ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

神戸の一日

2006年09月30日 | 今日この頃
              ポトス
           花の咲かないこの花?
         斑入りの葉や緑の濃淡が美しい

六甲山脈がぐ~んと迫ってくるように見える朝でした。

今日はYS-11機引退の日でした。鹿児島の空も素的に澄んでいたのでしょうか?最後の操縦桿を握られた人、そして管制塔で最後の無線マイクを握った方、その周りには最後の勇姿を見守った方が大勢居られたのだろうと想像していました。

元会社の友人と会食をしました。4人のうち1人が長い道を歩けないと言うので昼食と、場所を変えてお茶と言う予定です。歩くのは良いが階段が駄目と言う人が1人ふえ、益々これからは座りっぱなし、お口の運動だけの集まりになりそうです。幸せな事に4人ともまだ夫持ちです。

昼食を終え、席を移してお茶しようと言う事になり、上司によく昼休みに連れて行ってもらった「コスモポリタン」に行きました。唖然!閉店です。「神戸のチョコレート」として有名だった老舗が姿を消しました。6月、元神戸に居た人が懐かしいかとお土産を買いに行った時はありました。アレから3ヶ月しかたっていないのに、この冬、友人と「ココア」を飲んだのが最後でした。寒い日は私は1人でも「ココア」を飲みに立ち寄りました。「ベル」もなくなりました。喫茶だけではありません。老舗がどんどん姿を消します。寂しい事です。

残って居る老舗「ドンク」の3階の窓際に座っていますと、見下ろせるセンター街に時ならぬ、シュプレヒコール。「国体は止めろ!」と幟や人が叫んでいます。「何言ってんのよ、開会式だよ今日は!」大勢の人が叫びながら通過していきます。その人達に混じって「兵庫県警」の大勢の制服姿もありました。デモが暴徒と化すのを用心しているのでしょう。

天皇皇后両陛下が昨日から開会式にご出席の為神戸に来られているが、会場が神戸の西の為三宮は普通の賑わいだった。このデモが来るまでは国体の事は忘れていた。ときこさんのご主人(元消防士)も借り出されてメイン会場の整理に行っているそうです。

みよこさんが孫が居ないので「孫の話はし難いね」と言いながら孫の話。孫の話はときこさんの独壇場、長男の孫3人(女、男、女)と何時も接しているので話が豊富、一番面白かったのは、収入がだんだん減るので「おばあちゃんとこは貧乏やから、欲しいものはママのおばあちゃんに買ってもらい」と言うと小学一年のボクが「ママとこも貧乏やいうとるで、それに、おばあちゃんは働いてるやんか」この頃の子は何でも良く知っている、働いてるんだからお金があるはず、と言うのです。
大笑いでした。

よしえさんの孫娘は高2で、絵が上手なので再来年、美術系大学に行く為に「絵の塾」に通っているそうです。音大受験の為にピアノのレッスンを受けるのは知っていましたが、美大を受けるのにも「絵の塾」があるのは知りませんでした。みよこさんと私はもっぱら聞き役。

これから会うのは皆の誕生月にしてはどうかと私が提案、3月、6月、9月、10月なので9,10は交互の月に合同と言う事で、年3回と決まりました。夫々家の事情が違うので「昼食とお茶」で旧交を温めようという事になりました。

結婚して、子供達がだんだん増えて、小さい時は年に2回各家庭を回り持で集まっていました。子供達が成人してからは又4人になりましたが、50年近い付き合いと言う事になります。後何回4人揃って集まれるかしらと考える年になりました。お互いの生き様を知っているので何の気取りもいりません。私が忙しすぎた為に暫くブランクが続きましたが、これからは又密な付き合いに戻したいと思っています。

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危機一髪・・・

2006年09月29日 | 今日この頃
             シュウメイ菊
          薄色で美しいピンクです
          今年は花付きがいいです
      真っ白もありますがまだ咲いておりません

「ば~ん」と言う耳を劈くものすごい音が目の前でしたんです。大型コンテナートラックが急停車。「アッ!パンクだ!」と思ったのです。

以前私が自転車で走っていて「パ~ン」と音が聞こえたんです。その頃,組関係の抗争事件が多発でピストルの打ち合いがよくあったのです。私はピストルの炸裂音だと思い、流れ弾に当たっては堪らんと必死でスピードを出して逃げたんです。でもガックンガックン漕ぎ難いと言うか、幾らこいでも前進しないのに気がついたんです。漕げない筈です、後輪がパンクしていたんです。パンクは始めての経験ですから、ピストルの音と思って必死で逃げたんです。飛んだお笑いですが、その時は必死だったんです。

この経験から、大きなタイヤだから、それなりに大きな音がするだろうと、パンクだと思ったんです。

唱歌の学校に行く途中、交差点で信号待ちをしていた私の目の前で起こったんです。
その道路の先には国道2号線が走っていますが、その道路自体は車も少ない静かな道なんです。信号がもうじき変わると言う時トラックが走ってきて、凄いスピードだな~と思った途端「バ~ン」と大音響です。

信号が変わりトラックの方を見ると、その隣に小さな乗用車が居るのです、トラックのタイヤの背ほどしかない小型です。見ると右折するウインカーが点滅しています。トラックと自動車の間は数センチです。

「事故だ!」「パンクじゃなかった」と思ってみますと、動かないで居た乗用車が道路の左に移動して止まりました(動けるんだ、安心だ)次にトラックがその前に止まった様子です。これから話し合うんだろうと思いました。乗用車はアベックのようでした。トラックのほうは運転席が高いので若者か年配者かは見えませんでした。

その時、その場に居たのは私だけです。証言者にならなければならないのかな~とふっと思ったのですが、私は確かに凄い音は聞きましたが、目は信号機を見つめていましたから衝突を目撃していないのです。だから証言は出来ないのです。

気にはなりましたが、その場を立ち去りました。私が想像するには乗用車が右折する為ウインカーを示して止まっていました(丁度私の歩いてきた方向に曲がろうとしていた)其処に信号が変わるのでスピードを出したトラックが突進してきたのです。トラックが大きいので道幅一杯だったのでしょう、自家用車に接触したようです。危機一髪人身事故は免れました。

学校では誰にも話しませんでした。と言うより忘れていたと言う方が当たりです。

のりこ先生のお話:オペラは話し言葉を歌う。オペレッタは唄に時々台詞が混じる。オペレッタにダンスが付くのがミュージカル。オペラで日本で一番上演されるのは「蝶々夫人」。これは何時も満席になる、だから劇団が資金繰りが苦しい時は「蝶々夫人」を上演する。歌舞伎の「忠臣蔵」と同じですね。映画もそうでした「忠臣蔵」は何時でも観客を呼ぶ。

外国での「蝶々夫人」は日本を知らないので間違いが多いそうです。ピーカートンが靴を履いているのに雄蝶夫人は裸足だったり、部屋の「雪見障子」のガラスの部分からピーカートンがぬ~と入ってきたり考えられない間違いがあるそうです。

来月から東京の国立劇場、開場40周年記念公演で「元禄忠臣蔵」が3ヶ月通しで、10月中村吉右衛門11月坂田籐十郎12月松本幸四郎の大石内蔵助で上演されます。
見たいな~。忠臣蔵大好きなんです。
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「銀行に一言」川柳

2006年09月28日 | ネットニュースから
         9月30日~10月10日まで
          のじぎく兵庫国体があります
       真ん中に居るのはマスコットキャラクター
            「はばたん」で~す
     震災から見事立ち直った「不死鳥」を現しています

大垣共立銀行(岐阜県大垣市の地方銀行)110周年記念企画として「ご意見川柳コンテスト」を募集した。集まった句は全国から15170句応募(3割が岐阜、あと7割は全国から、海外からもあったそうだ)があり、31句が入選。そのうちから私好みを・・・

大賞11句より
       
     虎の子を預けて10年まだ子トラ

私の一番気に入った句。トラは何年ぐらいで大人になるのか知らないが、まさか10年は掛かるまい。だのに預けたお金は低金利の為、10年経っても預けた時と変わらない。今から20年ほど前は投資信託に10年預ければ倍になった時期もあった。その時分の年金生活はさぞ豊かに暮らせたろう。又老人が多い、年金資金が足りない等言われる事も無かったであろう。生まれるのが遅すぎた。いえいえ、早いとあの悲しい戦時中を大人で生きなければならなかった。やっぱり今で良いわ。

     老いて尚老後の為と貯金する

退職の日、今日が最高の持ち金ときめ、夫々使い道を決め、予算を組んだ。予定では年に数回は海外旅行、2ヶ月に一度は国内旅行と楽しみにしていたが、見る見る利息が低下し見事に予算は誤算となった。私が免許を取った時から土日や休暇を利用してドライブ旅行に北海道から九州まで突っ走った。何でも出来る時にしておくべきであるとつくづく思っている。今は病気になった時の事を考えると貯金して置かなければと思って楽しみを見送ってしまう。

     変わらない銀行名にある安堵

銀行の合併でその名が変わっていくが、大垣共立銀行は名前も変わらず、預金者はある安堵感をもっている。

佳作20句より
     
     旧姓が思い出せないマイバンク

私のメインバンクも名の変更があったが、旧姓が含まれた名ゆえはっきり分かっているが、サブバンクのほうは地方銀行だった為、やっと新しい名を覚えた頃には又合併で、さすがに最初加入した名前は覚えているが、途中の名は忘れている。

     遺言にとてもかけない預金高

「残す事は考えなくていいよ。楽しみに使えば良い」と息子は言うけれど、病気の費用はのけておかなければならない。大金を使う病気をしなかったとしても、その残金は遺言を残すほどの金額ではない。身につまされる句だ。

     やり直し小声で言ってよATM

人が後ろに並んでいるのに、一寸した操作ミスを機械は言葉は優しく大声で言う。
あせって又同じミスをする。あ~年は取りたくないと言う気持ち、同感同感。

選者のコメント:関心がもっとも高かったのは、長く続いている低金利時代にまつわる句が2600句(約17%)引きおろしや送金手数料、利子より高い1200句(約8%)・・・普及したATMに関するもの600句・・・銀行の合併に関するもの200句・・・監視カメラについて100句・・・「標語」の様なキャッチフレーズや銀行を一方的に見下ろし批判する作品は川柳として品性に欠ける・・・入賞作は一味違った表現を持っていて文芸性や風刺性を楽しむ事が出来るだろう。

銀行も預金者を増やす為に色々考えているようだが、そんなの簡単な事ですよ。一番良い方法は利息を上げる事ですよ。これっきゃない!




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トゥレット症候群

2006年09月27日 | 新聞から
           れいこさんから頂いた花
        貴女が病んでから一年が過ぎました
       今年も馥郁と香りながら花を開きました
       「綺麗に咲いたよ!」と知らせたいのに
         貴女は眠り続けているばかり・・・

近年「~症候群」と言う言葉をよく耳にする。似たような症状を一括りにするからだろうか。

NPO法人「日本トゥレット協会」が小児期に発症する神経精神疾患「トゥレット症候群」について理解を深めてもらおうと市民講演会「発達障害を考える」を神戸で開催との記事があった。

初めて聞く病名で調べてみると「チック症」の中でもっとも重症のもの。「チック症」たまに見るのは瞼のあたりの痙攣だろう。一定の間隔を置いて「異様な声」を出すのも「チック症」と言うとは知らなかった。

「奇声を発する」人は通っているジムで女の人で居る。忘れた頃なので、間隔が長いが、止めようがなく発している。初めの頃はもっと間隔が詰まっていたように思うが、間隔が伸びたという事は運動する事が何らかの意味を持っているのだろうか?

トゥレット症候群;チック症の中でもっとも重症のものであり、自分の意思とは無関係に、突然繰り返して起こる身体の運動(運動チック)とノドや鼻を鳴らしたり、声を出す(音声チック)を主症状とする家族性の神経の病気。

電車の中で時々見かけるが、そういえば若い人が多かったと思う。ジムの女の人が私のであった最高年齢(40代)だ。

かぶと山で会った男子は山に向かって叫んでいる様に大きな声だった。たった一人の彼を「きっとこの病気ゆえ、友も出来ず、一人山に登っているのかな~」と思った。

最近の医学的研究では、チックは大脳の基底核の病気であり、心の病気ではないとされている。即ち遺伝的要因によるものである。

トゥレット症候群の家族や親戚には軽度のチックや強迫性障害の人が多く見られる。その遺伝形式は優性遺伝で(理論的にはトゥレット症候群の人の子供の2人に1人はその因子を受ける事になる)です。因子を持っていても出ない人もある。少数ですが遺伝に寄らない(原因不明)孤立発生のものもある。
 ※ 脅迫性障害:冷静に考えると不合理で現実離れしている不安や不快な考え方が繰り返し繰り返し頭に浮かんでくる(脅迫観念)ので、そうして考えを取り除く為に繰り返し繰り返し同じ行為(脅迫行為)をする事を特徴とする神経の病気。例えば汚れが気になって繰り返し手を洗う等。

チック症の原因は解明されつつあり、早期に正確な診断を受け、適切な治療や環境を整える事がもっとも大切な事であるが、日本では病気自体がほとんど知られておらず、正確な診断や適切な治療を受ける機会が少ないそうだ。

普通18歳以前、しばしば6-8歳に出現し、強くなったり、弱くなったりして1年以上続きます。この病気は女の子に比べて男の子に3-4倍多く見られる。そういえば私が出会った人たちも、ジムの人を除いては男だった。

米国では1970年代から、また、最近ではヨーロッパやオーストラリアでもチックのもっとも強い病型である「トゥレット症候群」の患者の会があり、この病気が精神的な病気でない事、また、すぐれている面もある事を啓発すると共に、研究の支援や患者および家族に住みやすい環境作りをしている。

私達の年代になれば滅多に無い病気に掛かることは少ないが、生活習慣病になる機会は多い「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」言葉通り、身体に気を付けて
心豊かに過ごしたいものだ。

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二人の子持ち

2006年09月26日 | 思い出話
             木立性ベコニア
         ミセス橋本(ピンクレディー)
         真っ白なミセス橋本もいいが
         このピンク色も名の通り可愛い

45年前の今日、次男が生まれた。年子であるが兄が早行きの為学年は一年開く。この子は3800gの大きい子だった。それもそのはず予定日ジャストに産まれた律義な子なのだ。

「今日が予定日なのに・・・」と検診を受けに行った。「直ぐに入院しなさい」と言われ夕方生まれた。大きい子だったからだろう、その夜出血がひどく着換えても着換えても寝巻きを汚した。

退院後も成熟して生まれた子に多いとかで体中に水ぶくれが出来、毎日少しずつ潰してもらいに通院した。年子だったから、私のお乳の出が悪く2カ月ほどでミルクに切り替えた。母乳と違ってミルクの子の便はコロリと出るのでオムツ洗いは楽だった。

お給料日にはまずこの子の1カ月分のミルクを買いに神戸のダイエイに出掛けた。買って来た缶の山を見ると安心できた。今思えばよくアレだけのミルク缶を持てたな~と思う。若かったんだな~。

兄と同様幼稚園は3年保育に入れた。入園式の日仲良しのとしくんが隣で泣くので初めは何か話しかけていたが、としくんが泣き止まないので、とうとう二人で泣きだしてしまった。としくんは4カ月ほど後に生まれている。この年頃のこの差は大きい。

こどもの日としくんの家に遊びに行った彼が帰ってきて「としくんのお人形は顔も手も(甲冑武者人形)あるのに、僕のは何で兜だけなん」と聞いた。私はなんと答えたのか覚えていない。小さい時から周りをよく観察する子供だった。

本は色々読むのではなく一冊の本をぼろぼろになるまで読むタイプだった。

いたづら坊主で幼稚園の先生は「XXちゃんが始めた事で叱ろうとしても本人は直ぐ止めて、その真似をしている子を叱る事になる。先日子供達に『好きな子、嫌いな子』と聞いたんです。XXちゃんはどちらかに名前が必ず出てきた。これは皆の心の中に必ず居るって事なんです。こんな事も珍しい」と言われた。

年長さんの時の運動会で「大太鼓」のお役の時があった。一生懸命の顔をして、センセイのタクトを見つめていた。音が大きいだけに間違わないかとひやひやして、私も先生のタクトを彼と同じように見つめていた。

高校受験は母ちゃん先生と頑張った。父親との約束どおり滑り止めなしで希望校にパスした。滑り止めなしは本人も随分心細い思いをしたと思うが、約束を守らせた事は正解だったと思っている。それも担任の先生が良い先生で、よく連絡を取ってくださったお陰と感謝している。

人並みに浪人もし大学に入り、卒業したその年の暮れに所帯を持った。一年後に子供が生まれたので、年の割りに子供が大きい。もう高校生だ。

初孫が生まれた時、私は京都の病院に会いに出かけた。そっと人差し指を手に近づけると、生まれて数時間の子とは思えない力で私の指を握った。

     何思い 何を感じて 我を見る
           命の流れ 受け継ぎし君

     初孫を 抱きて見れば こんにちわ
           僕ショウマですと 瞳ぬれぬれ

8年の間が開いて今度は女の子が生まれた。私はほっとした。これで息子の老年は寂しくないだろうと、女の子なら常に実家とは連絡を取るだろうからと思った。自分の居なくなった後の事など心配しなくてもいいのに、親は何時までもわが子の事が心配なのである。

この女の子も4年生になって「パパは子供の時どんな子だったん」とよく聞くようになった。私も思い出しながら話してあげる。この子も後4,5年もすれば友達の方が良くなって会うことも少なくなるのだろうな~と思いながら・・・。

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UDON

2006年09月25日 | 映画の話
             神戸花鳥園
          コリウスも色々あって
       小葉で模様が密なのが珍しかった

昨日お墓参りに行った。バス停に行くと、若い夫婦がさっと立ち上がって「どうぞ」と椅子を譲ってくれた。日の当たる場所で本当は座りたくなかったのだが、気持ちが嬉しかったし、もし私が好意に甘えなければ「お年寄りに席を譲っても喜んでくれない」と彼達の親切心を摘み取ってはいけないと、背中に強い日差しを受けながら座らせていただいた。

今日は「UDUN]を見てきた。「うどん」が映画になるの?どれどれ見てみましょう・・・。うどん大好きだった私、でも最近は蕎麦党に、蕎麦って血圧下げるって言うでしょう。笑って、ちょっぴり悲しくて、それが交互にまじって「今泣いたカラスがもう笑ろた」状態。

主人公は「此処(讃岐)には夢が無い。うどんしかない」と自分の笑いの力を試そうと、ニューヨークに行ったが、世の中そんなに甘いものではない。挫折して故郷に帰ってきた息子に父が言う「皆を笑わすのは簡単やろ、美味しいもん食べたら皆笑う」本当にそうだね。美味しいものを食べると、自然に笑顔になり会話も弾む。これで太らなければ言う事なしなんだけど。

主人公が帰ってきた事を口コミで知った友が「田舎の口コミバカにしたらあかんでぇ~、インターネットより早いでぇ~」と言う台詞が面白かった。娯楽の少ない地方では「他人の噂」は結構な娯楽だったろう、今のように携帯が普及すれば尚更噂話は駆け巡るだろう。ネットは自分からアクセスしないと見れないけど、口コミはあちらからやって来る。

全国で一番小さな県、香川で100万人の人口に対して900件のうどんやさんがあるそうだ。東京都1200万人にマクドが500件、比べてもいかに香川にうどん屋が多いことが分かる。

所々に有名人の顔がチラリチラリ、ボランティアかな?・・・なんていらぬ事を考えながら。

設定が讃岐富士の見える場所(讃岐富士と言う説明は一切無いが、私が撮った山と形が同じで丸亀城を過ぎた辺りで見た方向とも一致そうだと確信している)始終お山が写っているので否が応でも遍路を思い出した。

BGMに「カルメン」の組曲「何で?カルメン?」と思うが、確か「闘牛士の唄」だと思うが、これが又何となく合うんです。何度となく聞こえ、消えていく自然なんです。

唯「キャプテンうどん」と言う意味が私には分からない。所々に子供の好きなアニメ風の場面があったり、ウルトラマン風のキャラクターが出てきたりと理解できない場面もあったが、それを除けば嬉悲しい映画でした。

戦前うどん屋さんに風邪薬ありましたよね。「うどん」とその薬を飲むと風邪が治るって、母に連れられていった覚えがあります。「うどん屋の風邪薬」今はもうないのでしょうか。

映画の中にもお遍路さんの後ろ姿が出ていましたが、私も遍路中、讃岐うどんを食べるのを楽しみにしていたが、「うどん」は伊予の松山で2度、讃岐ではとうとうおいしい「うどん」に巡り合えませんでした。

信号待ちしていた子供ずれの若いパパに「美味しいうどん屋さんを知りませんか」と訊ねました。「在るんですが今日は日曜なのでお休みなんです。栗林公園の前にうどん屋はありますが、観光客用ですからね・・・」仕方が無い其処に行こうと店の前に来たが、どうも入る気がしないお店。ふとその2,3軒先に小さなうどん屋さんを見つけた。出窓には、店の紹介の記事の載った雑誌が開けて飾ってあった。
まぁまぁのお味でした。お腹ぺこぺこでしたし。

晩御飯?勿論「うどん」でしたよ・・・。
                        (170回)

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「日の丸」と「君が代」

2006年09月24日 | 新聞から
             神戸花鳥園
           葉が美しい鑑賞用
         花は見落としそうに小さい

この件について私は「洗脳だ」と書いた。判決のあった翌日この記事を読んだ(産経抄)50年間読んでいた朝日新聞を(「靖国問題」他意見の一致を見ない為)止めて今月から産経に変えた。果たして朝日新聞ではこの件に関して諸手を挙げて賛同の記事だったらしい。

この記事を読んだ時わが意を獲たりと、心の底から賛同し喜んだ。

産経抄:もう十数年も前の話だが、大阪市の鶴見緑地で開かれた国際花と緑の博覧会の開会式での事。君が代斉唱でほとんどの出席者が起立する中、座ったままの一角があった。記者席である。事件が起きてその場から一刻も早く記事を送らねばならない状況ではなかったのに、起立した日本人の記者は小欄(この記事の人)を含めて3人。外国人記者が座ったままの記者たちをものめずらしげに眺めていたのを今もおもいだす。国歌斉唱を座って無視するのが、インテリ風でカッコイイと勘違いしているヒトは今でも居る。「日の丸・君が代は侵略戦争のシンボルで戦前を思い出させる」と言う屁理屈を学校で吹き込まれた悪影響は大きい。平成11年に国旗国歌法が成立し、入学式や卒業式に日の丸を掲揚、起立して君が代を斉唱する学校は目に見えて増えた。だが、それを気に入らない教師たちが「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務は無い」と訴え出て、昨日(2006.9.21)一審で勝訴した。驚いたのは難波孝一裁判長が日の丸、君が代を「皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱だった」と断じ、「現在も宗教的、政治的にその価値が中立的なものと認められるまでには至っていない」とのたまったことだ。常識の無い裁判官に掛かれば白も黒になる。高裁ではまともな裁判官に担当してもらいたい。それにしても自分の国の国旗や国歌が嫌いで訴訟までするセンセイが都内に400人以上居るという驚きだ。教育委員会は懲戒処分した教師や勤め先の学校名をどんどん公開してほしい。主義主張のはっきりしている彼ら彼女らも望むところではないだろうか。教師にも「思想良心の自由」あるだろうが、生徒にはまともな教育を受ける権利がある。

テレビで喜ぶ教師の映像も見た。働き盛りの年齢と思うが、何を根拠に「日の丸・君が代」をかくまで嫌うのか。普通のヒトなら見逃せても、教師と言う職業の人であるだけに容認しずらい。子供達は白紙の心である。その心を「自分の洗脳された心」で塗り分けて欲しくない。子供はセンセイの言葉で育てられるのだ。

あの映像の喜びの先生達は教師として優秀な人たちなのだろうか。ヒトに影響を与える職業である事を自覚しての行動なのか。私は首をかしげる。自分の今の行動が自分達が受けた「洗脳」をまさに子供達に繰り返して居る事を考えた事があるのか。「国」とはなんだろう。抽象的でしかないこの言葉を目に見、耳で聞く対象としてあるもの、と考えて「日本国」といえば「日の丸・君が代」を思い浮かべる。唯それだけである。「戦争の影」など私の心は感じない。

子供達に自分の考えを押し付けないでほしい。「国旗・国歌」を忌み嫌い、起立を拒否しているセンセイを見て育つ子供はそれが正しいと思うだろう。「自国を愛する心の表現」と思う事は出来ないのだろうか。

石原東京都知事は控訴するという。国旗・国歌法を遂行すると言う。今「洗脳先生」の波紋が全国に広まっていくのではないかと恐れる。法に反して自分の意思を通す事よりも、預かっている子供達の勉強を見てやって欲しい。それが自分の生活の糧である事を思い出して欲しい。昔の唄に在ったではないか「・・・生徒、センセイの飯の種」って。
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横田早紀江さんの本(3)

2006年09月23日 | 読みました
           (見~つけた)
      我家にも在るが今年は咲かなかった
    コンクリートとブロックの隙間に咲いていた

★平成9年2月14日(1月に北朝鮮に拉致判明)以降、主人と私は様々なところへ陳情に出かけました・・・アムネスティ、法務省人権擁護局、日弁連、人権擁護委員会、自民党の訪朝団団長の中山正暉議員、小渕恵三外務大臣(当時)、武見敬三外務政務次官、小沢一郎自由党党首、総理大臣となられた小渕さん、高村雅彦外務大臣ほか数え切れません。・・・人権擁護局に行ったのは平成10年10月6日のことです。私達の話を聞いてくださった方は「拉致は究極の人権侵害です」といいながらも、人権擁護局の仕事というのは、マンションの騒音公害の調停や、マスコミによる人権問題を扱うことが主であるといわれました。「日本人が被害者で海外に居るような前例はない」「人権問題と言うより刑事事件である」「救出すれば、人権侵害は解決できるが、救出の交渉をするのは外務省」「外務省も公務員として人権を守るのは当然で、法務省から勧告は出来ない」・・・人権擁護局の名に相応しくない内容でした。・・・私は、相手方の杓子定規な話しぶりを聞いているうちに、怒りがこみ上げてきて・・・「規則だから、何々課が扱うとか何々局が扱うとか、そうゆう事ではなくて、こんな大事な問題は皆さんが一つになって、本気で考えなくてはいけないことではないのですか」相手の方は渋い顔をして聞いておられましたし、私も後になって、少し言い過ぎたかなと思ったのですが、名称どおり国民の人権を擁護する国の機関であれば、きっと何か良い方法を考えてくださると期待していただけに、失望も大きかったのです。

日本のお役所が縦割り社会であるといわれる所以です。

★事件の早期解明を政府に求める署名運動を始められたのは新潟の小島さんでした。・・・2カ月間で(横田家に)25万5千人もの署名を頂きました。・・・新潟の小島さんのところにも同じく25万名ぐらいの署名が集まっていました。・・・お願いしてから半年も経たない短期間のうちに合計57万名もの署名が集まりました・・・首相官邸にお届けしました。その後も多くの署名をいただき累計で100万人を越え小渕外務大臣(当時)にお渡しした。

最終的には150万人とも言われています。私達夫婦もその中の2人です。

★平成10年7月「北朝鮮に拉致された日本人を救う為の全国協議会」が、安明進さんを日本に呼ばれました。新潟空港での安明進さんは記者会見で、こんなことを仰っていました。「実は率直に申し上げまして、私は3年前までは、北朝鮮に拉致された日本人の事について、祖国の統一(韓国との統一)の為には当然であるというような考え方を持っていました。ですから、北に居た時も拉致された人に対して、本当に同情心を持って対することが出来なかったことを、まずお詫び申し上げたいと思います。私がそのように考えた理由は、北朝鮮当局から、わが国の分断された原因の大きな部分は日本のためである、と言う事を何回も何回も教育されましたので、統一の為に日本人が犠牲になることは当然だというふうに思っていたことであります。

朝鮮の分断に日本が何をしたと言うのでしょう。洗脳の恐ろしさです。平成11年5月2日に日比谷公会堂で「北朝鮮に拉致された日本人を救出する会」がありました。各界の130人の方々が呼びかけ人となった。その代表は桜井よし子さんがなった。

★よし子さんの「呼びかけ」の抜粋:政府は北朝鮮に拉致された日本人は、めぐみさんを含め7件10人居るとの点を明確にしました。ここまで明確に事態を把握しているのであれば、政府は、拉致された人々の救出を、国政の最優先課題とすべきでした。理由は言うまでもなく、政府の第一義の責任は国民の生命と財産と人権を守ることに在るからです。・・・国民を守りぬいた上で、国は初めて国際社会のためにも役立つ活動をすべきなのです。

阿部総裁は「拉致問題」の専門の部門を作るという。実行力のある人を選んで、一日も早い解決の日を待っています。
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横田早紀江さんの本(2)

2006年09月22日 | 読みました
              ネリネ
       彼岸花と同じ、花が終わってから葉が出る
         何も見え無かった所に芽を出すと
       ニョキニョキと伸び蕾をつけ、花を開く

めぐみさんが行方不明になってから、早紀江さんは洗礼を受けられたそうだ。小渕恵三首相が「拉致問題」に理解を示しておられたらしい。もしご存命なら「拉致問題」も違っていたかも知れない。

★拉致事件が発覚してから長男はインターネットを使って「これほど恐ろしいことが起きていたのに、20年間にわたって日本政府は何をやっていたのだろう」と言う意味のメールを、橋本龍太郎首相(当時)や小渕恵三首相、高村雅彦外務大臣、そしてクリントン大統領に宛てて送っているようです。・・・中略・・・外務省アジア局長加藤良三さん(当時)からお電話を頂きました・・・メールを読んでおられるのだなと思いました。

弟さんとして居ても立っても居られない気持ちだったのでしょう。メールと言うのが今風だと思いました。

高校生で両親が共働きの子(家に誰も居ないので電話が使えたのでしょう、逆探知の為に早紀江さんは後で気がつけば1時間近くも話していたそうです。そんなところがやはりまだ子供ですね)が誘拐犯を装って脅迫電話をかけてきたこともあったそうです。

★朝日新聞の長谷川さんが、めぐみの事件を特集した『アエラ』の見本を持って、再び我家を訪ねてこられました。長谷川さんは、めぐみや私達夫婦の名前を実名で出したいと、仰いました。・・・私は気が変になるくらい考えました・・・実名を出すことで、どんな影響があるか分かりません。証拠をなくしてしまうために、めぐみがバーンとやられてしまうかもしれない・・・遠くに離れている息子達に電話をかけ、主人と私の考えが違うことを話し相談しました。息子達は「お父さんのかんがえが正しいと思う。しかし父親としての立場で物を言っていない。多少解決が遅くなっても、危険が高まることは避けるべきだ」との意見で、私同様、実名は出さない方がいいというものでした。主人は家族の中で一人、実名を出した方がいいという考えでした。・・・「危険なことはあるかも知れないけれども、それならいっそ本名を公開して世論に訴えるほうがいい。実名を出して「日本はこれだけ情報を持っている。手出しをすると大変な事になる」とのメッセージを北朝鮮に出すことで、むしろ安全が図られるとの意見です。すでに現代コリア研究所のホームページには「横田めぐみ」と名前も出ている。主人は、そう考えて、本名を出すことを了解すると決めました。私は一睡もせずに考えあぐねましたが、主人の判断を信じて、それに随いました。

ヘギョンチャンの呼びかけに北朝鮮を訪問したいと言ったのも滋さん一人で、早紀江さんと息子達は「まず、めぐみを・・・」と言う事で意見が分かれたようですね。このときは滋さんが折れたようです。

★安明進(元北朝鮮工作員)の書かれた『北朝鮮拉致工作員』には、こんな酷い話が書かれてありました。・・・めぐみを拉致した教官によると、めぐみは船の中で激しく泣き叫んだので、真っ暗の船倉のなかに40時間以上閉じ込められた。船倉ではめぐみはずっと「お母さんお母さん」とさけんでおり、出入り口や壁などをあちこち引っかいたので、着いてみたらめぐみの手は爪が剥がれそうになって血だらけだった・・・私はこの箇所を読んだ時、はきそうになりました。しかし、そのとき私は涙を流しませんでした。そのとき私が感じたのは、心の奥底からこみ上げてくる深い深い怒りだったのです。

このことは早紀江さんがテレビで語っておられるのを見た時、私は泣きそうになりました。それは同情する立場の私だったのだとこれを読んで悟りました。親の早紀江さんにとっては泣くなんて簡単なものではなかったのです、心底からの怒りだったのです。    明日に続きます。
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横田早紀江さんの本

2006年09月21日 | 読みました
            オシロイバナ
      全部抜き取られて全滅!と諦めていた
           思わぬ所に一本
        季節を過ぎて、ひっそりと咲く

入学式、卒業式に「国旗掲揚」「国歌斉唱」を、嫌がる先生に起立したり歌う事を強制し、随わない先生を罰してはならない。と言う判決が東京で出たようですね。孫娘の入学式の時も起立しているのは校長先生だけだったように思います。

「日の丸」や「君が代」が過っての戦争の象徴のごとく言われ、軍国主義に舞い戻るようだと言う嫌悪感を先生方は持っておられるようだ。先生方は戦争を知らない子供ではないのかしら、どうしてそう感じるのかしら。これは洗脳だわ。誰がそう教えたのかしら?

私は「日の丸」や「君が代」に違和感はありません。何処の国でも国旗・国歌はあるわけで、それを教える場は学校しかないんじゃないですか?敬意を表して起立するのは当然だと思うのですが。余りにも無視されているので、オリンピックで国旗が掲揚され国歌を歌っている荒川静香さんの口元を見て、「歌ってる!」と感動したものでした。

        ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる
         横田早紀江  草思社

写真展でも警察の方が海に船を浮かべて捜索している所とか警察犬が活動している写真がありました。滋さんの望みは女の子だった。待望の女の子で趣味が写真の滋さんが撮った沢山の写真がありました。でもそれだけ見たのでは解らなかったご夫妻の心が一杯埋まった本でした。この本が出版されてから早、7年以上の年月がむなしく消えて行ったのです。私の心に届いた文章を抜書きしてみます。

★主人は口下手ですし、男の子は余り話をしませんから、にぎやかなめぐみが居なくなった食卓は、火が消えたようにひっそりとなりました。その落差は、何と言って表現していいのか分からないほど、私には耐え難いものでした。

母親にとって女の子は特別のものです。私は男の子しか持っていませんが、母と私の事を考えれば容易に理解来ます。それも突然の別離です。

★僅か13年の記憶しか残さず、めぐみは行方不明となってしまいました。しかし、その心の記憶は時の経過の中で凝縮され、一つ一つが鮮やかに思い出されます。

「わずか13年の記憶」と言う言葉が、私の胸を締め付けた。何方の結婚式にも出られなかったと言います。花嫁さんの顔がめぐみちゃんとオーバーラップしてくるようでと・・・

★私はめぐみの小さい時から本の読み聞かせをしていました。初めは「桃太郎」などの昔話でした。恵は私の話を何回も聞いて、今度は自分がソックリそのまましゃべりました。字もまだ読めないのに、前後を入れ替えたりせずに、丸暗記しているような感じでしゃべるので驚きました。

私はおじいちゃんにお話をしてもらうのが好きでした。おじいちゃんは講釈師の話をそのままするのですから大人の話です。意味は分からなくても聞くことが快いのです。そして何度も同じ事を聞いているうちに覚えてしまうのです。

参観日に先生が「誰か前に出てお話のできる人?」私がさっと手を上げたそうです。母は何の話をするのかと驚いていると、「安珍清姫」の物語をおじいちゃんソックリの話し方で話したそうです。「清姫は安珍に惚れてな~」と言う調子です。母は恥ずかしくて顔を伏せていたと言っていました。子供ってそんなもんなんです。聞くほうの子供も意味が分からなくても話を聞くのは大好きなんです。
         
又明日・・・

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