ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

サラリーマン川柳(2)

2008年05月31日 | ネットニュースから




              額アジサイ  隅田の花火
            ぱ~っと花火が上がったようでしょう
             始は真っ白ですが 青に変化します
               白のままでいて欲しい

久し振りにすずき先生のクラスに入った。随分顔ぶれが違っていた。すずき先生のクラスはこの土曜日と木曜日だったのが、4月から木曜日が火曜日に移動した為、私は「始めてのラテン」に入ったので受けられなくなってしまった。すずき先生も私が入会した当時は20代最後の頃だったのに今は40代最後、間もなく50代に突入だ。でも子供さんが居ないこともあって、とても若々しい。人気クラスで何時も人が一杯です。

庭にいると蚊に悩ませられる時期に入ってきました。花柄摘みをしていると寄ってくるようになりました。嫌だわ~。


サラリーマン川柳(全国人気投票の結果)
先日は入選作の中から私好みを選びました。今日は11位~50位の間から私の 心に引っかかったものを選びました。

     無料でも 家族間での 通話無し

何処の会社ですか、家族間なら制限無く?(人数も時間も関係なし?)無料と言う制度があり人気を集めているようです。そこでもお父さんは除け者なのかな~。可哀想にね。

     何故怒る 早く帰って 来ただけで

なんだか涙がこぼれそう。虐げられたご亭主。何の為に、誰の為に働いているの?「亭主元気で留守が良い」とは言いますが、この奥さんは一寸いけずやな~。

     エコパック 集まりすぎて むだパック

マイバックを持って買い物に行きましょう、の掛け声で景品や、粗品としていただく事が多くなり、わが家でも使い切れずに数が増えていきます。本当にこれも又資源の無駄使いと言えますよね。

     お出掛けで 何時もパパだけ 同じ服

又、お父さんの悲しい姿。読んでいて思うのですが、本当にこんなにお父さんは虐げられていますか?ジョークだと思いたい。息子を産んで失敗だったと思う瞬間!

     妻の後 三歩下がって カート押す

そんなご夫婦もおられるのでしょうか。私がスーパーで良く見るご夫婦はカートは奥さんが押している場合が多いですよ。そして口でアレとってこれとってと命令?しておられます。買い物に一緒に来られるという事はお料理の好きな男性が増えたという事でしょうか。思えば不思議でも何でもありませんね。一流の料理人は皆男性ですものね。

     社長業 今や問われる 謝罪力

いや~そうですね。良く見ましたね。ずら~っと並んで頭を下げているのを。見飽きてしまいましたね「又なの、今度は何したん・・・」って。

     お給料 毎年上がるは 控除額

年金だって同じですね。貰い始めた頃はほんの少しでもあがっていきました。無いよりましか何て思っていましたが、この頃はごっそっと天引きです。あ~ぁ、雀の涙ほどでも上がったあの頃が懐かしい。

     これがエコ 孫と添い寝で ポッカポカ

最後に暖かい句を一つ。孫と添い寝の幸せ。何時までもは続かないのですが、一時の幸せ。私が孫の時は如何だったか?思い出そうとしてみたのです。でもおじいちゃんとは別々の布団だったような気がします。私が眠りにつくまでお話をしてくれたおじいちゃんは畳みの上に寝転んでいたように思います。何故だったのでしょうね?






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良い出会い

2008年05月30日 | 今日この頃




            一番乗りの百合 「ロリポップ」
       何時もは一番乗りは「鉄砲百合」なのに まだ蕾です
         これから「アジサイ」と「百合」の競演です

昨日と打って変わった良いお天気です。もし昨日と今日が入れ替わっていたら、私はもっと疲れているでしょう。昨日は半分照りつけで良かったと思います。

今日はその良い天気に、一日中ソファーに寝転んで、本を開いてはウトウトを繰り返していました。体の中のコビトさんが、私の体の疲れを取ろうと、一生懸命働いてくれています。その間、私はじ~っと眠っています。若い頃は昼ね何てしたことが無かったのですが、今は常連さんです。今日も一日中っこくりりこっくりをやっていました。


昨日出会ったきつださんと、どんな切っ掛けで・・・と思い出していた。「参加者80人で、40人集まればこんなお天気ですし、先に出発するA班とします」と言うわけで41人集まった時点で歩き始めた。

間もなく信号待ちの時、丁度和菓子屋さんの前だった。ショーウインドウには美味しそうなお菓子「うわ~美味しそう」と思わず1人ごちた私に「本当に美味しそうですね」と反応してくださったのが、きつださんだった。「この抹茶茶碗やコーヒーカップ、食べられるんじゃないですか?いつかテレビで見た記憶があるのです・・・。どうも其れっぽいでしょう?」と私「えっ!、そうですか」ときつださん。私の話が聞こえた如く、スタッフの人が説明を始めた「・・・食べられる食器です」

それから、一緒に歩いたわけではないのですが、時々一緒になり、一言二言はなすようになった。そして、昼食は二人並んでいただいた。此処でも思った、心を近づけるのは食べる事ではないかしらと。

集合時間の待ち合わせの時、私は思いきって訊ねてみた。その時はお互い名前も知らない「貴女は私よりお若いんでしょう?」「いいえ、昭和10年なんですよ」私は驚いた。なんと同い年・・・、其れを聞いただけで距離はぐ~っと近づいたのに、「9月生まれなんです」「えっつ!私も9月生まれなんですよ」これでまさに急接近、二人は握手を交わす。

其れからも着かず離れずだったが、お麩やさんに行く頃から並んで歩くようになった。「今日は天気が悪そうなんで、お水置いてきたんですよ、喉が乾いて・・・、今度のお店にはサテン付いていないかしら?」「私はリュックに持っているんですけど、飲みませんでした」「何時もはコーヒを飲みたいとは思わないのですが、今は飲みたいと言う気持ちです。前の《町家めぐり》の時は最後にお薄と和菓子が付いていたんですよ」と私。その店にはなかったので京阪五条に急いだ。

きつださんは1月にご主人を亡くされ、今は娘さんの近くのマンションに引っ越されて、毎日一緒にご飯を食べたりしているそうだ。京阪の沿線にもう1人の娘さんが居て、帰りに寄ってと言うのでこれから行きますという。

「私も何か良い話があったら誘いますから、ご主人とご一緒でない時は誘ってください。今日こうした出会いは、主人の引き合わせかもしれない」といって、私達の出会いを喜んでくださった。私も早くも、大阪の方なので、いつか「神戸花鳥園」にお誘いしようかな~なんて考えていた。新たな友人の輪が芽生えた一日でした。
                           (730回)
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歴史探訪ウォーク「太閤さんと国宝の美」

2008年05月29日 | 一寸そこまで
             知積院(ちしゃくいん)の桔梗
            今年初めて咲いているのを見ました
       家紋が「桔梗」なので沢山桔梗が植えられていました
                まだ咲き始です

歴史に疎い私なので、誰かに絞って学ぶのも良いかもしれないと思って、参加してみた。

昨晩からの雨が今朝になっても止まない。「こんな日に行かんでも」と主人は言うが料金を納めてあるし勿体無い。雨で身体が解けることは無かろうと、雨の中家を出た。集合場所の京阪七条に着いたときには雨は上がり始めた。だんだんと回復し、太陽が顔を出した。温度が低いと言うので、少し厚めの上着が暑い、帽子を持ってこなかったので、兼用傘を差していたが、団体なので人に当りそう。雨で喉も乾かないだろうと、家に置いてきたお茶が恋しい。

秀吉が祭られている「豊国神社」へ。伏見城の遺構だといわれる国宝の唐門を見る。その一寸手前に「耳塚」(その昔は鼻塚と言ったらしい)秀吉が朝鮮に出兵した時に普通は打ち首を持ち帰るが、あまりに遠い為、耳を削いで持ち帰ったという、その耳の捨て場所?だ。

お隣の「方広寺」へ、大阪冬の陣のきっかけになった梵鐘を見る。鐘は囲まれていて、中に入って見るには100円払わなければならない。

次が「三十三間堂」、此処は秀吉と関係なさそう、「そこにお堂があるから、国宝の仏像があるから」入ったのだろう。

次が「知積院」此処は秀吉の愛児鶴松の菩提を弔う為建てたお寺。名称庭園と障壁図(桜楓図。国宝)を見る。此処はお寺のお坊さんが説明に付くのですが、このお坊さんのユーモラスな説明が面白かった。

見学の前に此処で「精進料理」?(豆ふ、こんにゃく、おから等)。まあまあのお味でした。

次が妙法院・庫裏(国宝)。外から除き見るだけ。大仏殿の法要の時のお坊さん1000人の賄いを一手に引き受けたと言うだけあって大きな庫裏だ。

「積翠園」へ。これがなんと、病院の庭になっている。何故こうなったのかは知らないが、此処を見学させるのは「う~ん」って感じ。だって、そこ此処に顔色の悪い患者さんや、点滴を引っ張ってる患者さんがいるんだもの。じ~っと私達を見ておられましたが、心の内はいかばかりか?と思いました。

最後が「半兵衛麩本店」で自由にお買い物で解散です。皆さん「お土産」でしょうか沢山買っておられました。私は「生麩饅頭」と酒のお摘みにと「生麩を味付け、揚げた」のを買いました。

今日お友達になった(名刺交換)きつださんと一緒に京阪五条から帰ってきました。電車の中で話が尽きませんでした。気が合ったというのでしょうか。昭和10年9月生まれの共通点が接近させました。

ツアーの良い所、色々と説明がある。今日は時間がないがと、通りすがりの場所も門前に留まって説明があった。

私に都合悪い所、団体なのでじっくり好きな角度から写真が撮れない。急いで撮ろうとすると団体の人が写ってしまう。個人で行けば、団体の人が帰ってからゆっくり撮る事が出来るが、其れができない。それでも撮ろうとするのでしばしば遅れがちになる。

スタッフは2名、前の人が説明し、後ろの人が人員を数えたり、落ちこぼれていないか調べたりする。私は「注意人物」で、私が追いつくと「揃いました」と後ろの人が、前の人に言う。顔を覚えられてしまっているみたい。ちょっぴり申し訳ないとは思うけれど、迷子にはならないから・・・。続けて参加かどうかは考えてからにします。

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インドカレーの日 (8回目)

2008年05月28日 | 今日この頃
             本日の卓上花です
        とっても涼しげでしょう 良いセンスですね
        大方 オーナーのお家の庭の花だそうです
 又テーブルクロスも涼しげ インドから買ってこられたんですって

今日は8回目、私は風邪で一度休んでいるのでー1回で7回目です。10人全員集合でした。撮った写真を見て思ったんですけれど、皆さん始の頃よりず~っとリラックスした表情でお料理しています。良い感じのグループになってきたと思いました。嬉しいことです。

お部屋のアチコチにちっちゃな花が微笑んでいます。お花の好きな私は堪りません。その上にインド土産の小物がさりげなく置かれています。良い感じですよ。私は毎回パチパチと写真に撮らせていただいています。

ショリー先生も私達グループに少しづつなれてこられたのでは無いでしょうか。先生の目にはどんなに写っているのでしょう。

今日は「茄子のカレー」です。茄子、玉葱、トマト、それにトッピングにコリアンダーリーフを少々です。後はいつもどおり、沢山の香辛料です。インドでは「茄子の季節」になるのを待ちかねて作るそうです。日本では茄子は年中ありますから、いつでも出来ますね。茄子は焼いて小さく切り包丁で叩きますから、出来上がりを見て茄子だとは解りません。

「海老のココナッツ マサラ」
海老が主役で玉葱がお供です。ココナッツパウダーが入りますから心持甘め、その他に勿論多数の香辛料。炒めて炒めて水分を飛ばして出来上がり。海老が大好きな私にはたまらない。「遠慮の塊」からも再度頂く。

「(ライタ)ヨーグルト サラダ」
今日のはサラダと言うよりスープみたいだった。プレーンヨーグルトの中にみじん切りの胡瓜、トマト、玉葱が沈んでいて、味付けは塩だけと言う簡単なもの。皆さんヨーグルト、大好きらしいが、私は苦手。でも始の頃のように、息を詰めて食べると言うことは無くなった。まだ美味しいとか、家で作って食べようとか言う気にはなれないが、「身体に良い食べ物だ」と言い聞かせながら、茄子カレーと交互に口に入れて食べきった。一段の進歩である。

「チャパティ」
何時もは「インド式フライパン」?「チャパティ様フライパン」?の上で焼くのだが、今日は違った。勿論始はフライパンで裏表をさっと焼きます。そのあと、フライパンを外して、直に火の上であぶります。出来上がったチャパティにはインドのバターをぬっておきます。

先生のご予定では、一人ひとりに生地を作ってもらう予定だったそうです。でも皆が望まなかった事もあり、希望者が生地作りから、私も作らなかったのだが、お盆に仏さんにお供えする上新粉の団子生地を作る方法と同じだと思った。生地のばしと、直火焼きはしました。どちらも先生の方法を見ていますと、のばすのも、焙るのも大胆にする事だと感じました。それで無いと、のばすにしても弾力があるので、元に戻ってしまうのです。焙るにしてもすばやくサッツと角度を変えて焙ります。余り回数を掛けると硬くなってしまうのだそうです。

楽しいお食事時間です。昔から、親しくなる近道は「同じ釜の飯を食う」と言われています。月に一度とは言え「同じインドの家庭料理」を食べているのです、ますます良いお仲間になっていくことでしょう。

「吉兆」が閉店に追い込まれましたね。当然だと思いますが、これから、余り物は折り詰めで持ち帰ると言う風習が定着すれば良いな~と思います。今はまだ「包んで下さい」とは言い難いですから。





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握手してください

2008年05月27日 | 読みました




                雪ノ下
   お花がこんなに可愛くカラフルであることに去年気づきました
  何処にでもあるものとして 花が咲くことさえ知りませんでした
       知人に葉裏の赤い雪ノ下は 貴重品といわれ
        今は気に掛けて可愛がっている現金な私

「トライやるウイーク」とかで、ジムに中学生が見習いに来ています。将来やってみたい職業を実地に経験するんですね。此処のような所とかお店やさんなどは良いのですが、製品を作る工場なんかは、経験させなければいけないし、受け入れ先は大変でしょうね。女の子で秘書になりたいって子がいたら、如何するんでしょうね。受け入れ態勢O.K.の中から選ぶのでしょうか。

            ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

          握手してください     内藤洋子

この方の本を読むのは2冊目です。先日の花見の会でたまちゃんが貸してくれました。来月の初めにたまちゃんと会うことになっているので、その時に返したいと、図書館の本の間に入れて、読み始めた。とても読みやすく、アッと言う間に読んでしまった。

今年の3月9日のブログに書いていますが、「雲ひとつあり」の方が現在に近く、新しく、この本は本の帯の言葉「待望の続編」からすれば「わが故郷は平野金物店」の次に出たものらしい。前半は弟・平野謙さんの事、後半は夫の叔母の嫁ぎ先の養子になる経過について書かれていた。

平野謙さんは中日ドラゴンすから交換トレードで西鉄ライオンズ、次は日本ハムファイターズと変わっている。現在は日ハムの一軍打撃コーチを努めているそうだ。

色んなタイトルも持っている人らしいが、中日に入って3年間は泣かず飛ばずだった。「もう野球を止めようかと思う」と姉・内藤さんに弱音を吐いた時、姉は「父の遺言状の手紙」を見せて励ました。その時の監督が近藤貞夫監督で「彼(平野)を絶対残せ」の声で残り、翌年から、実力を発揮するようになった。星野監督に代わったとき、かれ(平野)の飄々とした所が、星野監督には「闘志が無い」とみなされ、交換トレードとなったそうだ。

同じ人間でも、人の見る目は違うものだな~と思った。気象の激しい人は、やはり闘志満々の人を好むのだろう。と言う事は近藤監督は闘志は内に秘めた人だったのだろう。現在も平野さんがコーチとしてユニフォームをいている所を見ると、野球人としての平野さんを見る目は近藤さんが正しかったと言えるかしら。

反面、交換トレードで出された事によって、野球への熱い思いがいや増したから、現在まで続いていると言えるかもしれない。

内藤さんには教育関係からの講演依頼が多く、一年100件、通算1000件は越えているそうだ。講演の内容は ①家族の絆の大切さ ②チャンスは誰にでも与えられる ③「夢を持つこと」が生きる力になる。と言うお話らしい。お喋りで、明るい性格ゆえ好まれるらしい。私も聞いてみたいような気がする。
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三浦雄一郎さんエベレストへ再び!

2008年05月26日 | 新聞から
              アマリリス
          あやこさんのヨーロッパ土産
          早、数十年前になるそうです

「はながら」摘みをしていても、そよ吹く風が心地よい日でした。

そして、お話も一陣の薫風が吹いたお話。そう「プロスキーヤー三浦雄一郎さんがエベレスト登頂成功」です。

登山家ではなくプロスキーヤーだという事がいやがうえにも凄い事。そして75歳だと言う、益々「すごい!」の一言。

何時だったか「徹子の部屋」でこの度の「75歳でエベレスト再挑戦」のお話を知った。その日の為に毎日、足に錘をつけ、リュックを背負っての練習は欠かさないといっておられた。この練習方法は父・敬三さん譲りだと思う。

敬三さんも「徹子の部屋」で語っておられたのを聞いた。奥様をなくされてからは、家族を頼らず、1人自炊生活で、発芽玄米を食べ、自分考案のスペシャルドリンクを飲み、カルシュームを摂り、「良く噛み、食べ過ぎない」事と話しておられた。

敬三さん100歳の時親子4代でアメリカ・ユタ州のスキー場の3000メーター地点から700メーターの高低差を滑走した事でも有名。敬三100歳、長男雄一郎71歳、孫・長男夫婦と次男、その子4歳と1歳を筆頭に日本からの友人知人120名、現地アメリカから50人が敬三さんの100歳を祝って滑った。そのときの曾孫・リオちゃん4歳の感想「とても楽しかった。ウルトラじっちゃん(敬三さん)スキー上手。リオもがんばる」DNAとは言え恐るべし、天晴れリオちゃん!

三浦さん、一度目の70歳の時の挑戦の時までは、立派なメタボ体型だったそうです。70歳でエベレスト初登頂、父・敬三さん99歳の時もモンブランの滑走についている。父・敬三さんに随いながら、私は足で登ってみようと考えられたのだろうか。

この度の「エベレスト登頂」までの行動記録のブログを私は読んでいた。チベット問題や、北京オリンピックの聖火の登頂などで、許可がおり難くなって、どうなる事かと心配もした。気象関係も計算の上での行程だから、ずれると言うことは足元の状況が違ってくるらしい。このことは「アルピニスト・野口健」さんのブログで心配されていた。

しかし、天は三浦さんに味方して、今日の登頂成功の日を迎えた。神様も三浦さんにご褒美を下さったそうだ。70歳の時の初登頂のときは、生憎視界がきかなかったそうですが、この度は視界良く、周りの山々が見渡せたそうだ。

付いて行った息子の・豪太さんの方が、前日になって、高山病(高地脳浮腫)に罹り、下山せざるを得なかった。6300メーターのキャンプ地まで下りると、高山病の症状は緩和され、雄一郎さんも「僕が頂上に到達するよりいい」とほっとされたという。親子の登頂は叶わなかったが、心を許しあった、会計から荷物管理まで、マネージメント役を司る五十嵐さん。カメラマン・記録係の村口さん、二人の裏方さんに支えられての成功である。因みに村口さんは日本人最多記録更新が掛かっていた。「俺は仕事。主役は三浦さん」と淡々としていると言う。

田部井淳子さん(女性で世界初のエベレスト登頂を果たした人)もこの度の業績を讃え、ご本人の努力と、本人の気持ちを支えようと言う家族のありようは、三浦家が日本の家族の形を示してくれたと喜んでいる。

本当にそうだと思う。昔なら、互いに支えあうべき家族と言う輪が崩れつつあるこの頃、親が子の子が親の命まで奪う悲しい事件の多いこの時代に、お互い守り導く姿は日本の本来の姿だと思う。
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田村はまだか

2008年05月25日 | 読みました




     アルペンブルー(星桔梗)
      花は2㎝ほどで 枝垂れて咲く

良く降りましたね。肌寒いくらいでしたので、テレビを見ながら、溜まっていたアイロンかけをしました。

ニュース番組はどの局も「四川大地震」と「高齢者医療保険」の話でした。桝添大臣の言っておられる事が、どうもピ~ンと来ないのです。民主党の長妻さんのお話の方が、調査の裏ずけがあるような気がするのです。大臣は「裸の王様」になってるんではないか? 少ない資料で上滑りで喋っておられるような気がするんです。

田原総一郎さんも「桝添さんは、何にも知らされてないんじゃないの?」的なことを言っていましたが「知っていますよ」と大臣。口が裂けても「知らない」とはいえませんよね。

保険料を年金からの「天引きは市町村からの要請」だと言うことでした。今でも「天引きを止めないで」と言って来ているって。保険料の徴収が大変らしいので無理ないのですが、なんだかな~、そう聞かされると、市に裏切られたような、いや~な気持ちになりました。

「今まで出来なかった介護も出来ますよ」一寸待った!保険と介護保険の話がごちゃ混ぜです。介護保険で広く皆で負担しています。その上に保険でも広く負担は、健康な人は大変です。

特に「整形外科」に関しては私達も考えなければなりません。こんなお話です。
知人が足が痛いといって整形に通っています。ご主人が「3ヶ月通っても直らないのに何時まで通うんや」「皆と話するのが楽しいから行ってるんや!」そんな人が多いことは雨後の竹の子のように増えている「整形外科」を見ても解ります。1人住まいも増えています。家に1人で居るので人恋しいのでしょうか? 言い換えれば「整形外科」は私達を「ご馳走」にしていません?

老人医療は無料の時期がありました。通っていた姑が言いました「一割取られるようになったら、お医者さん空いたわ」って。老人も負担割合を増やす方が良かったのではないですか?そうすれば「楽しいから行く」と言う人も回数を減らすと思いますよ。如何しても必要な時だけ行くようになると思います。



        ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       田村はまだか     朝倉かすみ

同窓会に来るはずの友・田村を3次会(ススキノの小さなスナック)で待っている5人の級友の呟き。待っている5人の今までの人生を「田村はまだか!」と言う言葉の間に描いている。田村が遅れたのは雪の為とススキノで交通事故にあったためである。田村は一命を取り留める、待っていたスナックの開店2周年記念の日、又、集合する。しかし田村はやはり遅れてくる、「田村はまだか」

作家は北海道生まれの女性。2003年「コマドリさんのこと」で第37回北海道新聞文学賞受賞。2004年「肝、焼ける」で第72回小説現代新人賞受賞。
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池田理代子さん

2008年05月24日 | テレビから
               ペラルゴニューム
          昨日の色とこの色と 二色が咲いています
         好きで 過っては8色ぐらいあったのですが
        残念ながら油断と愛情不足で枯らしてしまいました

早朝、水汲みに神戸まで車を走らせました。雨が来るというので、高速を使いました。普通自動車道を行くと、汲んで帰るまでに約2時間掛かりますが、行きだけ高速を使って1時間半で帰ってきました。雨に降られずに済みました。汲みに来る人が増えているのでしょうか、蛇口が3個から5個に増えていましたし、私達の前後も人が絶えることはありませんでした。


琴欧洲が優勝を決めましたね。昨日は負けて、又気の弱さが出たのかな~と心配しましたが、今日は積極的に出て、明日千秋楽を待たずして優勝をきめましたね。インタビュールームでも通路でも笑顔満開でしたね。この人ほど嬉しさを素直に表す人はありませんね。良い笑顔です。見ている私までニコニコしてしまいます。アナウンサーの「ブルガリアでもお祝いでしょうね」といわれた時パッと嬉しさが弾けた笑顔でした。やっぱり、自分の国のことは特別なんでしょうね。お父さんが客席から応援しておられましたね。小旗をもっておられましたが、ブルガリアの国旗なんでしょうね。花を添えるべく、明日も勝って気持ちよく、優勝カップを受け取って欲しいですね。

でもでも頑張るのは外国人力士ばかり、日本人力士は不甲斐ないな~。大関から一歩が踏み出せない。やっぱり淋しいよ。 若貴時代が懐かしいよ。彼らに続く力士はいないのかい?頑張ってよ!



「この人にトキメキっ!」今日は漫画家の池田理代子さんでした。
「ベルサイユのバラ」の作家である事は知っていますし、20年位前失踪事件の様な事でワイドショウーを賑わしたことも知っています。潜んでいたのが大阪だったのです。そして大阪に現れたのは彼女が大阪の人だったと知りました。今日のお話で、其れが更年期障害の「鬱病」の時期だった事も知りました。

「鬱」の特徴でやはり死ぬ事ばかりを考えたそうです。既に40年生きてきて、残りの人生、自分のやりたかったことをやろうと、なりたかった物を書き連ね、今ならまだ間に合うと思うものが音大に行って声楽を習う事だったそうです。決断し実行に移すまでに5年間を無駄にしたそうです、それから2年間の受験勉強を経て、見事合格、そのことはニュースで知っていました。

卒業してから美しい日本語で綴られた唱歌が、教科書から姿を消し、子供たちに歌われなくなるのが残念で、自分が歌っていけば、子供達が歌ってくれるかも知れないと、唱歌を歌っていると言うお話に、唱歌の学校に通う私としては同感同感と肯けるお話でした。

オペラには芝居の要素も必要と、新聞で目に付いた明治座の養成所でお勉強をされたそうです。ここでは芝居だけではなく、世代の違うお仲間も出来、良い出会いに恵まれたようです。

60歳には見えない若々しさに「若さの秘訣は?」との問いに「興味を持つ事かな?」と言う答え。次々と新しい事に挑戦し、確実に自分のものにしていかれる池田さんに敬服。

本業としては「太王四神記(たいおうしじんき)」を執筆中。「何故この作品なのか?」の問いに「ヨン様が主役だし、自分流に書いて良いといわれたので」と答えておられた。実は私もこのテレビを楽しみに見ている。いつか池田さんの漫画も読んでみたいと思った。

これから是非書きたいと思っておられるものは?」答は「平家物語」。
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日本と中国の谷間

2008年05月23日 | 気にかかる
               ペラルゴニューム
              名前は似ていますが 
       ゼラニュームのように四季咲きではありません
               春のみの花です

明日から雨だというので、今日はボチボチと、休み休み花の植え替えをしていました。今年はどの花も奇麗に沢山咲いているような気がします。

花の世界は今まさに「春爛漫」なのに、人間の世界は「悲しい春」と言えそうです。中国四川では地震がありました。ミャンマーではサイクロンが多くの犠牲を出しました。

両国ともお国の方針といいますか、他国の援助を受けようとはしませんでした。
なまじっか、助かる命を見殺しにしたのと同じです。両国とも国民のほうは向いていないのです。政府がそういう態度を取っても、国民としては如何する事も出来ないのです。困っている国民を救わない国って何だろう? 指導者ってなんだろう?
まざまざと見せ付けられた思いがします。

中国に災害援助に行った隊員は、中国の援助部隊員から露骨な嫌がらせを受け「かえれ!」とも言われて、すごすごと帰国してきました。何故なの? 帰国報告の隊長はそんなことはおくびにも出しませんでしたが、あのお顔が無念さを秘めていたと感じたのは私だけでしょうか。

今行っている医療チームは辛うじてお手伝いできているようです。でもこうして、日本から行って病院でお手伝いしている事や、人命救助隊が行って、手伝わせてもらえず、すごすご日本に帰ってきたことなど、12億の中国の民のどのくらいの方が知っているのだろうか?

おそらく大都会に住む一部の方だけで、全く知らされていないのではないだろうか。国民に伝えるのは「反日感情」を煽る事だけだろうか? それでは何時までたっても、仲よくはなれないよ。

今度、日本の医師に手当てを受けられた方が、日本人の事を理解してくださって、其れを回りに伝えてもらい、理解の波が静かなうねりとなり広がれば、其れが「草の根」運動となり、一般社会の方達の「日本に対する悪感情」を取り除く事が出来たらいいな~と思っています。

「靖国」の中国の青年の様に、日本の国歌斉唱を阻止しようとするような、日本に対して、敵愾心を持つような教育だけはしないでいただきたいと思っています。
無理でしょうかね?

「反日感情」を育てる事は中国政府に対する、批判の目をそらせるために必要だからだと聞いた事がありますが、其れが如何いう事意味するのか私には解りません。

その反面、国費で日本に留学生を送り込んでいるのです。何を学ばせたいのでしょうか? その国費留学生と結婚した娘を持つ友人がいます。国費留学生ですから、いつかは中国に帰って、あちらで働かなければならないといっていました。

結婚とまで行かなくても若い人同士が、相手国を理解する為に話し合う場は無いものでしょうか?中国に留学した日本の学生はどんな経験をして、中国に対する感情を持って帰国しているのだろう。又その反対日本に留学している中国の学生も、日本の事を如何感じ伝えているのでしょうか。。

日本から進出している工場で働く中国人は、日本のことを如何思っているのでしょうか? 一般の中国人はそんなに日本を嫌ってはいないような気がするのですが、違いますか?  
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スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」

2008年05月22日 | 一寸そこまで
              ニゲラ
       こぼれ種で 毎年咲いてくれます
      始はピンク 白 など在ったのですが
    今は微妙に違うブルーの濃淡のみになりました

「母の日のプレゼント」に貰った「スーパー歌舞伎・ヤマトタケル」に行ってきました。頭の中は「歌舞伎、歌舞伎」足は自然と歌舞伎座へ・・・。着いてみると「石川さゆり」の幟旗、「???」、開場を待っている人に何となく違和感がある。そこでハタと気づいた、私の行くのは松竹座だという事に・・・。全くもうドジな事である。

スーパー歌舞伎は歌舞伎とは異質とまでは言わないが、違ったものだった。とても解り易く、初めて見る人でも楽しめる芝居だと思う。ラストに全員集合するさまは、宝塚的だし、トンボを切るというより空中回転といった方がいいと思う動きはサーカスを思い出させるし、映像を使うのは今風だし、早代わりは余りにも早すぎるので本人ではなく、人の入れ替えだと思うし、あらゆるもののゴッチャ煮だと感じました。

この人たちは、歌舞伎の家に生まれた人ではなく、歌舞伎の養成所を出た人ですが、こんなに歌舞伎をしたいと思う人が多いのかという事に驚きを感じました。

歌舞伎の家は世襲制度で、実子か養子に入らなければ、歌舞伎で主役になる事は出来ないのです。その垣根を取っ払ったのが市川猿之助さん。今思えば初演当時の猿之助さんの「ヤマトタケル」見たかった。「ヤマトタケル」はダブルキャストで今日は市川右近さん。

市川右近さんは、早口?の所為か、台詞が一寸聞き取り難い場面が多々あった。若いから奇麗だったけれどね。

スーパー歌舞伎を見るのはこれが初めてではない。もう数十年前、猿之助さんの「オグリ・小栗判官」を見ている。このときは馬に乗った宙吊りだった。あの時が、宙吊りの始まりではなかったかしら、猿之助さんは身体を壊してしまわれたから、もう舞台を見る事はないのだろうな~。あの時が最初で最後だったんだわ。

今日の宙吊りは連戦連勝の驕りの心から、身に携えるべき草薙の刀を持たず、伊吹さんの神と戦い、神の化けた猪に噛まれ、帰りたい故郷・大和を目前に命を落とす。死の間際に「羽が欲しい。飛んで帰りたい」という。そして鳥になって宙吊りになるのだが、花道の上を飛んでゆく、3階席まで飛んでいく、この「ヤマトタケル」に関しては3階席で見るのも圧巻かとも思う。

歌舞伎の特色でもある「花道」ですが、普通一つの出し物に何度も使われないと思いますが(歌舞伎を良く見に行ったのが、小さい時だったので、記憶違いかも知れないが)この度は、数え切れないくらい使われました。私の席が「花道」の隣でしたので役者さんを間じかに見る事が出来て幸いでした。

「花道」の出口の幕は静かに開かないんですよ。「シャッツ」と勢い良く開きます。私はどういうわけか、あの音が好きなんです。どの席にいても、その音は良く聞こえるものなんですが、今日は特に「花道」の傍に座っていましたから、勢いのある幕の開く小気味良い音を堪能しました。

歌舞伎よりも動きが激しいからでしょうか、「せりあがり」も良く使われていました。一度だけ下りエスカレーターも使われていましたね。

11時に始まって終演は15時です。間に30分、20分の二度の休憩があるとはいえ3時間10分の長丁場です。厭きさせる事無く楽しませていただきました。

帰りに買い物をする予定でしたが駄目でした。楽しいのに疲れる、体力の低下を思い知った一日でありました。

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