ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

明日 尼崎市は中核都市に…

2009年03月31日 | 新聞から



   尼崎にも春が! この高瀬公園の桜は7~8分咲き 私の一番好きな頃合…




     花海棠(はなかいどう)  桜によく似ているが 花茎が長いし
          大概が盆栽仕立 これもお隣の鉢植えです



早くに植えられたチューリップでしょうか、真っ赤な花を咲かせていました。やっぱり歌のように赤白黄色が多いのでしょうね。私のチューリップは12月と遅くに植え込んだものですから、今やっと葉の間から蕾の頭が見えてきたところです。

2種類植えたのですが、咲く時期をずらそうと2週間間を開けたのですが、今同じような状態です。間隔はせめて1ヶ月位あけないと順番には咲かないのでしょうか? 猫に掘り上げられたハウステンポス(花の名)も大丈夫なようで一安心です。


明日、いよいよ尼崎市は中核市に移行いたします。28日の新聞に、その前日27日に尼崎の白井市長が県庁に井戸知事を訪れて「引継ぎ書」を交換したと写真つきで出ておりました。

いよいよ大都市の仲間入りをするわけです。白井市長はじめ、色々と「中核市移行の為にお働きくださった皆様ご苦労様でございました。有難う御座いました。

中核市の権利義務とは新聞によりますと
『県から民政や環境行政、都市計画などの事務を尼崎市に移譲すること。中核市になると、養護老人ホーム設立認可、監督、大気汚染防止法に基ずく工場への立ち入り検査などの業務を直接行えるほか、これまで県が認定していた身体障害者手帳の交付事務を市が一括で行えるようになる為、大幅に期間が短縮される。又、条例で屋外広告物の規制が可能になる。』そうです。

大きな権利には大きな義務が生じるわけで、これから益々業務は忙しくなるわけですが、市民の為に頑張っていただきたいと思います。

兵庫県で中核市は既に姫路市と西宮市があり、尼崎は3番目に中核市となりました。全国では明日、中核市になるのは群馬県前橋市と滋賀県大津市だそうです。
言うなれば、同期生ですね。

知事と尼崎市長が交わした移譲事務に関する引継ぎ書は589項目もあるそうです。その引継ぎ書に、兵庫県知事と尼崎市長がサインをして全ての手続きは完了しました。

これで白井市長は一つ大きなお仕事をなさったわけです。過去には、役得といってはなんですが、兵庫国体の時、尼崎にある水泳競技場に天皇皇后両陛下をお迎えしたとき、先導役をなさいました。両陛下と身近で、お言葉を交わされる機会があったという事は市長と言えども誰もが経験できることではありませんね。

やっぱり白井市長は人の羨む幸せを手に出来る「幸運の人」なんですね。尼崎に住んで50年、私達にとっても記念の年です。益々発展する尼崎にバンザイ!!


        ☆4月1日~6日までお休みいたします
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あの男子生徒は今…

2009年03月30日 | 気にかかる


     
                スノーフレーク(鈴蘭水仙)
           このミドリの斑点がなんともいえなく可愛い  


           一番遅咲きの水仙  甘いいい香がします  
       今年はたくさん咲きましたので お彼岸にお墓に供えました



一番に我庭にやってきたのは、黄色い蝶々でした。そろそろ庭の手入れをしないと、芝の上に雑草と言う名の草が青々と寝そべっております。踏まれてもふまれても負けない雑草君をみならわなければね~。

立命館大学の教授が「教員は幼稚園に学べ」と言う文章の中で、園児の前途洋々たる可能性に触れておられたが、私にはその題との関連性は一寸理解できなかったのです。

次に『教員にもお粗末なのが居る。例えば大阪の門真市立第三中学の教員ども。昨年は同校の卒業式において、国旗に対して起立表敬をせず、国歌も唱和しなかった。理由は自分の良心に反するからだと。彼らの先導があったのだろう。生徒起立しなかった。1人を除いて。彼らの愚劣な行為の中で、たった一人起立した生徒はお見事。そして今年、なんと教員も生徒も全員が起立したという。』と書いておられます。

私もこの新聞記事は読みました。今年は全員起立したと新聞は報じていましたが、去年起立・唱和しなかった先生方は、どんな気持ちで起立し、唱和されたのだろうかと気になっていました。まさか去年の先生方を総入れ替えしたわけでは無いでしょうから…。先生の教えに従って起立しなかった生徒達は、この記事をどんな思いで読んだのでしょうか?

そしてたった1人起立した男子生徒は、今如何しているのだろうか? この男子のように自分で考え行動に移せる子は良いのですが、大方は深く考えることはしないで、「先生がそう言われるなら、それが正しい」とそれこそ先生方の言われる「良心に反するから」何て事も無く、流れに従っただけの様な気がします。

たった一人起立した男子生徒に訊ねてみたい「貴方は何故たった一人でも起立することを選んだのですか?」と…。この男子生徒は活字の好きな人では無いだろうか?そして読んだことを鵜呑みにしないで考える人でしょうか。

今はニュースはテレビがあるからと新聞を取らない家庭も増えていると聞きますが、やっぱり新聞を読むという行為は、自分で考えると言う次のステップに繋がっていると思いますから、テレビで知るだけではなく、読む事もした方が良いと思います。

今よく「話し合い」と言う事が言われますが、話し合う為にはよく考えて自分の意見をしっかりまとめておかないと、話すことも、聞いている間におきた相手の意見に対する疑問も質すことも出来ないのではないでしょうか。

国歌・国旗を「君が代」「日の丸」と法で定めたそうですが、中学生ともなれば納得して随えるようにクラス単位ででも話し合ったらと思うのですが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遍路 4

2009年03月29日 | 思い出話
平成13年11月18日   柳水庵   (3泊目)

途中で追い越した男性は植木貴久さん(彼は息子世代の方です。今も年賀の友としてメールを頂いている。今は東京勤務で親子離れ離れの生活だそうです)といい名古屋の人。

柳水庵は一日3人しか泊めないはずが、私の電話を受けたご主人が私を1人遍路と間違われて(申し込みが菅野さんの後だったからでしょうか)植木さんを受け入れられたらしい。だから当夜は、菅野さんと私、植木さんと主人と言うように泊まることになりました。

柳水庵に着くと、菅野さんはとっくに着いておられ、洗濯もされ、ぬくぬくと半纏を羽織って出迎えてくださいました。植木さんは私達より遅れて到着、よっぽど喉の乾きが堪えたのでしょう。

まずはお風呂を頂くことになった。五右衛門風呂との久し振りの対面である。ただ中央の板は固定されていたので、以前の経験のように板の中心に身体を置いてバランスをとらないと廻りの鉄に触れて熱さに飛び上がるという事は無かった。

入浴中雨音がしてきた。母屋とこの風呂場までは離れている。折角気持ちよくなったのに又ぬれるのか、でも真っ暗な道を走ることも出来ないし、観念して戸をあけて吃驚、そこには傘を差して私を待っていてくださった宿のご主人の姿があった。何とありがたいことか。これも遍路者への心よりのお接待と思いありがたく頂いた。

女主人は話好きな方で、私達4人と話しに花が咲く。お手伝いの方が、食器を提げても良いかと言ってこられた。それからも延々とお話しは続いた。お接待として、ホカロン、ティッシュ、アメなどを頂きました。私達には始めての「お接待」である。

菅野さんは留守宅よりお母様が怪我をされたと言う電話があり、帰られることになった。始は「弟もたいしたことは無いといっているし…」と帰るべきか続けるべきか迷っておられた。「如何思いますか?」と聞かれたので私は「このまま続けて楽しむことが出来ますか?」と答えた。お母さんは菅野さんが遍路に出ることは反対しておられると言う。娘がいざと言う時傍に居ないと心細いからだそうだ。だからこの度も内緒で来ているという。

翌朝早くのタクシーを予約されて、一番に宿を後にされた。予定では「鯖太子」まで行かれる予定だったそうだ。此処、柳水庵は歩き遍路のみを泊めておられるそうで、菅野さんは、「事情が事情なので帰りますが、今度来る時は此処まで車で来ますが、泊めていただけますね」と念を押し、了解を得ておられた。

二番手は私達。植木さんは次の宿が植木旅館(柳水庵の次の宿が植木旅館の時は、サービスで荷物を運んでくれる契約だそうな)なので荷物を引き取りに来てもらえるというので、ゆっくり出発されるようでした。

          11月19日(月)     12番札所 焼山寺


     焼山寺 本堂前 (後から追いついた植木さんが写してくださった)


今日の山道は気持ちが良かった。暫く行くと駆ける様に下ってくる若いお坊さんが来られた。「昨夜はどちらに?」と聞くと「修行ですから野宿です」と答えると、又飛ぶように降りていかれた。

「ヤッホー、ヤッホー」と言う声が木魂して聞こえてきた。「アレはきっと植木さんだろう。荷物を背負っている私達でさえ、気持ちの良い山道だから、荷物を持たない彼はもっと気持ちが良いだろう」と話した。

道中に大きなお大師さんの像が建っていた。今朝、宿のご主人が「この方向にお大師さんがおられます」と指差し教えてくださったが、その意味が理解できていなかった。写真も撮ったのですが、暗い山中です、シルエットのように写っているだけです。

山門に着いた。やれやれ着いたと思ったのは間違いだった。うっそうとした杉並木が続いている。「遍路ころがし」と言われる焼山寺への道をクリアした。昨日の前半より今日の後半の方が歩き易かったと思う。第1回目の難関の心配が杞憂に終わった。

お参りをして一服していると、植木さんが登ってこられた。やはり重い荷物が無い分ルンルンのようであった。暫くお話しをして私達は降りることにした。先着の走る修行僧の方が、階段に腰掛けてまだお休み中だった。この方も他の方と待ち合わせかな?

私達が到着した時には既にお参りしてる方は数十人おられた。この人たち何処から来られた?と不思議だった。柳水庵からの道は私達の前には走る修行僧、後は植木さんだと思っていたから。前に写真に写っている人たちを見ても解るように、背中に荷物が無い、車遍路の方だと思うが…。

その謎は暫く下ったところで解けた。其処には大型バスや10人乗りぐらいの車が何台も止まっていた。お話しを聞くと、大型バスは狭い車道は登れないので、此処で、大型から小型に乗り換えて登るのだそうです。

帰りのバスは「寄井中」までのバスは午前中は一本だけで、焼山寺からその停留場までは1時間は掛かるので気をつけてくださいと徳島バスのにしやまさんが親切に教えてくださっていた(私が西山さんのブログに時間の問い合わせをした)ので、心急いていた。山中の遍路道は、桜の木が多かった。桜の頃は気持ちが良いだろうな~と思いつつ下った。

山を下って町に入る区切りの橋で、「あ~ぁ、これで今日は山道とお別れだ、後は舗装された道だ」と言う安心感もあり、橋の上からの景色もすばらしかったので「いい景色やね~」と言いながら写真を撮って、休憩していると、「お接待です」と道端の家からヤクルトを1人2本づつ持って来てくださった。山越えで喉の乾いていた私達にとって、よく冷えたヤクルトは本当にありがたかった。



バスの時間の1時間前に着いてしまった。停留所にはバス遍路のご夫妻が待っておられた。1時間も待つ位なら歩こうという事になり、私達は歩くことにした。その方が次回「寄井中」までで済み、此処まで上ってこなくて済むからです。

1キロほど歩いて、庭の手入れをしておられた人に「「寄井中まで2キロぐらいですか?」とおたづねしていると、何処からともなく犬が現れた私達の前を歩き出した。距離が開くとじ~っとこちらを見て待っている。「そんなに付いてくると帰り道が解らなくなるよ」と話しかける。主人は余り犬が好きでないので、杖で追い払おうとするが、一向に動じない。

何時もの如く主人と私の距離が離れて、姿が見えなくなった。「犬も居ないな~先に行ってしまったのかな~」と思った。フッと気が付くと犬は私の横で私を見上げている。「あんた居てくれたん」と言うと又先導し始めた。とうとうこの犬は寄井中のバス停まで付いてきて「さっきまで居たのに、犬は?」と気が付いた時には犬の姿は無かった。後に今治の越智さんにその話しをすると「道案内をする犬が居ると聞いたことがあります。きっとその犬なんでしょう」という事でした。


第1回の遍路は終わりました。自信が無かったので短い計画でした。次回はもう少し長くしても大丈夫かなと言う気がしています。まだ自分が何をしていると言う自覚がありません。宗教心からではないことは確かです。ですから「般若心経」を唱えることはしていません。「南無大師遍照金剛」と3回唱えるのみです。その気になればすればいいと考えています。誰も見ないカラスヘビを見たこと、先導犬に遇った事、何よりも何十年も忘れていた短歌が出来、それにより苦しみが緩和されたこと、いずれにしてもこの旅が私にとって普通の旅で無いという確信を得ました。自分達に合ったやり方で大窪寺(88番札所)をめざそう!


          *  *  *  *  *  *  *

焼山寺への遍路道にて   平成13年11月19日

お大師さん何を念じて登られし それを思いて我は辿れり

この道を又登る日が来るだろか 一期一会の弘法の道

我歩む元気の証鈴は鳴る 音速やかに焼山寺

若き芽の幾千年育ゆく命終えるか 今の盛り木

弘法さん迎えた花はシャガか 緑か紅蓼の花

金剛杖何処に突くか抱えるか 考えのみで道を歩む

虫の声鳥の声もないしじま 蜘蛛の姿に朝の挨拶

空海の歩みし道を我辿る 森林浴を楽しみとして

楽あれば苦ありの遍路道 次は苦しい登り坂道


助けるは 我が身より無し 焼山寺

時間ごと 渇きを知らせる 喉時計

喘ぐ時 鈴も喘ぐよ 遍路道

焼山寺 我を迎える 紅紅葉

あの山の 向うか目指す 焼山寺

木隠れに 夫の存在 遍路笠

夫の背を 仰ぎて登る 遍路道

登れども 山又山の 焼山寺


☆ 今見ればおかしい句もありますが、あの苦しい中、突然浮かんだ句ですので、そのまま記しておきたいと思います。書き留めたのは「ひらがな」ばかりでしたが、それだけは「漢字」に替えました
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遍路 3

2009年03月28日 | 思い出話

    平成13年11月18日(日曜日)
9番 法輪寺  10番 切幡寺  11番 藤井寺



9番札所 法輪寺

「たみや」を出るとき小雨が振り出した。菅野さんは一足先に出られた。法輪寺は畑の中にぽつんとあるから直ぐ解りますと、教えられた通りに行ったつもりがどこで行き違ったのか1キロ行き過ぎて気づく。往復2K損した事になり、藤井寺への到着が遅れる一歩になる。法輪寺の門前の「草もち」楽しみにしていたのに、まだ店が開いていなかった。

雨が少し強くなったので、菅笠だけでは駄目だと感じ、軒下で雨具を身に付けた。
歩き始めの1時間のロスは、この日一日後悔することになった。



10番札所 切幡寺

法輪寺の左側を回りこんで切幡寺に向かった。参道に入る手前には坂を挟んで宿が並んでいた。その一軒の軒先にエンジェルトランペットが驚くほど鈴なりに花をつけていたのが印象的だった。(この頃は写真に興味が無く、残念ながら写真はない。それゆえだろうか、満開の花は私の瞼に張り付いている。)

寺は長い階段を登った上にある。納経所の人を呼べども、ベルを鳴らせど出てこない。如何したものかと待っていると、後から男性が来られて寺の裏に廻って呼んできてくださった。その人の納経帳を見て驚いた。朱印の赤で字も見えなく、納経帳が2倍ぐらいに膨れ上がっていた。車遍路だそうでしたが、何故こんなに廻られるのか私には理解できない。

私達が降りる頃、お年寄りの団体さんが上ってきた。急な階段なので大変そうだった。

途中で、11番藤井寺で食べるつもりで「おにぎり」を買った。自動車道に沿って歩くが、行けども行けども吉野川が見えてこない。土手に出れば潜水橋が見えるはずが、一向に見えず、私達は吉野川に架かる長い長い鉄橋を渡ってしまった。

やっとの思いで着いた藤井寺は予定の時刻をとっくに過ぎて1時だった。急いで「おにぎり」を食べて1時半出発。納経所でも「急いだほうがいい、5時には日が暮れるから」と言われた。

今夜の宿、柳水庵は此処11番藤井寺から12番焼山寺までの中間点にある。お寺の方は「柳水庵までは3時間です」と事も無げに言われる。普通の人が3時間なら私は4時間は見なければならない。その計算では5時過ぎる。初めての山道、日が落ちたら危ない、急がなければと気ばかり焦る。道を間違って、此処まで17キロは歩いている。その上に3キロの山道である。少し上っただけで、心臓が早鐘を打つ。

へたり込みそうになったその時である、私の目に飛び込んできたのは道に伸びている小さな真っ黒いヘビである。もう11月も半ば、とっくに冬眠しているはずだ。杖でトントン叩けばヘビは逃げると聞いていたのでやってみた。ヘビは物憂げにゆっくり動いて、右手の坂を下っていった。私はヘビが大嫌い、怖いのです。主人はとっくに前を行っています。人が見ていたら、私は真っ青な顔をしていたと思います。

柳水庵で先に着いていた菅野さんも、前を歩いていた主人も見ていないと言うのです。「ミミズの間違いでは?」今までの道中で、確かに私は生まれて始めてみる大ミミズは見ましたよ。でもミミズに目は無いですよね。私だってヘビとミミズは間違いませんよ。それにヘビは真っ黒でした。後で知ったのですが、あの地方には「烏ヘビ」と言う、カラスのように真っ黒なヘビが居るそうです。私はヘビは嫌なのに、良く出くわすのです。


金剛杖の頭の部分はお大師さんの頭の部分にあたるので、触ってはいけないそうです。しかし疲れている私は頭の部分に手を置いて体重をかけ、すがらなければ足が上がらない。始はためらいもあったが、背に腹は変えられぬ「弘法さん堪忍して、頭を貸してください」と謝りつつ助けを借りた。

「富士山に登ったのに、こんなくらい何なのよ」と自分を叱りながら、励ましながら、何でこんな苦しい思いをしなくてはならないのと呟きながら歩んだ。主人は先に行って姿はない。たとえ傍に居たとしても、我が身は自分で運ぶしかない。もう限界だと感じた時、私の頭に浮かんだのは短歌であり俳句(季語もないのに俳句とはいえないが、川柳とも違うような? 5.7.5の言葉の羅列)である。

何故こんなに苦しい時に句が浮かんだのか、未だに解らないのだが、頭に浮かんだ言葉を書き留めるために歩みを止める、その何秒かの休憩が私を先に進ませた原動力になったことは間違いなさそうです。私が短歌を作っていたのは30年近く前のこと、師事していた先生が亡くなられてからは一切作っていない。短歌は未だしも、季語も入っていないので俳句ともいえないかも知れない句も、そのときの記念として書き留めておこうと思う。

途中で大柄のその身体に負けないくらい大きな荷物を持っている男性と話している主人に追いついた。「お水ありませんか」と言われたとか。生憎なことに、後1時間で着くと思った時点で、最後の水を飲んでしまっていた。人の為だけではなく、水は全て飲み干すのではなく、少しでも残しておかねばと悟った。それ以後、水は飲みきらないと心している。

日暮れを恐れた為、必死で歩いた為4時間かかると思っていたのに、3時間10分で柳水庵に到着。成せば成る成さねば成らぬ何事もである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本格小説

2009年03月27日 | 読みました

        キンレンカ     もう一色ありますがまだ咲いていません

   キルタンサス   2色いただいたのですが この色だけが残ったようです

           ハナニラ    薄紫はまだ咲いていません  消えた?


唱歌の学校の帰り大失敗してしまったのです。教室から出て間もなくです。「あの~…」「?」「西宮神社に行きたいのですが…」「一筋来過ぎましたね。でもこちらからもいけますよ。其処の突き当りを右に行けば直ぐですよ」私は余裕を持って答えたのです。私は車の二人と対面してものを言っていました。念を押して「右ですよ」って。

でも考えてみれば私は車の進行方向から見れば反対向いているのです。だから私から見て右という事は彼らから見れば左なんです。「仕舞った!」と気が付いて、振り返ったのですが、相手は車です陰も形もありません。

申しわけないことをしてしまったと、駅に着くまで気になっていました。「今頃右と左の間違いに気づいて西宮神社に着いてればな~」ず~っと気になっていました。私が車の進行方向に向かっていれば、こんな失敗は無かったのです。

道がわからなくて心細かったから私に声を掛けたのに、私も悪気はなかったのです。年寄りは駄目だな~と思わないでほしいな~。後悔の一日でした。


            ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

          本格小説  上下    水村 美苗


この人の本を読むのははじめてだ。まず題名が「ええつ!」と言う感じだった。第54回読売文学 小説賞 を貰っておられるとは知らずに読んだ。

読み終えた今、評を読んでみて「嵐が丘の燃え上がる愛の世界が現代に蘇る」と言うのを読んで、「なるほど」と思った。「嵐ガ丘」のヒースクリッフと「本格小説」の東太郎の人生が似ている。でも「本格小説」は実話を基にした小説だという。「暗い純愛」と言う言葉が当てはまるように私は思う。

「嵐ガ丘」は心に残る本だから、あるはずと探した。その本の表紙の横文字は右から始まっている。発行年月日を見ると昭和7年(25銭)と書かれている。私の生まれる前に出版された本だ。覚えが全然無いのだが、読んだのは10代だったと思うので、お金が無かったから古本屋さんで買ったのだろう。今の私には虫眼鏡を使わなければ読めないほどの小さな字で、上下2冊だ。映画も見に行った覚えがある。

話がそれてしまったけれど、「本格小説」の方は実話だから作者が軽井沢に話しの舞台となった別荘を探しに行かれたら、残っていたと記されている。この小説が書かれたのが2002年だから、私が軽井沢に行ったのはもっとず~っと前だし、林の中の別荘地を歩きもしたので、私も目にした建物かも知れないと思ったりした。そのときも古い洋館が多かったように覚えている。

作者は文中で「本格小説」をこう説明している。
本格小説といえば、何はともあれ作り話を指すものなのに、私の書こうとしている小説はまさに「ほんとうにあった話」だからです。

信じられないほどの成功と、純愛です。長篇小説のお好きな方は色んな観点から一度読んでみる価値はありそうです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲子園球場と高校野球を見に

2009年03月26日 | 一寸そこまで

              甲子園球場の外壁はまだ丸裸

      3塁側内野入場券          蔦の写真パネルで覆われていた


甲子園球場に高校野球を見に行ってきた、と言うより、やっぱり新しくなった甲子園球場を見に行ってきたと言うべきかしら。「野球が始まったら昔と如何変わったのか見に行かなあかんな~」と話していました。「球場やったら、何もプロ野球でのうてもいいのんちゃう?高校野球のほうが入場料安いし、前もって買わんでも、行ったら入れるんちゃう?」という事で、今日行きました。



                外野席から見たスタンド

  外野ライトの最後(高い位置)の席       ネット裏と放送席

   外野からのカメラ位置           やや真下から見たスコアーボウド

まづ外野席から行って見ました。外野席は初めてでした。見慣れた人には当たり前の事なんですが、始めて見る私にすれば外野手の位置が案外前だな~と感じました。何時も正面から見ているので、外野手はバックの塀すれすれに居ると感じていました。これを見てイチローや金本兄貴がのファインプレーは凄いものだと改めて思いました。


寒かったので 温かいてんぷらうどん(主人)600円 焼きそば(私)500円
私が焼きそばを食べたのは この焼きそばソースが尼崎の地場産業のものだから 
    一度食べてみたかったのです 美味しかった!


値段ははっきり言って高いけど、案外美味しかったです。



        売り子さんが変わりました 8割がた女性なんです

ビールを背負って売りに来たのには驚きましたね。ただ残念なことに、買っているところを見ていないので、背中のビールをどの様に渡すのか知りません。女性が多くなったのは、やはり女性の方が売れるという事なんでしょうか。


        3塁側内野席 最上階から見たスタンド

                   スコアーボードの下が特別室 
 
 
        内野席の椅子には飲み物入れが新しくつきました

私達が入った内野席は「早実」の席でした。「早実」が追いつかれ、最後にサヨナラ勝ち、一寸目を逸らした間にアッと言う間に勝ってしまいました。


              勝った「早実」のプラスバンドと応援団

         応援団はこのバスで東京に帰って行きました 
  みんなニコニコ楽しそうでした  青春の良い思い出ね お疲れ様!


私が高校野球を見たのは50年ぶりぐらい2回目です。私も20歳前後でした。開会式を見たのですが、主人は今回が初めてのようでした。「天理」「早実」の1試合だけ見て帰ってきました。随分着込んで温かくしていったのですが、日が蔭るとやはり寒かったです。

若い人たちの力のお裾分けを頂いてきましたよ。気分的に「私も頑張る!」って感じかな~。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バス無料は嬉しいけど…

2009年03月25日 | 気にかかる





            3色のさくら草  (道路わきで 09-3-14)
          春を告げてくれていたさくら草も終わりに近づきました



昼頃までは、今日の天気予報ははずれじゃないの?と思うほど、陽射しも強く暖かく感じました。でも午後になると、やっぱり天気予報は当たっていたようです。冷たい風が吹いて、外に出るとぞ~っとする冷気が肌を刺します。

フラの日だったのです。「継続は力なり」とはよく言ったものだと思いました。レッスンの後半、「短くて3番までしかなくて、簡単な新しいのを始めても良いですか?」と先生。嫌も応もありません新しい曲のレッスンが始まりました。

先生はお手本を見せた後、夫々の動作の名称を言われます。すると大半が理解できてしまうのです。名称を聞いただけで、その動きが頭に浮かぶのです。私も必死で踊りながら鏡に映る皆さんを見ながら「こりゃ~凄い!」と思いました。勿論、来週になれば忘れてしまうこと請け合いですけど…。でも続けるという事は凄い力ですよ。


尼崎市も「老人パス券」と言うのがあって、尼崎に1年以上住んでいて、70歳以上(私の時はは65歳以上でしたが、スライド式で70歳まで上げていきました)の人がもらえるのです。但し自分から申請しないと待っていてももらえません。
私もよく使わせていただいて助かっています。ジムに行く時は健康の為行きは歩きますが、帰りは買い物をしますし、やはり疲れていますから使っています。

先日パス券を書き換えてきましたから、来年3月まで使わせていただけるようです。先日市報で、このバス券について考えると言う事が載っておりました。きっと「有料」になる話しだと思うのです。

今市バスは200円ですから、急に半額(子ども料金)出せといわれれば「う~ん」と考え込みますが、神戸市のように子ども料金の半額(三年後には大人の半額に成るそうですが)と言われれば、仕方がないかな~と言う気もします。

外出すると家に帰るのは当然ですから、1回50円でも、必ず100円は要るわけです。50円に下げれば乗る人は減ると思います。タダだからと一駅を歩かないで乗っている人は乗らなくなるでしょうね。そうすれば、今この歩かない人も歩くようになって足腰丈夫になるかもしれません。

私の乗る時間帯は、大体が無料パス組の様な気がします。私達が乗るのを控えたら、市バスはガラガラで走ることが増えると思います。この結果はバスの運営に如何響くのでしょうか?

交通局の方に、税収入から、無料パスの対象者の数だけの費用が渡され、バス運営の赤字補填が出来ていると聞いております。この税金からの費用を減らす為に有料にするという事でしょうか? 年に数回しか使わない人も居ます。それでもバス運営が可能なんでしょうか?其処の所が私にはよく解りません。

大阪市では「敬老パス一部有料化案」に「ノー」が出たようです。大阪は地下鉄も持っていますから、一部でも有料化が認められれば、市は助かるだろうな~と思います。

変更は急がず、双方で色々話し合って、知恵を出し合って、納得した上での有料ならやむをえないと思っています。宝塚市は無い?と聞いていますし、西宮は一定料金のカードを貰って、それを使ってしまえばお終いと言う事の様です。その代わり「するっと関西」のカードのようにバスだけではなく、どの交通機関にも適用されるそうです。

ネーミングなんですけど、わが市の様に「老人パス」と言うのも、なんだか気がめいりますし、大阪のように、敬う気持ちも無いくせに「敬老パス」も何だかな~と言う気もします。いっそ映画館を見習って「シニア・パス」と言うのは如何でしょう?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近松公園の川柳

2009年03月24日 | 一寸そこまで

        熊谷(くまがい)草  (咲くやこの花館 09-3-11)
         名前は知っていましたが 見るのは初めてです
        下方の膨らみはアンモナイトを思い出させました



           パボニア  (咲くやこの花館 09-3-11)
        蕾んだチュリップの様な中心から花茎が伸びるらしい



          銀剣(ギンケン)草  (咲くやこの花館 09-3-11)
              ハワイのマウイ島で自生している
         数十年掛けて成長し 花を咲かせたら枯れるそうだ 
          このギンレイ草は後何年で花を咲かせるのだろう



今週末は1度~2度まで下がるそうです。「花冷え」とか。この奇麗な言葉に騙されない無いようにしなければ、又風邪の神様が忍び寄りそうです。

サムライ日本勝ちましたね。三度目の時でしたか、韓国の監督が「(アメリカ戦に)いい選手を温存していたから、負けた」と言う様なことを言って居ましたね。今日は当然アメリカと戦うつもりだったんですね。この言葉を思い出すと、尚のこと「ざま~みやがれ!」って喜びが倍増します。

イチローのインタビューで「雑念があったのに打てた、今までは雑念が入ると打てなかったのに。なんだか変わった気がする」って。何か良い手ごたえを感じたのでしょうかね。イチローの活躍が益々楽しみになってきましたね。仰木監督のことを思い出しました。あの世で喜んでおられるかな~って…。


何時もの通り近松公園の川柳を見に行きました。木の幹に一句づつ括りつけて20句ぐらいあるのです。でもこの度は私好みの句が少なかったです。

     探しあて「此処にいたか」と独り言

私もよ~く探し物をします。そして同じように「あんた ここにいたん」と話しかけてしまいます。年を取ったという寂しさが言わせるのでしょうか。幸・不幸に関係なく先の見える心細さがペットブームを呼んでいるような気もします。私も飼いたいのですが、だんだん衰える自分を考えると飼えません。小動物の温かさほど、心を慰めるものは無いように思います。

     カレンダー書いて忘れる診察日

上の句と似た様なものですね。まだこれを忘れたことはありません。私は診察だけと言うことが無いからです。現物手元の薬がなくなればお医者様へ、と言うことですから。

     感涙に咽ぶ球児の春ドラマ

今真っ盛りですね。勝った球児の喜びの顔は良いですが、負けた球児の涙は辛い「両方勝たしてあげたい!」と何時も思う。それはそうと球児はハンサムボーイが増えました。昔はぶちゃいくでニキビ面でしたが、今は男前が多くて、テレビ向き。

     渡り鳥こんな国でも飛んで来る

そうかもね。今の日本のごちゃごちゃや、生活の厳しさなんて知らないものね。でも日本の自然も、少しは地球温暖化の影響を受けているかもしれないけど、でも山あり谷あり、川ありの自然の美しさは変わっていないのでは、渡り鳥が来なくなったら日本の自然もおしまいね。
                              (1010回)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の施餓鬼

2009年03月23日 | 一寸そこまで

    幹を見れば 桜じゃ~ないんですよ  (尼崎・近松公園 09-3-22)
      尼崎は坂が少ないので 大人も子どもも自転車が大活躍



     少年二人… 近年ではこうして外で遊ぶ姿も見なくなりました  
   この木も桜ではないのです 去年まで名札がついていたのにね~



                アセビ (近松公園 09-3-22)  
           去年は花盛りでしたが 今年は花が少なかった  
      咲いていたのは「サンシュユ」「水仙」そして上の大きな木2本



昨日はお寺で施餓鬼法要が行われました。朝から雨が降り続いていました。余り降るようだと、明日にしようかといっていましたが、家を出る予定の9時過ぎには曇りながら雨は上ったようですので行くことにしました。

お寺に入りますと、まず自分達の塔婆を探してもらって、本堂に祭っていただきます。そしてお坊さんが戒名と施主の名前を読みます。

何時もなら塔婆をおいてある場所に彼女がいて、私の顔を見るとさっと取り出して運んでくれます。でも彼女はもういないのですから、名乗って取り出してもらいました。

読み上げが終わりますと、焼香と言う順番です。日蓮さんの両脇には、代々の住職さんの為の大きな塔婆が立てかけてあります。私は其処にきっと彼女の塔婆があるに違いないと思っていました。ありました。大きな塔婆より少し小さめの塔婆が後ろから顔を覗かせています。戒名の最後の方に「尼」と言う字がついていましたから、きっと彼女の塔婆だと思い、主人にも言いました。

やっぱり何となく寂しかった。特別彼女に逢いに行っていたわけではないけれど、行けば当然其処にいた人が居ないのですから、何となく心に隙間風と言う感じでした。

読経は5人のお坊さんがなさるのですが、其処にも変化がありました。住職さんより年上の人で、以前には私の家にも月参りに来れれていたお坊さんの姿はなく、住職の息子さん(高1かな? 小学生の時から読経に加わっていました)と後雇われているお坊さん3人の5人に代わっていました。

それが済むと、本堂の裏のお部屋で「ばら寿司」を頂くのです。これは遠方からの方は助かるのではないでしょうか。持って帰ってもいいのです。熱いお茶が用意されていますから、私達はお腹に入れて帰ります。

この「ばら寿司」が今日から「巻き寿司」に変わりました。お店も変わったようです。「ばら寿司」の時は朝に調理されるのでしょう、まだ温かみがありましたが「巻きすし」は当然ながら冷たいです。ここでも又彼女のことが思い浮かびました。こうして世代交代して、全てが少しづつ変わっていって、みんなの中から彼女の存在が消えていく、それが「死ぬ」と言う事なんだな~と教えられました。


お隣の近松公園も今年も楽しみにしていた花はぐ~んと少なくガッカリしました。桜の芽は膨らんでいました。枝垂れ桜が多いことに気が付きました。咲いたら奇麗でしょうね。花は駄目でしたが、姿は見ませんでしたが、ウグイスの「ホーホケキョ」を聞きました。これで花が見れなかったことも我慢出来ました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遍路 2

2009年03月22日 | 思い出話
       平成13年11月17日(土曜日)
4番 大日寺  5番 地蔵寺  6番 安楽寺  
7番 十楽寺(じゅうらくじ)  8番 熊谷寺(くまがやじ)




二日目は第4番札所 大日寺からである。何のことも無い小さなお寺である。ただ山門の上に鐘が載っているのが珍しかった。


       佇む人と木の大きさを比べてください
第5番札所  地蔵寺は大きな銀杏の木で有名だ。
昭和58年8月、作家向田邦子さんが、その死の10日前、1番札所霊前寺から、この地蔵寺の間を歩いたそうだ。あんなに早い死が彼女を迎えに来なければ、彼女は「歩き遍路」をどのようにえがいたのだろうか。その感想が読めなかったのが、とても残念です。


門前に托鉢の遍路の方が居た。その人の前を通って(布施はせず)、次の寺へは右か左かと迷って、フッと振り返ると、あちらも閑で私達を目で追っておられたらしく、「右、右」と言うように手を振って方向を示してくださった。


昨夜から蕁麻疹が出ていると言う主人が、お医者さんを探すという。やっと見つけて看板のほうに行こうとしたら「そっちじゃないよ!」と大声を挙げながら遍路姿の人が走ってこられた。彼は野宿を交えて遍路をしていると言う広島の方で、背には頭を遙か越える荷物が載っていた。私達が間違った方向に行くと見て声を掛けてくださったらしい。

やっとたどり着いた医院のお医者様は用事で居ないという。奥様が気の毒そうに、別の病院を教えてくださったが、中々見つからず、土曜日なので昼までに見つけなければと心が焦っていた。ウロウロしていると又「お四国さ~ん!そっちじゃないよ」と言う声がする。そちらの方を見ると自動車から降りたご夫人が叫んでいた。又、迷子と思われたらしい。「のだ医院を探しているのですが…」といいますと「直ぐそこですよ。良くお遍路さんが此処で迷っておられるのでね。又だと思ったのですよ」とのだ病院まで案内してくださった。ありがたいことに、12時は過ぎていましたが、注射を打って、薬も頂きました。

☆ ご婦人は自動車を路上に置いたまま、病院まで案内してくださったのです。都会では考えられない事です。


第6番札所 安楽寺 では歩き遍路の尼さんに会った。大きな宿坊があるようだったが、その辺りが工事中でザワザワしていて落ち着かなかったので、早々に退散した。だから何も印象に残っていない。


7番札所 十楽寺は目の不自由な人に霊験新たかといわれている。88ヵ所には目に良いといわれる寺が多い。気休めだろうが遍路を決めた一つの理由でもある。「黄班前膜」と言う目の「病」を持つ主人はどのように祈ったのだろうか。

☆ 1年前から主人の目の病気の名前が「加齢性黄斑前幕」と変わった。5年前はただ「黄斑前幕」だったが、この度は老人性と名が変わって治療中である。治療は大学病院でしているが、手術を勧めてくださった近所の医師に「何時までするのか?良くなったようにも思えない」と訊ねると「手術をしなかったら、今頃は失明しています」と慰められたそうです。大学病院に行くと、同病の人が大勢来ています。6年前は珍しかったこの病が、今は大衆病になった感がいたします。


寺の前の店でうどんとご飯を頼んだが、はじめ「もうご飯は無い」といっていたのに、暫くして「ある」と言う。出てきたご飯がぺちゃぺちゃで不味い、これはご飯に打ち水して蒸したとしか考えられない代物でした。腹が立ったけれど、それ以上にお腹が空いていた、背に腹は代えられぬ。でも嫌な事をするね。其れも食事つくりの専門家の主婦が食べるんだよ。話してみれば、そんなに悪い人ではなさそうでしたが、商売にはセコイ人なんですね。店の中には左幸子さんのサインが掛けてありました。


第8番札所 熊谷時 は今日最後のお寺です。私達は写真の山門から入らず、づ~っと寺院に近い道からお参りしたので、この山門の写真は、翌朝次の寺に行く時に写しました。お寺は坂を登り、階段を上がった高台にあった。5時ギリギリに間に合った(ご朱印帳に印をいただけるのが5時まで)。心急かなければじっくり居たい雰囲気を持ったお寺だった。しかし、ボリュームいっぱいの音でスピーカーからお経の様な?声が流されていたので、ここのお寺の折角の良い雰囲気が壊されていると感じた。お寺は静かなのが良いです。


11月17日  たみや旅館  (二泊目)

たみや旅館は普通の民家でした。部屋の手前に通し廊下が続いていて、その奥が皆で食事をする部屋になっていた。その廊下に面して幾つかの部屋が並んでいた。今日は一人歩きの遍路さん2組と私達だけだった。

お一人は北海道からの方で、一度はバスツアーで遍路を経験されたが、物足りなく、やっぱり歩くべきだと、観光を兼ねて3ヵ月掛けての遍路で、明日結願だと言う。当時歩き始めたばかりの私は解っていなかったが、逆打ちだったのです。なんといっても3ヵ月連続と言う旅に驚いたのです。

もうお一人は藤沢からの菅野さん。やはり2度目でした。1回に10日から2週間掛けて、春と秋に来られて、1回目は2年間で結願されたそうです。この度は鯖太子までのご予定とか。区切り打ちするなら、JRの駅の側で打ち切ると、次も続け易いですよと教えていただいた。私はその教えを守って遍路計画をした。

菅野さんは四国遍路以外はどこにも行きたく無いといっておられた。半年の間に般若心経を写経しておいて各寺に納められるそうです。遍路を中心に日を過ごしておられるのが窺える。生き様が姿に顔に現れている素的な人。明日の柳水庵でもご一緒の予定です。明日渡る藤井寺の手前の潜水橋のあたりの景色の良さを教えてくださった。
(残念ながら道を間違って潜水橋を渡ることは出来なかった)又、焼山寺を登るには、遅くとも12時には藤井寺についておかないと、山道の3時間は日が暮れると大変だからとご指導も頂いた。だのに道を間違え藤井寺に着いたのは1時に近かった。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする