に突っ込んで、我身もろとも戦車もやっつけようとするが、そのチャンスは訪れなかった。又、兵隊西郷は栗林中将の遺体を人知れず埋葬し後、敵兵に見つかるがそのうちの1人が、栗林中将の自らの命を絶ったピストルを腰に付けているのを見つけ大暴れする。映画にその二人のその後は無いのだが、捕虜となって帰国した人の中に含まれているのではないかと思った。

兵隊西郷は兎も角、伊藤中尉の方は死を決したのに死ねなかった、部下は戦死させた。心の重さゆえ、故郷の土を踏めたとしても、硫黄島のことは一切口にしなかったのではないかと思う。

99%日本語なので字幕翻訳の戸田奈津子さんは、何時もと反対で、日本語を英語に訳されたのだな~と、アメリカの興行は感度良好とか、戸田さんの言葉もその一端を担っているのだろうな~と思った。

覚書を見ると、去年の今日「男たちの大和」を見に行っている。あの映画は見終わった後は「あ~疲れた!」と言う感じだった。この映画にそれは無かった。「考えたい」と言う気持ちが残った。皆さんもそうだったと思う、出口に向かう人々は誰も無言で斜め前方の足元を見つめながら去っていった。
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