これも先日のお友達の家の植え込みにあったものです。
大きさも生きた小鳥と同じ大きさですし、目が生き生きと可愛いです。
この頃、テレビは昭和の初めの頃の事をよく映し出しています。
昭和の初めといえば、私たちの年代です。
大正時代から、小さな戦いはあったようですが、大東亜戦争は私の子ども時代です。
だんだんと食べるものがなくなりました。
母は自分の着物と引き換えに(お金で買えるものはないので、着物が良かったようです)
私に不自由は感じさせませんでした。
母が荷物を背負い、両手に持てるだけの大きな荷物を持って、
何処かから帰ってきたのを思い出します。
この行為を「買出し」と言っていました。
戦争が激しくなり小学校3年から6年までが学校から集まって田舎に疎開しました。
私は親戚の子どもと一緒に、富山に「縁故疎開」していましたが「集団疎開」が始まったので、
そちらに替わりました。
縁故疎開=空襲のない田舎に親戚や知人の家があって、一家やまたは子どもだけを預けます。
子どもだけと言うのは少なかったようです、世話も大変ですしね。
集団疎開= 学校の決めた田舎に、子どもだけを預けます。こちらは、全国の生徒を合わせても、
数が少なかったそうで、私はその貴重な体験をしました。
1年5ヶ月ほどいきましたから、元町の家が焼けたのも、空襲で逃げることも知りません。
勿論、疎開前に、空襲が来れば防空頭巾をかぶって逃げるという、
先生が「伏せ!」といえばその場で、地面に伏せる練習はしましたよ。
疎開先でも、自習として「書き取り」等はしましたが、
終戦後4年生までは、勉強らしい勉強はしていません。
教科書らしいものもなく、
半紙ぐらいの大きさの紙に印刷されたものを、先生の言われる通りに折って、
本の大きさにしていました。
後には「教科書」は個人で本屋まで買いにいったものです。
私は神戸・元町まで買いに行ったことを覚えています。
それも往復歩いていきました。
私は集団疎開からは、平野小学校に転校しましたし、まだお友達も居ないので、
一人で行った記憶です。
帰りには元の家の何もない焼け跡地に立ち寄ったりしました。
懐かしかったのでしょうね。
今でも家の間取りははっきり覚えています。