ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

涙の効用

2006年05月31日 | ラジオから
             レモンバーム
           リボン結びの様な形
     この頃の女の子、髪にリボン付けていないな~
          触るとレモンの匂いがする

今日は晴天だったので携帯ラジオをぶら下げて庭仕事をした。日焼けしそうなほどの天気だからか蚊が寄ってこなかった。蚊は強い日光は苦手なのだろうか?水遣りをするのは朝の涼しい内にするので思いっきり咬まれる。10~20ヶ所はざら、家に入ると急いで「キンカン」を塗り捲る。昔の蚊は服で隠れている所は咬まなかった、今の蚊は服の上からでも平気で刺す。私は人一倍刺されやすい。

蚊は人から出る「炭酸ガス」や「体温」を感知して寄ってくるらしい、と言う事は
私の「炭酸ガス」の濃度が濃く「体温」が蚊にとって適温と言う事か?蚊は小さいくせに「ブ~ン」と五月蝿い。大きな蠅より蚊の方が耳障りなのは蚊は1秒間に約600回も羽ばたいて居るからだって。人間の血を吸いに来るのは「メス」だけだと聞いた事があるが、本当だってメスは人間の血を吸って卵巣を発達させ卵を産むんだって、だから蚊のオスもメスも主食は花のミツや草の汁なんだって。蚊は1回に自分の体重が2倍になるくらい吸うので、血を吸った蚊は動きが鈍るそうよ。

本題に入ります。「涙」はストレスを和らげる物質を含んでいるんだって。そう言えばオシッコもウンコもいらないものを外に出しているし、汗だって老廃物を排出している。身体から出るものは不必要な物を持って行ってくれるのだから、出さなければいけないらしいよ。「涙」もしかり。

庭掃除しながらなので記録していないのだが「週末には大泣きして、ストレスを解消しよう」って本が売れてるらしいよ。何しろ「泣く」事は身体に良いらしいよ。寂しい、悔しい、嬉しい何でも良いから「涙」を流す事。映画、テレビを見たり、本を読んだりして大いに「涙」を流そう。そう言えば大泣きした後は変にすっきりすると思いませんか?そしてケロッとして、お腹が空いた~なんてお菓子をつまんだりした事ありません?「涙が涸れる」と言う言葉があるように泣き止まない人は居ませんよね。人間の身体ってうまい事出来てるんだ。

この頃涙もろくなって、一寸した事にも泣きそうになるんですよ。こんな事ぐらいって解っているので、「う~~」ぐらいで止めるんですけど、止まらない事もあり、嗚咽してしまうのね。だからこの頃は映画は一人で見るに限ると思ったりするの。本も今は病気の関係は避けている。皆自分に当てはまるような気がしてストレスが溜まるから。こんな時は「涙」は出ないから気分が悪くなるのかしら。加齢現象として、涙もろくなるのは「涙」を流す事によって自然にストレス解消し、弱った身体を労わっているのかしら。

若い頃は「悔し涙」を良く流しましたね。若い頃は「怒り」にも力があって「悔し涙」を流したのでしょうね。その私を一番知っているのは「コロ」なんです。「コロ」は後2ヶ月で20年になると言う時まで我家に居た「犬」なんです。悔しくて悲しい時、無性にコロの傍に行きたくなるんです。「コ~ロ~」って犬小屋に近づくと、私の泣きはらした目をじ~と優しい目で見つめるんです。そして傍に行って泣くと私の涙をペロペロと舐めてくれるんです。気が落ち着くまでそうしていました。嬉しい事も悲しい事もコロに話しましたから、私の心を知っていたのはコロだったかな?と思っています。嬉しい時はコロの目も嬉しそうに、悲しい時は共に悲しんでくれていた。

コロは近くの公園から拾って帰った女の子(次男の友達)が「家には猫が居るから犬は飼えない」とお母さんに言われて、私の家に飼って欲しいと持ってきたんです。生まれたばかりで片手に載る位小さかった。子供部屋でダンボールで寝させているのに気が付くとムートンに丸まっている。毛のぬくもりが母親を思い出させたのだろうか。女の子で四つ目で美人でしたよ。

始めは庭で放し飼いしていたのですが「ここ掘れワンワン」の習性か花壇を掘って食べ残しを隠すのです。だから繋いだのですが、瞬く間に運動不足でデブデブになったんです。これはいけないと思って、綱は離して、土を掘ったらそこに鼻面を擦り付けて掘ってはいけないと言う事教えたんです。掘らなくなりました。若い頃は自分の犬小屋の屋根に(平坦)ピョンと軽々と飛び乗っていたのですが、年を取りますとだんだん失敗するようになりました。私が見ていると何とも情けなそうな、恥ずかしそうな顔をするんです。晩年は上がれなくなりました。人間で言えば100歳以上生きたんですもの。

又脱線した。だから泣く事はストレス解消に良いんだそうですから、遠慮なく泣きましょうという事なんです。感情は少しでも発散させた方が心の負担を少なくすると言う事で~す。


















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先見の明?

2006年05月30日 | 新聞から
              さつき
         いつの間にか咲き、もう終わり
          今年はびっしり咲きました

先日朝日新聞に「豪華客船ため息航路」と題し日本郵船の子会社「郵船クルーズ」の「名門ホテルが世界中を動く感覚と言われる飛鳥Ⅱ」が客室の浴槽やトイレの水が逆流したり、大浴場に入る自動ドアーが勝手に開閉するなどの不具合が相次いでいると書かれていた。

クルーズ業界関係者は「事前の点検不十分と言われても仕方が無い。今後の予定を遅らせても、早急に本格点検すべき」と指定するが、同社は「乗船されたお客様には不愉快な思いをさせて申し訳ないと思う」と謝りながらも「現状は運行に差し支えなく、設備の不具合も軽微で応急処置で対応出来る」と言う。

郵船クルーズによると、客室浴槽の排水の逆流は3月半ば、伊豆諸島を周遊するデビュークルーズから発生し、その後の日本一周、現在の世界一周航海とあわせ、計15件判明しているという。文面だけでは定かでないが、一部屋が繰り返し故障しているのか、そのつど異なった部屋の故障なのか解らないが、前者であれば言語道断、空き部屋として航行すべきだと思う。400室(720名)もあるのだから。

船は現在約100日間の世界一周航行中で10月まではほぼ満員。また総点検は来年1月のドックでの定期検査まで待たねばならないと言う。荷物を持ち運ぶ必要が無いし、ゆったりと過ごせる長期クルーズは定年退職を迎える団塊の世代や中高年の間で人気が高いと言う。しかし一泊4万6千~20万円といえば、一部の人を除いては「一生一度の贅沢な旅」ではないだろうか。

不幸にしてこの災難に遭ってしまったのは「夢にまで見た旅だったのに」と語る奈良のご夫妻で8泊9日、計112万円のフルムーン旅行だったそうだ。

HPには「船内施設は一段とグレードアップ」と記載されている。「飛鳥Ⅱ」は「初代飛鳥」の1.7倍の大きさらしい。「飛鳥Ⅱ」は「クリスタル・ハーモニー」と言う船の改装船だそうだ。改装船ならば案外目に付かないところにはお金をかけていないのではないだろうかと思った。私は新造船だと思っていたので「何で?」と思っていたが、よくよく読むと、やはり展望大浴場(此処の出入り口が勝手に開閉)を新設するなど数十億円かけて改装したが、配管は取り替えてないと言う。1月の定期検査で全面管を取り替えるのだろうか?管は見えないところにあるから大変な手間と時間が掛かるだろう、改装時に取り替えなかった事を見れば変えないのではないかと言う気がするが・・・又悪いところだけ一時しのぎの修理をしても又ほころびは出てくるが・・・

何の事故にも遭わず楽しまれた方は良いが、運悪くがっかりさせられた奈良の方は本当にお気の毒としか言い様がない。

「豪華客船の旅」は私も夢見ている。夢だけで終わるだろう。我家の大蔵大臣である私が言うのであるから間違いない。フェリーは北海道へ、広島へ、又遍路の時はフェリーで四国へ上陸もした。

広島まで乗ったフェリーが始めての経験だった。夕方大阪港を出航し、早朝広島港に入る。実はその「広島グリーンフェリー」は主人の会社の子会社だった。一家4人で乗船したのはいいが、私達をほっぽりだしたまま船長室から帰ってこなかった。気心の知れた船長さんで積もる話があったと思うが、こういう事を平気でするのである我が亭主は・・・

その「グリーンフェリー」が採算割れの為だろう、止めることになった時のお話。
会社の話など何時も話さない主人が「フェリーの代わる何か良いプランは?と皆の意見を聞いている」と言うようなことを言った。遠い遠い昔の話でうろ覚えだが、自分の言った言葉だけははっきり覚えている「クインエリザベスの様な客船を作れば良いわ。これからはそんな旅をしたいという人が増えてくると思うわ」と言った。「そんなん採算取れんわ。豪勢な旅する人居らんわ」と即否定した。

日本郵船が「豪華客船建造」を知った時「それ見てみ、私の考え間違って無かったわ」と思った。誰かが始めて口にした時、営利会社である限り採算が取れるかと不安もあったろう、でもその意見を取り入れた上司が偉い! 初めての事への挑戦こそやりがいがあるのでは・・・握りつぶされたとはいえ私の考え「先見の明あり」でしょう?
























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久坂(くさか)葉子と言う作家

2006年05月29日 | 気にかかる
          アルペンブルー(星桔梗)
         年間を通じて葉が茂っている
      1.5cmほどの花が放射状に枝垂れて咲く

「ラジオ番組を録音してくれる所しらない?どうしてもとりたい番組があるのよ。29日のラジオ関西なんだけど」とたまちゃんからのメール。私は電話した。「古い知人の文筆家のほりさわさんが久坂葉子の大ファンで協力してあげたい」と言う。きっと関西の人で無いので関西放送が聴けないのだろう。「ダヴィングならしてくれるけど、番組そのものと言うのは聞いた事ないよ」「貴女は何でも良く知っているから訊ねてみたのよ」「私がとってもいいけど忘れたらごめんよ」頼まれた事を忘れる事はま~ない、しかしこの頃の自分には油断がならない。予防線を張ったのである。早速ラジオに「29日18:30 たまちゃん録音」と書いた紙をぺったり張った。

「無事とり終えました。送りますから待っていてください」「本当に有難う。ご迷惑をかけてすみませんでした。一杯感謝しています」「今録音を聞き終えた所です。本を読んでみたくなりました。私こそ知らない事を教えて頂いて有難う」

本名は川崎すみこ 川崎造船の創設者のひこ孫に当たる。父は男爵、母は加賀百万石の前田家の流れを汲む子爵の娘の次女として生まれる。神戸山本町に生まれ山手女学校に通う。昭和25年19歳の時「ドミノのお告げ」で芥川賞候補となる。

1952年12月31日21:45、阪急六甲の駅で大阪行き特急に飛び込み自殺する数時間前に書いたものだ。21歳の若さである。作品もダウンロード出来るようになっていた。その最後の作品は「幾度目かの最後」と言う。27枚と言う長さであるが読んでみたかったし、読んだ後はたまちゃんにあげれば良いと思いプリントした。

山手女学校の仲良しの友達の母親に宛てた手紙形式になっている。その友達が言うには「私の親と言うより気の会う友達、心の友というかしら、話の解ってくれるおばさんと言う感じでした。母親では理解してもらえないからと何でも相談していたようです」と語る。でも実の母親とすれば娘の最期の遺書に近い作品が自分宛ではなく、他人であったと言う事は辛かっただろうと思う。

「幾度目かの最後」の最後の方の抜粋をテープから起こしてみた。「おばさまこれは小説ではありません。全部本当なんです。真実私の心の告白、鉄路のほとりは虚構でなしに本当のことを私に書けと言いました。これがそうです。私はこれを発表するべくして死ぬでしょう。私の最後の仕事なんですから。おば様私は静かな気持ちになれました。書いてしまった。すっかり。なんという罪深い女。私は地獄行きですね。おば様お体をうんと大切になさって下さい。花がいけているお部屋、懐かしいお部屋です。  12月31日午前2時頃」

その日彼女は忘年会に出て、席を移し、ピアノの弾き語りで(ピアノは上手だった)「人の気も知らないで」を原語で歌ったと言う。その足で六甲駅(くまののおばさまの家がある)で降りて、その命を自ら絶ってしまった。彼女の遺体は自宅に帰る事無く菩提寺に直行したらしい。何故なのだろう。「久坂葉子研究会」と言うのがあるらしい。姉は語る「真面目すぎて悩みが多かったのだろうと、今この年になって理解できるようになった。母は何時も言っていた『すみこは10年か20年後に生まれて居たらよかった』と言う。

今夜の放送は死の9日前一日で書き上げた作品で「鋏と布と型」と言う、女性デザイナーとマネキン人形の語りで、私には優しい「禅問答」のように聞こえた。53年前関西放送が神戸放送と言っていた頃、死後一年目に録音放送されたテープの再放送である。

放送の終わりに「死に急ぐと言うよりも、激しく生真面目なその人生を生き急いだのではないか」と締め括った。此処にも又「生き急ぐ」と言う言葉が出てきた。
これが年末に近い時期ならば「流行語大賞」に選ばれるかも知れないとフッと思った。

たまちゃんがこの件で私の事を思い出してくれなければ、私は一生知らないで過ぎただろう。同じ神戸生まれ、4歳違い。同じ時代を駆け抜けて、死後53年経ってもまだ忘れられない人を知ってよかったと思っている。唯私的には「芥川賞候補の作品」は余り読まない。録音を聞いていてやはり「芥川賞的かな?」と思う感じは在った。その年の「芥川賞」は何方だったのだろう?



















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男女共同参画って?

2006年05月28日 | テレビから
              サボテン
          トゲトゲの葉?茎?から
         きれいな花が咲くものですね

今頃何をって言われそうですが、随分以前から耳にしていたような気はしますが、関心が薄くて。この言葉に賛同して、その催しに参加するのが進歩的な女性の生き方と言う風潮が嫌で目を逸らせていました。今日「たかじんのテレビ」を見ていて問題になっていたので・・・私には到底同意しかねたので、少し考えて見ようと思いました。

内閣府 男女共同参画局のHPを出してみました。趣旨としては、啓発活動:男女共同社会つくりのためにはこくみんのひとりひとりの意識が重要であることから、国や、地方自治体では、積極的に広報啓発活動をおこなっている。とあり平成13年から毎年6月23日~6月29日までの一週間啓発活動を行うとありました。来月思い出した様に、色々な催しがあるのでしょうが、今ひとつ浸透率が低いように思います。空回りの感さえある。

表立った項目は「女性に対する暴力」だけなんですね。クリックしてみると「配偶者からの暴力の実態」とあり「暴力の原因としては、夫が妻に暴力を振るうのはある程度は仕方が無いといった社会通念、妻に収入が無い場合が多いといった男女の経済的問題も大きく関係しています。男女が社会の対等なパートナーとして様々な分野で活躍する為には、その前提として、女性に対する暴力は絶対にあってはならないことなのです」その背景(女性に対する暴力)には男尊女卑の考え方の残存がある。

この文面は私には何だかちぐはぐなものに見えるのです。ドメスティック・バイオレンスがどの位の数で、その全てが男性側が責められるものなのか解らないのですが、国連の動きに添っての行動だと言いますが、今の日本の女性はそんなに可哀想な立場に居るのだろうか?私の目には男性の方が可哀想に見え、男の子を生んだ事を「可哀想な性」を生んでしまったと思うほどです。

戦後「女と靴下は強くなった」と言われますが、戦前の女性だって、自分の収入が無くとも、主人の働いてきたお金を任されていたのでは?外国ではお金は男ががっちり握っているそうです。金額の多少はあるにせよ、その範囲で自由に使えるのは女性ではありませんか?財布を持つと言う事は家庭内の力が大きいを意味していると思うのですが・・・

平日のレストランのランチタイムは大半が女性です。財布の紐を握っているからできる事ではないでしょうか。今は女性が自分の親兄弟を第一に考えても誰も何も言いません。熟年離婚然り、大体が女性からの申し出でではないですか?「濡れ落ち葉わずらわしい」だ「自由が欲しい」等の理由だそうですが、元気な50~60代はいいでしょう。もっと年を重ねた時同じ思い出を持つ相手が居るのがどんなに幸せなことか気づくと思うのです。勿論私だって「主人は定年があるが、主婦には定年が無くて不公平だな~と思いますよ。でも料理をしたり、掃除洗濯をする事が女性の長生きに繋がっているとしたら、ま~いいかな~と思っています。

「夫」と言う言葉が進歩的「主人」と言う言葉を使うのは遅れている、公的な場では貴女も「夫」と言いなさいよと言われた事がある。大きなお世話です。「主人が・・・」と言ったからといって私は別に主人を奉っているわけではなくて「主人」と言う響きが好きで使っているだけだ。貴女が「夫」と言うのを止めない代わりに私の事もほっといて欲しい。と反論するのもバカバカしく、心の内で毒づいたものです。

男女共同参画が女性の弱い立場を高め、暴力から救おうと言うなら,そして「ドメスティックバイオレンス」が夫婦間のみならず、もっと広範囲に捕らえる人もあるとの記載を見れば、「拉致事件」解決に手を貸さないのは何故ですか?めぐみさんは暴力を以って拉致され、さきえさんはその暴力の結果に泣いています。どうして救いの手を差し伸べないのですか?

私を含め大多数の人は「自分を不幸だ、男女同権を勝ち取らねば」とは思っていないと思いますよ。たかじんの番組で「ジェンダーフリーを求めている人手を上げて」の声に何十人か居た会場の女性は誰一人も挙手しませんでした。

「男女共同参画」と聞くと「同和の人権」を思い出します。忘れている事を思い出させようと「起きて起きて!」と無理やり起こされる不愉快さを感じてしまいます。

「ドメスティックバイオレンス」でも「ジェンダフリー」でも助けが必要と思われるならどうか静かに行動してください。自分の選んだ運命が不幸であった人を救うのも良いのですが、人為的に不幸になってしまった人の事にも目を向けてください。






























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赤ちゃん、子供受難時代

2006年05月27日 | 新聞から
           ニゲラ(クロタネソウ)
            毎年こぼれ種で咲く
          芝生の中でも越冬している
       春先にプランターに植え替えてあげる

今日は一日木枯らしの様な風の音がしていた。如何したのかしら?近頃の天候は、何だか気味悪いです。昨日唱歌の学校でのりこ先生が「今、幼稚園や小学校で流感が流行っているの知ってますか?西宮では学級閉鎖の学校も在るのですよ」って。間もなく6月の声を聞こうと言うのにですよ。そういえば私もお薬を貰いにお医者様に行った時、珍しく子供が多いな~とは思ったんですよ。何だか変ですね。

子供の事件が多いですね。それも自分が何者かも解らない年齢で、人生の最後をまったく関係の無い変質者によって幕を下ろされたり、この世で一番信頼している親に殺められたり、この頃の事件は子供ばっかりと言っても言い過ぎで無いくらいだ。少子化が嘆かれている今、折角生まれてきたのに、自分の意思で何もなさないまま、幼い命が摘み取られていく、何か悪い時代へ進んでいる前兆のようで気持ちが塞ぐ。

小子化対策として、働いている女性の為の産休、保育所等々仕事と家庭を両立させるには何をどうすれば良いのか?とか職を持っている女性の事を考えている内に、離島の若い専業主婦が母親になる為に苦労しているらしい。

私の周りでも産婦人科は減っている。でもそれは産婦さんの絶対数が減っているから仕方が無いと思っていた。しかし新聞の「お産が危ない!」を読むと産婦人科医そのものが激減していると言う。人手不足の激務で燃え尽きてしまったと言う。確かに臨月の産婦が居れば日曜日だからと言って自由に動く事もままならない、まして高齢出産が増えた為それに対応できる器機も備えなければならない。そこに妊婦減となれば採算上も閉院せざるを得ない。

私は自分の時を考えてみた、町医者だったので、お医者さんは一人、もし同じ時に産気づいたらどうなるのか?未知の世界ゆえに色々心配だった。離島の産婦さんはどんなに心細いだろう。初産なら時間が掛かるので船で渡る時間はあるかもしれない。船は何時でも動かせるのか?又二人目以後は上の子を如何するのか?考えれば考えるほど不安だろう。心安らかな胎教など何処の夢?状態だ。

数年前まで、都会では妊婦さん争奪戦の感があって、ホテル並みの設備、二人目からは上の子もその父親も病院で食事し泊まれたと聞いた。今は赤ちゃんは授乳の時だけ母の手に委ねられ、その他の時間は「赤ちゃんだけの部屋」で過ごす。今もまだそんな至れり尽くせりの産院があるとすれば、生む事だけもままならない産婦さんは気の毒すぎる。

妊婦さんが安心して身二つになれるよう早急に何らかの手を打てないのだろうか?お産は親と子の二つの命が掛かっている。小児科医が減って、次は産婦人科が・・・では済まされない。女の私でさえ産婦人科医の地位が低いのではないかと感じる事があった。小児科医の方は何だか報酬面でも報われないと聞いた事があるし、産婦人科医も二つの命を預かる激務にしては報われる事が少ないのだろうか。その認識は何処から来ているのだろう。

04年の厚労省の発表では全国で生まれた111万人の内51.8%が病院での出産と言う。では後の48.2%人は何処で?自宅で?近年産婆さんが見直され自宅出産が増えつつあるとは耳にしたが、そんなに多いのか?都会では余り聞かないが、地方ではこんなに進んでいたのだろうか?産婆さんのなり手は多いのだろうか?お役ごめんになった私達の関心の無さが今の時代を作る後押しをしたと言う事は無いだろうか?反省反省の私に「お産があぶない!」の記事が目に痛い。

出産救急の拠点「地域周産期母子医療センター」というのが各県で数箇所ある。尼崎市にもそのセンターがあるが、産婦人科が無い為ベッドも無い、治療が必要で運び込まれた赤ちゃんの母親は元の産院に戻らねばならないと言う。帝王切開の傷が塞がらないまま、母親は子供に付き添う為ストレスと疲労で通常の入院の倍(2週間)も掛かったそうだ。その夫は「産科とICUは同じ病院に在って欲しい」と切望している。

大学病院の医局と言うのは大きな権限を持っていると何かで読んだ気がするが、その医局が「産科の一人勤務はきつい。そこを解ってもらわないと」と言っているが、その事は想像に難くないが、解ったその上で言いたい。「母と子の命優先でお願いしたい」と・・・




























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蕎麦とうどん

2006年05月26日 | 花物語
             西洋オダマキ
        去年まで1~2輪寂しく咲いていた
      今年は子・孫・ひこ孫引き連れてと言う感じ
          ツートンカラーが色鮮やか

昨日の「蕎麦」に「竜馬さん」がコメントを下さった。「忘れられない蕎麦は「木曽福島のくるまやさん」と書いてあった。そこは私がどうしても思い出せなかった「美味しい蕎麦」の一軒であると。早速写真を探した。在りましたよ「くるまや」さんの前で写している写真が。平成4年7月に御嶽山に登った帰りに寄ったのだ。丁度祭りの日で「くるまや」さんに居る時に前を神輿や山車が通りかかり、食べかけの「蕎麦」を中断して行列を見に飛び出したのだ。

御嶽山は7月と言えども根雪が残っていた。私達は朝日村から登った。その宿舎が改装が終わったばかりで「開けるのは明日からの予定だったのですが、お客様の為に今日から開ける事にしました。桧風呂もまっさらです。良い匂いですよ。ゆっくり楽しんでください」明日からの予定だと言うのでお客さんは私達だけだったような記憶がある。お風呂は大きかった。「桧のさら風呂なんてこれからも経験できないで。ラッキーや」その後も桧風呂に入ればこの日の事を思い出す。

帰りは木曽福島(わざわざ「蕎麦」を食べに寄り道)から妻籠に泊まり帰宅した。妻籠の宿は昔ながらの木造でクーラーは無かった。トイレもポットン式だった。宿の亭主が「今度来られる時はトイレだけは水洗になっていますよ。県からの要請なんです」冷房の無い蒸し暑い部屋、前の廊下を隔てた池の鯉が時々跳ねる音を聞きながら眠りについた。あれから14年の月日が流れたとは・・・

「蕎麦」と言えば「出雲蕎麦」も有名。出雲に旅した時、初めて目にした「出雲蕎麦」の看板に引かれてその店に入った。美味しい「蕎麦」が出てくると信じて疑わなかった。所が、調理場に目をやると所謂「茹で玉」を茹でようとしていた。勿論美味しいはずがない。不味い!私は出雲に行けば何処で食べても「美味しい出雲蕎麦」が出てくると思っていた。何たる事ぞ!自分の思い違いに臍を噛む。若き日の失敗談だ。

私はどちらかと言うと「うどん」が好き。主人は「蕎麦党」何処の地方だったか何時も通り主人は蕎麦、私はうどんを頼み、あと「いなりずし」を頼んだつもりだった。所が出てきたのは「ざる蕎麦」「天麩羅うどん」「きつねうどん」だ「お稲荷さんを頼んだんですけど」と驚いて言う私。その地方では「きつねうどん」を「いなり」と言うらしいのだ。言葉の違いを解ってくれて「きつねうどん」は引き取ってくれたが、では「おいなりさん」は何と言ったのだろう?「いなりずし」がちゃんと出てきた。それと「ざる蕎麦」に「海苔」が載っていない、他人の注文を聞いていると「のり付き」って頼んでいたようだ。今の「トッピング」感覚かな?所変われば品かわるの経験談。

「うどん」と言えば四国で「ぶっかけうどん」を始めて食べた。これも遍路中の「うどん」の話だが、道後温泉を過ぎた辺り、良さそうな気のする店の前で「食べようか」と言う事になり入った。うなぎの寝床の様な小さなお店だったが、私達の感が当たったらしくお客さんもいっぱいだった。順番まで少し時間が掛かると言う、私達の席に相客を入れる事無くゆっくりさせてくれた。「うどん」は勿論美味しかった。その上「お遍路さんにはお接待です、半額です」ありがたかったが、本当は天麩羅うどんを食べたかったのに我慢したのを後悔したと言う、いじましいお話。

遍路のうどん第3弾 栗林公園辺りで「うどん」を食べようと言う事になり、子供ずれの若いパパに「この辺りに美味しいうどんや在りませんか?」と聞くと暫く考えていて「あるのですが、今日は日曜日で休みなんです。栗林公園の前にうどん屋はあるのですが団体が多いから味はどうだろう」の答え。仕方が無いので公園前まで行った。なるほど団体さん向きのお店があった、しかし目を前方に向けるとこじんまりした「うどんやさん」が見えた。私達はそちらに入った。小さな店で外人さんが多かった。聞くとハワイの二世のツアーグループだという。外人さんにも「うどん」の美味しさ解ったのだろうか?

元町のおじさんが言っていた「かけうどんを食べたら本当に美味しい蕎麦かどうか解る。通の人はかけをたのむ」って。でもいまどき「かけそば」と言うメニューありませんよね。それでは「ぶっかけうどん」にお醤油だけ掛ければ「うどん」の良し悪し解るんだろうな~






































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蕎  麦

2006年05月25日 | 気にかかる
               芍 薬
         庭の片隅にひっそりと咲いている
          牡丹のような華やかさは無いが
       牡丹は芍薬の台接ぎ無くしては生まれない
         牡丹の生みの親、育ての親でもある

今日はやっと晴れて、昼食に「ざる蕎麦」を食べた。今年,家で「ざる蕎麦」を食べるのは初めてです。4月に高山で蕎麦を買ってきたので、それを茹でた。高山では2月に行った時は高山駅近くの店で「天麩羅そば」を食べた。お馴染みさんと思われる人が「大盛り蕎麦!」と注文していたが出てきた「蕎麦」の量を見て仰天・・・関西の二人分は優にあった。てんこ盛りです。

4月に行った時、上三之町辺りを昼ごはんを探してうろうろしていると、行列のある店があった。「蕎麦や」さんだったので「此処にしよう」と並んだ。季節も春ですし「ざる蕎麦」を頼んだ。割と美味しかったし買って帰る人も多かったので釣られて買ってきた。それを茹でたわけです。スーパーで買うそばなら一束で2人丁度の量ですが、少し多いかなと一束茹でましたら多い所ではない多すぎる。そこで突然思い出したのです。冬食べた店と春食べた店とは支店本店の関係だったのです。冬の「大盛り蕎麦」はこの一束の量だったのです。残せないので一生懸命食べましたが「もう少し欲しいな~」ぐらいが丁度良いわけで「もう当分ざる蕎麦いらん」と思ってしまった。

美味しさはつけ汁にもよるわけで、つけ汁の缶を開けて「アレッ?色が薄い」よくよくラベルを見ると「そうめんつゆ」と書いてあります。自分では「そうめん」にはまだ時期的に早く「そばつゆ」を買って来たつもりだったのです。仕方が無いので息子の「そばつゆ」を開けました。息子と私では「そばつゆ」の好みが違うので二種類買ってあります。ところがです。その「息子のそばつゆ」がこの「蕎麦」にはぴったりなんです。今やっと気づきました「蕎麦」と一言に言っても「蕎麦」の粉の配分量もそれぞれ違います。だからこの「蕎麦」には「このだし」で食べて欲しいとつけていたのに(唯便宜上つけている?そんな考えもあり?)今まで「蕎麦」についてきた「たれ」は捨てて自分好みの「たれ」を使っていたのは間違いではないかと・・・

別に「信州蕎麦」の頂き物のストックがあります。それはこじんまりと一人分を包んであります。そしてたれも付いています。今日気づいて良かった。何時もの通り「つゆ」を捨てて、自分好みの「つゆ」を付ける所でした。「それぞれの蕎麦」にはそれにあった「つゆ」が付いている事を知った一日でした。

何処で食べたのか、頭の中では小ぶりのせいろに盛られたつやつやの「ざる蕎麦」が浮かんでいるのに、それが何処で食べたものかどうしても思い出さない。主人に「美味しかった蕎麦は何処で食べた?」「いっぱい食べたから何処か忘れた」二人とも年やな~。

私をとても可愛がってくれているおじさんがいました。そこは「ふぐ料理屋」です。昔は「ふぐ料理屋」は冬だけ店を開けて食べていけたのです。戦後はそうは行かなくなって、夏に始めたのが「蕎麦や」でした。立地条件としては元町通りから一本入った所で、解り難い場所でした。でも昼には行列が出来ていました。特にどういうわけか学生さんも多くて(安くて美味しかったのでしょう)、その若い人の為に「大盛り」を始めました。私は「大盛り」はこの店から始まったと思っています。何故ならおじさんはアイディアマンだったからです。

このお店で「うどんすきの美々卯」の女将さんに会ったことがあります。京都の色町の女将さんの様な髪形をし小柄な方でした。おじさんとの話を聞いていますと、その方は「店はおおきしすぎるとつぶれます。私は朝の内に各店の出汁の味見に廻ります。そうして店を守ってきました。これ以上手を広げますと私の監督の目が届きません」商売談義のお話のようでした。私は手を広げすぎて潰れるお店の話を聞くとこの方のことを思い出します。何も食べ物やだけではありません、商い全般に言えることではないでしょうか。

それはそうと「ふぐの歯」って何枚あるかご存知?「一枚歯」なんです。真ん中に二枚に見えるような切れ込みがあるのですが、実際は一枚なんです。一枚歯って珍しいそうです。これは私の掛っていた歯医者さんが教えてくれたんです。その歯というかふぐ自体というか、切り落とされた顔の部分に(勿論直ぐですよ)割り箸を近づけると、ガブッと噛み付くのですよ、そして決して離しません。おじさんに「やってごらん」と言われて私も実験したので本当ですよ。





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スポーツクラブ

2006年05月24日 | 今日この頃
           アノマティカ(姫ヒオウギ)
        2cmにも満たない小さな花です
   球根が大きくなるとそれなりに花も大きくなります
      小さいのが好きなので毎年種をまきます
    もう一色、真っ白があります。清楚で大好きです

スタディオに入った。4月からプログラムの「健美操」の先生が替わった。今までの先生は何年位続いたでしょか、変化が無いので参加を止めていた。「今度の先生はどう?」と聞きますと皆さん口を揃えた様に「良いよ、来てごらん。いちいち説明してくれるからよう解るよ」皆さんの推薦で出向いた。

「今日の音楽は道をテーマに選んでみました」出だし好調。
動作と呼吸を的確に指導してくれる。よしよし・・・。この動作はこの部分にこのような効果を表すと説明。完璧!今までの様に先生の形だけを真似して、今何処にどんな効果があるのかを知らずにするのと、知ってするのとでは大違いだ。「健美操」で汗をかく事が無かったのにうっすらと汗が出た。

先生は言われた「今の間に汗をかきやすい体質にして置いてください。汗をかいて要らない物は体内から出すようにするのが健康の第一歩。人間の身体は年々働きを少なくしようとします。夏になれば冷房が入ります。身体は益々働かなくなります。今の内に汗をかきやすい身体に作りましょう」

それは感じていた。とても汗をかき易くなっています。人前で恥ずかしいぐらい汗をかく。私の場合運動だけではなく「サウナ」も関係しているような気がする。いっぱいお水を飲んで「サウナ」に入ると見る見る汗が噴出す「あ~汚れが出ていく~」と思う。主人は手ぬぐいを絞れるほど汗をかくそうだが、私はそれ程ではない。でも女の方でもいます。ポタポタ音を立てて床に汗を滴り落としている方が。その方たちは20分位を2~3回入るが、私は10分1回と決めています。

前の先生も初めから面白みが無かったわけではない。始めはまずお洒落さんでした。着る物に力をいれておられたので見るのが楽しみだった。変わったソックスをはいたり、何気ない一寸した飾り物をぶら下げたり。髪の毛を上げたり下げたり。それが気が付けば見事に何年も同じ服なんです。如何したのかしらと思っていると、教える事も同じパターンで私は辞めてしまった。この先生の声がかわっていて、丁度、市場のせりの声に似ていたものだから主人と私は先生の噂をする時「中央市場」と呼んでいた。

今度の先生も長い目で見ないと解らないが、職業化してしまうと同じパターンを続ける事になる。人様を指導すると言う事は大変な事です。でも自分の教科に愛情を持てばワンパターンにはならないと思う。全てを変えて欲しいとは言いません、ほんの一部組み替えてくださるだけで良いのです。その様にしている先生の組は満員です。

もっとすごい先生がいます「気功」の先生です。12~3年同じパターンです。始めは先生が1年ぐらいで替わっていたが、この先生になってからかわらないで、組み合わせも同じなのだ。それでもそこそこの生徒は入る。なぜなら1時限目が老年向きで、その組しか無いからです。時間が遅くなる毎に若向きとなります。

皆さん諦めの心境で入っている人もいることがわかった。「健美繰が替わったから、気功も変わったら良いのにね」と言う声も聞かれるからだ。

今クラブは拡張工事をしている。6月半ばに新しい建物に移り、次に今の建物を改造し、秋にはリニューアルオープンとなる。プールも25mが5本(今は15m)ジャグジーの他にスッポンポンで入るお風呂も出来る。スタディオも2室と聞いている。私達が好きな方を選べるとなれば先生もうかうかしておれない、早くその日が来ないかと待っている。


私が洋裁を習っていた時、教えてくれていた友達が言った「70歳になったら、私は学ぶ方になりたいわ」言葉通りしげこさんは今習う方に廻っている。私も編み物のアドバイザーを70歳で辞めた。そして今は自分の為だけに編み物を楽しんでいる。

人にお教えすると言う事は自分の勉強にもなります「何故此処がわからないのか」を感じた時、それを解決する事を考える時、それはある意味、自分が教えられている事だと思う。教える事に愛情を加えていただきたい。そうすればお互いに愉しい時間が共有出来るのだから・・・


















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文字

2006年05月23日 | 思い出話
              ペラルゴニューム
               生き残り組
           ゼラニュームと似ているのに
            春一期咲きなのは何故?

「字はたいをあらわす」っていいます。その「たい」って「体」即ち「体型」と思っていた。でも「態」即ち「状態」ではないのですか?字引を引いても見つかりません。諺辞典なら在るのだろうか?どちらが正しいのだろう?

叔母に親戚中でも有名な達筆な方がいました。私はお会いした事はないが年賀状で見事な字は見ていました。書かれた字は力強く男性の字のようでした。80歳を過ぎた頃からでしょうか、字の美しさに代わりは無いのですが、字に勢いと言うものが無くなって来ました。「あ~叔母さんも年をとられたんだな~」と思っていましたら、訃報を聞くことになりました。その時に「字」はその人の体力をも表すのだなと感じたのです。

結婚して数年後、ゴルフ帰り、主人を送りがてら私に会いに来てくれた私の元上司が言いました。「今とっても幸せなんだね。年賀状の字を見ていれば解る。字が伸び伸びとしている」って。その時まで自分の字の変化に気づきませんでした。字は意識なしに変わって行くものなんですね。

昔の字と比較してみると、まず字の大きさが違いました。昔は小さな字を書いていましたが、大きな字になっています。そう言えば何時か会の代表で案内状を出した方に逢いに行った時「案内状を下さったのは何方?」と聞かれて「私です」と答えると「アラッ!字を見て男性かと思っていました」と言われた事があります。

もう一人新聞記者の友に「・・・さんの字のかなは大きい字と小さい字があるね」と言われた事です。彼は職業柄、人の字を見る事が多いからでしょう「なるほど」と思いました。言われるまで気付きませんでした。今でもその癖は直っていませんが書いた文を読み返す時、この言葉を良く思い出します。

我家には「屋久杉の硯箱」と「四足の硯」があります。その硯の裏には舅の氏名が刻まれています。舅が小学生の頃、今で言う「習字のコンテスト」が在ったそうです。屋久島からは舅の書き初めが出されました。本土(屋久島の人は九州の鹿児島県の事をこの様に呼んでいた)の審査員は「小学生にこんな字は書ける筈が無い大人の手が入っている」と断言したそうです。この知らせを受けた小学校長は舅を連れて本土に渡り、審査員の目の前で書かせました。勿論舅が優勝で、その時に記念品として贈られたのが「四足の硯」と言う事です。

舅の字は餅箱の蓋の裏とか、お屠蘇の箱の蓋裏とかに今でも残っております。彼の子供達は上手でもなく下手でもなく普通の字です。

私が小学一年の時です。父兄参観日(今の保護者会)がお習字でした。授業中だんだんおしっこに行きたくなりました。先生が廻って来られたら「お便所に行きたい」と言おうとするのですが、沢山の父兄も見えていますし、とうとう言えませんでした。座っているときは蓋をしている様なものですから良かったのですが、立ち上がった途端、おしっこをちびってしまったのです。靴の中まで水浸し、その気持ちの悪さは今でも覚えています。そろっと母のところに歩いていきました。母はすぐ気づいてくれました。どのようにして帰ったかの記憶は飛んでいます。

私はもう一つ強烈に覚えている小学生の思い出があります。一年生の3学期だと思います。「カタカナ」から「ひらかな」に替わる時です。文章は「汽車の話」でした。その文章を「カタカナ」から「ひらかな」に書き換えた人から帰られるのでした。だんだん人が減っていきます。あと3~4人もいたでしょうか、夕暮れが迫ってきました。でも中々書き換えが出来ないのです、自分が心細い気持ちで暮れ行く窓の方を見ていた姿は覚えているのですが、その後のことはすっかり忘れております。暗くなるので宿題にされた様な記憶もあるのですが・・・

小学校の低学年は勉強の出来ない子でした。5年生の夏休みのノートで「優秀賞」を頂き「あれ!私もやれば出来るのでは?」とその時思いました。その学年末「向上賞」を貰いました。それから私の追いつけ追い越せが始まりました。今のように絶対評価だけで人との対比が無い小学校生活ならば私は出来ないままの子供だったかもしれません。子供が自覚できる為にもアメとムチは必要だと思っています。








 
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夫婦の日

2006年05月22日 | 一寸そこまで
               カルミア
    別名をハナガサシャクナゲまたはアメリカシャクナゲ
    世界遺産「天竜寺」の坊「弘源寺」の玄関前に・・・
       「赤」に引かれて、一寸お邪魔して

今日22日は夫婦の日ですって。月に一回在るのよね。何の為に?私はそんな事知らずに、今月末日までの「阪急友の会」の乗車券付き「天龍寺拝観券」を無駄にしない為と行ってきました。

新緑の嵐山は初めてです。何時もは桜か紅葉の時期に行きますから。やっぱりそんな時は人・人・人ですが、緑だけはね~物足りない。尼崎は案外緑の多い町なんですよ。街路樹も背が高く茂っていますしね。花だって奇麗に植え込んで在りますよ。だから緑を見る為によその土地に行く事はないんですよ。

私は嵐山は半年振りなんです。紅葉の11月瀬戸内寂聴さんの寂庵で行われた、琵琶奏者上原まりさんの寂聴さんの「源氏物語」を聞きに行ったのです。こじんまりした本堂に4~50人の小さな集まりでした。手の届きそうなところに奏者がいて、良い雰囲気でした。帰りにはちゃっかりと記念撮影なんてしましてね・・・

天龍寺は世界遺産です。足利尊氏が後醍醐天皇の霊を慰める為に開山したお寺だそうです。後醍醐天皇のお姿が安置されていましたよ。目的は天皇が幼少の頃を修学に過ごされたこの地に、敵味方の別なく南北両朝の戦死者の英霊を慰める事(何処かで聞いた言葉ですね)「怨親平等の精神」もこの寺の開創の目的だそうです。

法堂の「雲竜図」は土・日しか拝観できませんので今日は駄目でした。「曹源池」は何時見ても良いと思いますが、やはり紅葉でしょう。面白い人たちを発見。何語か解らない言葉をしゃべる(主人は北欧系の顔だと言います)3人いましてね。男の人は巻紙のようなロール紙に墨絵風で池の風景を描いていました。もう一人の女の人がご朱印帳の天龍寺の朱印の隣のページに絵の具でやはり風景を写生しているのです。日本人には考えられない発想です。

ぐるっと拝観しましたが「躑躅」が多かったですね。残念ながら終わっていましたが。満開の時はさぞ奇麗だったと思うのですが、私は神戸の「相楽園」に軍配を上げますね。去年久し振りに見に行きましたが、昔のほうがもっと良かったと思いましたが、配置と言い花数と言い「相楽園」が上!

お食事所を探していますとね。「お好み焼き」と言う字を見つけた主人が「食べてみよか」って、驚き桃の木山椒の木で~す。主人は「お好み焼き」が嫌いなんです。私は大好きなんです。だから主人が出張の時は家で作っていました。今はそのチャンスが無いので、もっぱら外で友達とまたは一人で食べに行きます。6月の末に関東方面の会社O.B.の方達との2泊3日の旅行が予定されていますので、その時には「お好み焼き」を作ろうと思っていたところです。

入りました。店内には修学旅行(5%引き)の生徒が10人ばかりと大人が5人ばかりいました。月曜が定休と書いてあるのにと思っていると、今の時期修学旅行や遠足が多いので開けているらしい。そういえば今日も学生の団体さんが多かった。

焼くのを見ますと嫌に小さいのです、その上にステーキを焼く時にかぶせる手の付いた金属の蓋をしています「この頃はあんな風にするのか?」と主人。「私も始めてやは、瀬里名思い出すね」の会話。持ってきた「お好み焼き」の部厚くて大きいこと「???」「もしかして膨らし粉?」あんなに小さかったのにこんなに大きくなってと疑う。作り方を見て納得、小さい「お好み焼き」を二枚作って、裏が焼けた頃合を見て具をいれ二枚を重ねているのです。「タイコマン」を作る要領です。納得納得。甘辛のタレがこれまた私には始めての味で美味しかった。

帰り道、新茶のお茶受けにと予定通り「琴きき茶屋の桜餅」買った。此処の「桜餅」には餡が入っていない。普通の桜餅のように桜の葉を二つ折りではない。二枚の葉の中にお餅が挟みこまれている。

帰りは二人ともぐっすり居眠り、3回の乗換えがあるのに往復ともスムーズに行って、片道1時間半でした。

帰宅後、早速新茶の封を切り桜餅とともに頂きました「今年のお茶は良い出来です」の言葉通りなんともいえない香りと優しい甘みが口に広がる。桜餅も桜の香りが良い。今日は美味しい食べ物に出会った良い一日でした。 (50)



































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