ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

一月は行ってしまった!!

2009年01月31日 | 今日この頃

        宮崎県・高千穂・民芸の宿・かみの屋 (08-11-26)


         服部緑地 竹で作られた蟹と昆虫 (08-4-9)


とうとう1月が行ってしまいます。目覚めれば「2月さんこんにちわ」ですね。予告より雨は早くに上がりました。でも一日中曇り空でした。

久米宏さんの「テレビってヤツは!?」のビデオを見ました。ゲストが茂木健一郎さんと勝間和代さんでした。茂木さんは「プロフェッショナル」の司会で知っておりますが、勝間さんは初めてです。「無理なく収入10倍」と言う本を出して、出せば売れる本を書く人と言う紹介でした。

ウオールストリードジャーナルの「世界のもっとも注目すべき女性50」に選ばれた人だそうです。名前だけは新聞の本の広告欄で目にしていました。この人が手に職をつけないと大学を出ただけては駄目と言うのです。「女は、手に職をつけるべき」だと言うのです。

「手に職を付けよ」とは60年前に私の母も私に言っていましたよ。女1人で娘を育てる辛さの中から出た言葉だと思います。「より良く生きるために必要だ」「例え生涯幸せで、その職を使うことがないにしても「私には手に職がある」とゆとりが出来るよ」って。

手先の器用な私は小学校の6年生の時学校で洋服の作り方を習ってからは、布を買ってもらって自分のデザインで自分の服は縫っていましたから、洋裁で身を立てようと思い、その方に進むつもりで居ました。

しかし私の運命はそのほうに道がなかったらしく、就職、結婚、専業主婦となり現在に至っています。息子は当然働くべきだと思っていますが、もし娘が生まれていたら、やっぱり「手に職を付けておくべきよ」と言ったと思います。 

離婚をして、子供を育てて仕事に成功してという人が3人言葉を寄せていました。結婚はしたほうが良い、しかし辛抱しているべきでなく離婚をして良かった、自分の為に自由に時間が使える。と言うようなことを言っていましたね。成功者の言葉ですね。

1人成功者とはいえないが、必死に4つの仕事をしながら子供を育てている人が居ました。食べるだけの収入にならないからどんどん仕事の数が増えたのだと思います。勝間さんはそのビデオを見て「4つの仕事を一つに絞って、その時間給を上げたほうが良い」とアドバイスしていました。

私は思いました、そうかもしれない。では一つに絞って時間給を上げるまでの生活はどうなるのでしょう。勝間さんほか成功した方々には、そこに行くまでに金銭的な余裕か、子供の面倒を見てくれる助っ人が居たのではないでしょうか?

もう1人の人も、正社員で就職できなかったのは(派遣社員)子供が喘息持ちだったからといっていましたね。発作が起きた時は休まなければならない、そんな状態ではまともな就職は出来ないって。親子の生活範囲内に助けてもらえる身内が居ないという事でしょう。

昔は女は身一つで離婚しましたが、今は子供を連れての離婚が増えているようです。苦労は多いけれど生きる張り合いになると気づいたのでしょう。

茂木さんの言葉の中で「創造する事は思い出すことと同じ思考回路」と言うのがありましたね。脳学者といわれる茂木さんが「プロフェッショナル」の番組で時々言われる言葉なんです。過去の経験が新しいものを生み出す時に生きてくるという事ですね。

先日の鎌田實さんの後援会のアンケートに「次は何方の講演を聞きたいですか?その理由も」と言う欄があるのです。私は「三国連太郎さん」と書きました「理由は太平洋戦争について長年研究しておられ、書き残したいと思っておられるから」です。その時代に生きながら戦争が何故起こり、何故負けたのかをはっきりは知りません。そんなお話を聞きたいと思ったからです。

今日ビデオを見ながら茂木健一郎さんのお話も聞きたいな~と思いました。
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食べ物からの連想

2009年01月30日 | 気にかかる
    
    
                 オリズルラン 2種 
          良く見てください花器が違うだけではありません 
           葉の縁が白(上)中央が白(下)とがあります



今日は午後からず~っと雨。室温が低いだけでまるで梅雨の雨。でも唱歌の学校への行き帰りは降らなくて、雨傘をステッキ代わりに突きながら帰ってきました。今はまだ足は悪くないのですが、とても楽ですね。遍路の時の金剛杖を思い出しました。

学校への道に「お兄ちゃん(元若乃花)のお店」が出来たことを以前書きました。もう行った人がありまして、そのお話ではなかなか良いお店だそうですよ。従業員の躾も良く行き届いているし、店内も奇麗だし、食器も良いし、ただ急いでる時は駄目だそうです、お料理の出来上がりが遅いそうです。なぜなら作り置きをしないで注文を受けてから作り始めるからだそうです。ちゃんこだけではなく色々あるようです。

但し予約をしないと入れないそうです。値段のことは言っていませんでしたが、少々お高いとは聞いていますが。行ってみたいな~とは思いますが、予約してまでは面倒だな~と言う気もあります。その内、ごとうさんが6月のコンサートの慰労会にでも予定を立ててくださるかも知れないと他力本願で待ちます。

島田伸介さんも大阪で「寿司や」を開店したそうですね。その人が言うには、此処も勿論予約オンリーで何度電話かけても満席だそうですよ。伸介さんは手広く事業を起しているとは聞いていましたが、「寿司や」までとはね~知りませんでした。

今、伸介さんのすし屋は何処にあるのかと調べようとしましたら、面白い記事を見つけました。「冷凍すし」です。「えっつ?! お寿司の冷凍?」と驚きました。
電子レンジの暖め機能で3分間で出来上がるそうです。その上驚いたことに4ヶ月有効だと言うのです。一人前のお値段も800円とそんなにお高くありません。スーパーのお寿司から見れば割高かな~? その上驚くべきは25年も前からあったというのです。

私の様に町に住んで、アチコチにおすし屋さんがあれば、必要ない事かも知れませんが、田舎に住んでも、ネット通販のお陰で寿司まで買い置きできるとなれば、田舎生活も良いかも知れない。後はお医者さんの問題だけが残りますが、オーストラリヤのフライング・ドクターのマネではありませんが、カー・ドクターと言うのができれば安心なんですがね…。

私達の年代はまだまだカタログ販売に疑問や不安を持っていますが、今の若い人は平気でしょうから、20年30年後の老後は様変わりしているかもしれません。

年に何度かは趣味の音楽、演劇などを見るために都会に行く、そして満足して、又空気のいいわが家に帰ってくる。自作の無農薬野菜を食べる。同じような生活を楽しんでいる近所の人たちと時々集まって人との交流もする。日常の情報交換は勿論ネットでね。

私なら、窓から富士山の見える場所に行きたいわ。もう二年前になりますが、富士山を巡る旅をした時、富士山の見える付近に沢山空地はありましたよ。だれのかな~?国のかな~?

日本は土地面積に対して人が多すぎるから、少々人口が減っても私は良いと思っているんです。ただ、何でも減少するという事は勢いがなくなるという事だから、その点を支える何かがあれば大丈夫と思うのですが…。それにしても1億2千万人は多すぎないかしら?
                               (960回)
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「がんばらない」けど「なげださない」

2009年01月29日 | 一寸そこまで


       パッケージの表の絵: アヤちゃんは、ガンで足を切断
   義足の修理にバクダットから隣国ヨルダンまで行かなくてはなりません
          一回の修理に掛かるお金は1000ドルです。


     パッケージの内側:ハウラはサマーワカラバスラの病院まで 
      300km通わなくてはなりません  交通費は100ドルです


     「限りなき義理の愛大作戦」のチョコ 一口500円で 
   イラクの子供達の絵とチョコ チョコは北海道の六花亭のご好意によるもの
       売上金はイラクの子供の為の医療支援に使われます



6時から大阪・本町にある北御堂で鎌田實先生の講演を聞きに行きました。此処で今まで色んな方のお話を聞きました。一番初めは大平光代さんの「だから貴方も生き抜いて」でした。この本を読んだ後でしたから興味だけで行きました。淡々と辛い過去を話されるので、余計に私の方が涙が溢れてくるのを抑えるのに苦労しました。それからおハガキいただくたびに行っているのですが、大平さんの時は大きなホールが立錐の余地もないと言う言葉を実感しました。ホールの入り口をあけて廊下でも人がいっぱいでした。何時も立って聞く方は居られるものの、立錐の余地がないと言う程の場面には出会っておりません。

養老孟司氏の「バカの壁」のお話、「夜回り先生」の水谷先生、今はお名前が出てこないのですが、時の人のお話を聞かせていただきました。そのときのアンケートを出しておくと今度のように案内のお葉書が届きます。

ただ無料ですので、早く行って並ぶ覚悟が必要です。今日も5時開場6時講演ですので5時前に着きましたら、既に30名ばかり並んでおられました。補助椅子が始から設定されており300席?ぐらいが椅子席、で立っている方も居られました。

鎌田先生が出てこられて吃驚したのは「お若い!」という事でした。写真やテレビでは私と同年輩の方と思っていましたら、何と昭和23年生まれで今年還暦だそうです。

昨日「還暦と言えば年を取ったと思っていたけど、今から思えば若かったね~」と主人と話したばかりでした。本当に60歳は若い。お髭があるので老けて見えるのでしょうね。

初めて聞いた話は、母親のお腹の中にいる10月10日の間に、生物が生まれた38億年前からの色々の変化の後に人間になったその形をなぞって変化してから、人間として生まれてくるそうですよ。お腹の中にいるときは爬虫類の様な怖い顔の時もあり、カエルの顔の時もあり、進化の後を辿って人間の形になって出てくるって凄いことですね。知らなかった。鎌田先生は医学生の時習われたそうです。受精して20日過ぎ位の変化が凄いようです。次々とめまぐるしく変化するそうです。胎児とはまだ見えない頃に、すざましい過去の経路を辿っているとは夢にも思いませんでした。

貴女は前世は「ライオンでした」とか告げる人が居られますが、こうなるとまんざら否定は出来ないような気がしてきますね。さて私は何だったのでしょうか?

だれでも両親があり祖父母が居り、ご先祖さまが居られる、その縦に繋がる筋で、時にはどうしようもない人が居たとしてもその人が居なければ今の自分はないわけで、その縦の筋を大切に思わなければならない。即ち、老人を大切にする、子供を、障害を持った人を大切にと繋がっていく。子供を持てなかった人も、何かで絶対必要な存在なのだと言われました。

今日のテーマは「あたたかさ」でした。あたたかい政治、あたたかい教育、あたたかい家庭、あたたかい友情。あたたかさは連鎖するから「あたたかさをもってすれば世の中は変わる」と言う事です。

何だかいっぱいメモって来たのですが、上手くまとめられませんでした。

「なげださない」は元安倍首相に対する言葉だそうです。

それから、麻生さん「医者は常識がない」勿論そんな人もいますよ。でもこれを聞いて医者はがっくり…、一国の首相のいう事ではない。日本のトップは人の心を討つ言葉を持たない。「今は大変な時期ですが、こうすれば、X年後には好転しますから、今辛抱してください」と国民に語れば良い。そうすれば国民も納得して我慢して付いていきます。信用するに足る言葉がないから、国民も何を如何信じて生きれば良いかが解らない。

大会社の社長も同じ、日本人は世界的に見て余裕のある人が多いのです。でも先が不安だからお金を使おうとしない「XXを買ってください、そうすれば従業員の首切りをしなくても済みます」と国民に腹を割って語れば良いのですよ。暖かい心の持ち主で、先行き不安で買い替えは来年にと思っていた人も、人助けが出来るならと今年買いますよ。そうしてお金が天下を廻れば経済が良くなるんです。

なるほどと聞いていました。今日は医療の話より、世の中の話でした。15分も延長して、一つだけ「ガンであっても、周りの人や家族の暖かさに包まれて不幸ではなかった人も居た」お話をしてくださいました。

そうだそうだ、アメリカの真似をすることはないとも言っておられました。日本の昔の良い風習を取り返すだけでいいのだって…。
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お葬式今昔

2009年01月28日 | 今日この頃


  パンジー(公園の片隅で 09-1-4) ミニ・シクラメン(道端で 09-1-16)


今日もお天気で、お見送りする私達は助かりました。

お葬式もどんどん変わっているようです。一番感じたのは、式の最中、灯かりを明るくしたり、暗くしたり。そのときの雰囲気に合わせて光の効果を使って演出していました。

お式が始まるまで祭壇はレースのカーテン(って呼んで良いのでしょうか)?で遮られており、お坊さんが入場でカーテンが曳かれます。

正面にあるはずの遺影が右端にあります。今までお焼香をする時見あげていたのを「あれ!ない?」と首を右に向けました。しかしご遺体は正面に安置されているのですから正面を向いたままで良いかしらと、告別式の時は正面のお棺に対してお礼をしました。

先日、息子に「私の葬式の時のBGMには唱歌にしてね」と云いました。驚いたことに、今日は「ふるさと」昨日は「朧月夜」と唱歌のBGMでした。昔の歌はなんて良いのでしょう、悲しい時は哀しいなりに、楽しい場面では楽しく聞こえるのです。

以前は「止め焼香」は出席している親族の内、亡くなった方の血縁者の中から、そして年長の方でした。ところがこのたびは喪主が長男、そして「止め焼香が次男」となっておりました。止め焼香は日本全国であるものと思っていました。でもない地方も多いそうですね。

お通夜の席では喪主だけが名前を呼ばれて、後は順不同という事でした。しかし告別式の時は親族のみですが焼香順が今まで通り決められておりました。

最後のお別れの時は同窓生でしょうか、沢山のご老人の方がお花を持ってご対面なさっていました。きっと友情を大切にお仲間の集まりに何時も出席しておられたのだろうな~と想像しました。

喪主のご挨拶ですが、最近までは葬儀屋さんが代わりに話されることが多かったように思います。今は葬儀屋さんから渡された紙を、棒読みする方が増えて居ます。その度に思っていました、大変な時ですから暗記せよとは言いません、でもたとえ間違っても、躓いても良いからご自分のことばで語っていただきたいな~と…。

ご長男は、大学の先生ですから、人前で喋るのには慣れておられます。自分の言葉で語られました。こちらも安心して聞いておれました。

私の心配もそこにあります。わが家の長男は口下手です(二親ともがそうなので仕方がありません)。しっかり出来るだろうか?と今から心配なんです。お棺の中から「ちゃうちゃう、~言うのよ!」って私が喋りたくなるのではないかと、ただ渡された紙を見て話さないで欲しいと…。親族だけの葬儀でも、お礼だけはやっぱり言うのでしょうね。心配だわ!

喪服ですが、今は奥様も洋装の方が増えました。大変な時ですから服の方が楽で良いとは思います。お通夜のときこそ服でしたが、今日は彼女とご長男のお嫁さんはお着物でした。こんな時にファッションのことを言うのもなんですが、やはり喪服は着物が良いな~と思いました。

霊柩車もキンキラキンでない普通の乗用車の形です。それに不思議はないのですが、色が「白」だったことに「へえ~?」と驚きました。昔は「黒」と決まっていましたよね。そういえば昔は喪服は「白」だったそうですね。

お棺を霊柩車まで担ぐ時ですが、昔は祭壇から霊柩車まで担いだものですが、今は車のほん側まではストレッチャーで運ばれてきます。だからほんの数歩運ぶだけです。参列者も高齢化を迎えて、若い担ぎ手が少なくなっているからでしょうか。

葬儀の形もその地方によって全然違うようです。私は関西と鹿児島と埼玉・東京の葬儀しか知らないのですが、それでも違いは感じました。鹿児島でも神式と仏式では又違いましたし、ただ神式の方が祭壇はシンプルで良いように思いました。

ご近所で去年で9月と11月そして今日と三軒続きました。不幸は3度続くといわれます。当分喪服を着ることが無いようにと願っています。
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電話が怖い

2009年01月27日 | 今日この頃


        ハナスベリヒユ 黄色の濃淡 (08-8-2 ウッディー)


この頃電話の音を聞くと「ドキッ」とする。そして受話器をとるのを一瞬躊躇ってしまう。電話時代であるのに、もともと私はあまり電話を使わない。

「~が入院した」「~が手術した」「~が亡くなった」余りいい知らせがない。その度に心が萎える。年を取って生きるという事はこういう事も含まれているんだ、若い頃には考えもしないことだった。

哀しい知らせにいちいち反応していたら身が持たないと思いつつも、私は敏感に反応してしまう。何もしてあげられないだけに余計に辛い。

昨日も親しい友人のご主人が亡くなったという知らせが入り今日は通夜、明日本葬とお見送りに行くことになっている。彼女からの19日のメールから「いよいよだな」と言う感じは受けていた。短い文章の中に今の彼女の思いが詰まっていた。私はこのメールを一生忘れないだろう。

今朝も電話が鳴った。打ち合わせかもしれないと急いで受話器をとった。「こちら互助会ですが、用意は出来ておられますか?」あちらは何も知らないで勧誘しているのは解っているのですが、余りにもドンピシャのタイミングじゃ~ない「いいえ、結構です」と電話を切りましたが、無性に虚しいというか寂しいと言うか、益々私の心は沈んでしまった。

町会の皆様と一緒に迎えのバスで会場に向かいました。やっぱり去年、おばさんを見送った同じ会館でした。お部屋が4室ありますが、全て使用でした。寒い時はやはり他界される方が多いのでしょうか。

偶然ほんの一時ですが、彼女とぱったり出合いました「大丈夫?」「大丈夫よ、短かったから(年末から1ヶ月)…」「メール入れるわ…」「うん」たったこれだけの会話でしたが、彼女の元気な顔を見て、何だか荷物を下ろしたような、軽い気持ちになりました。「風前の灯よ」と言いつづけて12年、3回の手術を経て、覚悟は出来ていたのでしょう。

長男と次男の間に立つ彼女、気が付けば彼女を飛ばして、息子さん達に話しかけていた。「お母さんをお願いしますね」って…

子供は息子二人、私と同じ。彼女は1人になっても前向きに自分で楽しみを見つけて生きていける人。でも後の何割かは、息子達の家族がどの様に支えてくれるかで左右されると思っている。

挨拶に前に立った人が行き過ぎると、息子さんは彼女に話しかけている。きっと何方であるかを説明しているのだろう。こんな優しい息子さんが親不孝をするはずはない。と思うけれど、私はどうしても頼んでおきたかった。

そうすると私の心はだんだん軽くなった。子供達が3年保育の幼稚園児のときからの友達なんです。共通の思い出もいっぱいある。

どうかこれからも幸せであって欲しい、年を重ねるこれからの幸せは息子さんたちの心の支えなくしては考えられない。

「なおちゃん、たっちゃん お母さんが寂しくないように、宜しくね。」
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誘拐児

2009年01月26日 | 読みました

    
         わが家では この八重咲きの水仙だけが咲いている


今日は4~5ヶ月に一度のお医者さんの梯子の日です。何時もは月に一度高血圧のお薬を貰いに内科に行くだけですが、その他の飲み薬、塗り薬の予備がなくなりそうなので貰いに行きました。私が思うには一度故障した箇所は必ず又出てくると思っています。薬を使って直ったと思っていても、又ひょっこり顔を出す。そのために薬を手元に用意しておき、其れがなくなりそうになったら、又貰っておく。そのため何ヶ月に一度かは半日掛かりで医者周りをする。

内科以外は外の薬局に貰いに行くわけで、行く場所が2倍になる。何時行っても沢山の人が待っているし、医局員の数もどんどん増えている。それだけ薬を貰う人が増えていると言うことでしょうか。高血圧の薬以外は自己判断で飲んだり飲まなかったりしている。だから1か月分貰うと2~3ヶ月使える、中断してしまうと又おかしくなるので、様子を見ながら服用している。


          ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

          誘拐児     翔田 寛
           第54回 江戸川乱歩賞受賞作

選考委員の
大沢在昌さんは:昭和36年を描いて無理を感じさせない。その筆力にまず可能性を感じた。

東野圭吾さんは:文章、ストーリー、人物描写、全てが安定している。場面転換が巧みで、読者をあきさせない。

と評しておられます。

翔田さんは2000年に「影踏み鬼」で小説推理新人賞を受賞して、作家デビューした人のようです。

物語は昭和21年に5歳の男児が誘拐され、身代金だけ取られて、男の子は生死不明で15年過ぎた昭和36年に殺人事件が起きる。その二つを関連することに依って昭和36年に発生した殺人事件のわけと犯人を浮かび上がらせていくと言う物語。

登場人物が多すぎて、「あれ!これは誰だった?」とか「この人どういう人だった?」とか、頭がこんがらがりました。これも加齢現象だろうか?

めまぐるしく過去と現在に場面が展開する。その上に正反対の捜査班の二組の出入りがあるから余計にこんがらがってくる。

楽しくは読めたのだが、必死に物語りに食らいついていったという感もある。

中々スピードの出ない読み方の今日この頃から考えると、4日ほどで読みきったという事はやはり引き込まれたという事でしょうか。
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白井文を囲む新春の集い

2009年01月25日 | 一寸そこまで
     
            今日囲まれた人 尼崎市長白井文さん

          近松の町尼崎の近松応援団の文楽人形 
  女人形は可愛いし 男人形は男前  貴方達は誰? 自己紹介したっけ? 
              もしかして 市長さんと近松さん?


   本日のメニューはケーキとサンドイッチとアルコール抜き飲み物色々


「白井文を囲む新春の集い」に行って来ました。言わずと知れた「尼崎市長 白井文さん」の応援団「白井文と輝くあまがさきの会」の集いです。年に一度の会は例年は夜ですが、今回は昼。其れもケーキとお飲み物の会。夜の場合はアルコールがありますが今回は無しです。

あらかた女の人だろうと思って行きましたら、あにはからんや男性多数、「出席は何人ぐらい?」と聞きましたら「夜なら350人ぐらいだけれど、今日は200人くらいよ」「男性が多くない」「4分6で男性が多いかな?」だそうです。

今世の中は不景気風が吹いています、こんな時だから見送ろうと思ったそうです。でもこんな時だからこそやろうよ。と言う事になって会費を抑え、時間帯も女性の出やすい昼間にしたそうです。何時ものように来賓としてきてくださる人には声をかけず、会員だけに案内を送ったそうです。

「白井文と輝くあまがさきの会」の世話人の難波さんと内藤さんが始と終わりに挨拶なさっただけで、後は白井文さんご自身のお話をたっぷり聞かせていただいた、ホットな会でした。

去年は尼崎市も色んな事件で新聞種になりました。そのことにも触れられました。

市役所の近くの中学校から(息子達の卒業した学校かな?)「子供達が、自分の住む地域にいい感じを持っていないらしいので、是非尼崎の良い所を話してやってください」と頼まれて市長は行かれたそうです。生徒達は目を輝かせて、熱心に聴いてくれたし?とかえって疑問に感じたそうです。後で良く聞いてみると、生徒達の保護者が「大人に成ったらこんな所に住まないで、もっと良い所へ…」と話しているらしいと言うのです。

大阪市と同じで勉強と言う環境は良くなく、学齢期になると西宮に出て行く家族が多いと聞いています。尼崎では来年度から市内の全小学校(今は一部のテスト校)で「そろばん」を取り入れると新聞で読みました。良い事だと思いました。

わが兵庫県の三木市はそろばんつくりで有名です。同じ県の尼崎の子供がそのそろばん上手になればいいですよ。そろばんは頭の回転が良くなるような気がしますね。尼崎で「そろばん大会」が開かれているのではなかったでしょうか?何かで子供達が自信をつければ、其れも郷土愛に結びつきますよね。「そろばん」は良いですよ、一生もんです。これも日本の文化ですよね、海外でも広まっていると聞いています。

友好都市 中国・鞍山市訪問の報告がスライドを使ってありました。鞍山市は今は日本よりヨーロッパの方に心が動いているようだという話でしたね。

次はアフタヌーンティータイムで私達は食べながら、市長は各テーブルを廻りながらあちこちでパチパチと撮影会。私も勿論ご一緒に写っていただきましたよ。

市長職も早6年を過ぎられました。と言う事は来年は又選挙です。やり続けていただきたい。

市長になって尼崎の地場産業を見て廻られたそうですが、私も廻ってみたいです。でも何処に何があるかも解りませんし、たとえ行っても断られるだろうし…。酒樽の菰作りも尼崎の工場が大きなシェアーを占めていると聞きました。このように目に見て素人でもわかる地場産業を見る機会はないだろうか?こういう事も、大人の地域愛を広めることにならないだろうか?

今日は盛会ですが、この何分の一でいいから市議会の会場に足を運んでくださらないかな~。私達に出来るのはそれ位なのにな~。市議会の傍聴席は閑古鳥が鳴いているな~。これが私の今日の感想です。
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今は筋トレ

2009年01月24日 | 今日この頃

               花のない今の庭に 
     ストックが咲き続けてくれて 暖かい桃色にほっとする

 
     春を待つボタン(左)と沈丁花(右)の蕾が膨らむ


今日の昼間、小雪が舞いました。風が冷たいはずでした。それでも30分も歩きますと汗をかきます。ジムに着くと直ぐ着替えるので風邪を引かないのでしょうね。

久し振りにすずき先生のレッスンを受けました。先生も私の子供世代の方ですが、入会した時は20代だった先生ももうじき50代に突入です。私も今の先生の頃に入会したんだわ。元気だったな~と思います。物覚えも良かったし、行動もキビキビしていましたよね~。先生とも長いお付き合いです。

先生が言われるには「この間までは『歩きなさい。走りなさい』が運動でしたが、変わってきました。今はやっぱり筋トレです。優し過ぎても、余り必死になっても駄目です。一寸頑張っているかな? ぐらいが丁度いいのですよ」って。

ストレッチをしながら思いました。自分の腕なのに重いな~って。これは上半身を動かしていない証拠です。「歩け、歩け運動」に私は以前から疑問を持っていました。歩くだけでは駄目なんじゃないか、全身のストレッチと組み合わせないと効果がないのではないかと思っていました。

「フラ」は音楽に合わせて踊る楽しみだけであって、運動量としては効果が薄いように思います。「初めてのラテン」は私にとって、ハードすぎるのではないかと思います。ハードなことをするには年齢制限を越えていそうです。激しく動く心地良さはあるのですが、どこかを傷めないうちに止めなければ、と思いつつずるずると続けていましたが、今日の先生のお話を聞きながら、ストレッチか器機に戻ったほうがいいかな~と思いました。

無理は故障の元、今までに何人も足腰を痛めた人を知っています。自分の身体の状態は自分が一番知っているわけですから、自分のもてる力の8割ぐらいで納めたほうが良さそうです。

足も歩くという事はしていますが、屈伸はしていません。上半身は腕を上げたり上体を横に曲げたりもしていません。運動をしながら骨がボキボキいっていました。

まだまだ年の割には身体が動くほうだと思いますが、これから益々機能が後退するのを遅らせるために歩くだけではなくこまめに全体を動かさなければいけないな~と思いました。

1月も早行こうとしています。2月が逃げて、3月が去る頃にはお出かけも増えるでしょう。元気でお出かけできるように、からだの柔軟性を高めておきましょう。
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近松てまり

2009年01月23日 | 一寸そこまで

    手前中央のテーブルが先生のお作で歌舞伎の演目に題材を…
         「忠臣蔵」中央左:浅野内匠頭 と右:吉良上野介
           右:大石内蔵助と力 左:お軽と勘平



          生徒さんの個人の作品が一塊にして展示されていた


唱歌の学校の帰りに、寒くなければ「近松てまりグループ作品展」を見に行こうと思っていました。幸いなことに寒さを感じなかったので、大回りをして阪神で尼崎に出て、「アルカイックホール」の一部屋でしている作品展を見に行って、バスで帰ってきました。

この作品点は「近松祭」の一環として参加されたもののようです。近松祭の色々の催しのパンフレットの中でこの作品展のことを知ったのは去年の秋でした。とても楽しみにしていました。昨日から始まり26日までの5日間なので、忘れないようにしようと思っていました。

私の今まで知っていたてまりもありましたが、始めてみる感じのものも多くありました。まず色使いの鮮やかさに目を奪われました。同じ模様でも、色の組み合わせで全然違った感じを受けます。その点から言えば、色合いは奇抜なほうが出来上がりが奇麗だと感じました。

作り方は「中心は何が入っていますか?」「発砲スチロールの球体です、その上に毛糸を巻き、次に地色のロック糸(縁かがり専用ミシン糸)を巻きつけて球面を何等分かに別けて糸を渡し、その上に模様の糸を渡していくのです」

期間中、申し込めば体験させてもらえるそうです。手仕事の好きな私の事、食指は動きましたが、針に糸を通すことに苦労するのは目に見えています、近寄らないのが無難と判断しました。

先生のお作品は「近松作品をてまりで表現」とありました。確かに「曽根崎心中」とか近松の作品もありましたが「忠臣蔵」もありましたし「歌舞伎」に題するものと言う方がいいかな?と思いました。

和歌山、四国、九州と地方によって、模様や作り方など色々と違うそうです。先生方は、時々集まって情報交換?されるそうです。

「昔からある日本の文化ですね。伝え続けていただきたいですね」と言いましたら「有難うございます、そう思います」「昔はこのてまりで、どのようにして遊んだのでしょう?」「手で転がすようにして遊んだと思います」

宣伝不足でしょうか見学者は私の居る間には1人もありませんでした。

何はともあれ奇麗なものを見せていただいて、目の正月をしてまいりました。

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どたばたトホホ (ペット屋の尼崎市長選挙)

2009年01月22日 | 読みました
   

     
                インド家庭料理教室から…         

天井の張替えが終わったら。今度はパソコン気難しくなってきました。パソコンは3代目なんですが、今まで故障をするなんて事はありませんでした。今のビスタ?は余り評判が良くないので、できることなら買い換えたくないのです。明日にでも電話してみるつもりですが…             

              ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

           どたばたトホホ         北村 仁
                ペット屋の尼崎市長選挙 
              

この本が市内の各図書館に寄贈されると言う記事を新聞で読んだ時、読みたいと思った。白井尼崎市長の誕生の時、ほんの少しお手伝いしたので、言葉を交わしたことはありませんが北村さんは知っていました。

私は図書館に行って、本が来ているか訊ねました、本棚にあるというので喜んで借りて帰りました。

北村さんが亡くなってから、何度と無く新聞紙上でその名を見る事があった。そして不思議に思った。尼崎市の市長選挙の事務方であっただけで、何故?死後その名が紙上に載るの? この本を読んで何となく、うっすらと理解できたように思う。

北村さんは誠意の人なんだ。自分の得意分野で無くとも、引き受けたからには誠心誠意尽くす方なんだ。温かいんだ。相手の心をがっちりと受け止めることの出来る人なんだ。人間なんだから色んな面を持っておられるのかも知れないが、この本から受けた私の感想は「暖」だった。

北村さんの健康が蝕まれること無く、お元気で、白井さんが尼崎市長に10万1388票(相手方47487表)の大差で再選された裏話が書かれていたら… 其れが読めないのがとても残念です。

私の手元に白井さんに関する2枚のCDがある。一枚は初当選され初登庁されたときの自宅前から市職員への初訓示までを、一生懸命私が撮ったものです。私のCD作成初デビュー作品でもあります。タイトルは「日本一若い女性市長誕生!」

二枚目は「尼崎市長に再選!」と銘うって、祝賀会の模様を撮ったものです。

私も本の中では「ご近所の七松町のおばちゃんたち」と書かれているうちの一人だったわけで、色んな噂は耳にしていましたが、知っていたのは結果であって、その過程は知らなかったわけです。その空間を埋めて点と点を結びつけて一本の線にしてくれたのが、この本だといえます。

白井市長が誕生した頃、白井さんと私はある全国的とはいえないが、関東以西のお勉強会の尼崎クラブに属していました。そのようなクラブがいくつか集まって作られるブロックを、カウンスルと称して、他クラブの方々との交流の場がありました。

あの年、そのカウンスルの「広報誌」?の編集長のお役を白井さんが引き受けられていて、私はそのスタッフだった。任期は一年間で、その間白井さんとお仕事が出来ると喜んでいたが尼崎市長に当選され、私の楽しみは中断された。勿論新しく選ばれた編集長の元、私はスタッフを勤めさせていただいたが…。

北村さんは白井さんに「市長候補の要請が、断りきれなくて、一緒に断って」と頼まれたそうだ。所が周りから白井さんの正義感に火が点くように仕向けられて、とうとう立候補することになり、その事務局長になられたらしい。

選挙事務所はJR立花駅を目前にした良い立地条件の場所だった。その場所を見つけてきたのが、妹さんで、その場所を斡旋した不動産やさんが妹さんと同級生で、又私の次男と中学時代仲良しだった友人だった。

歩いて5分と掛からない場所だったので、七松町のおばちゃんたちはスケジュールに組み込まれて、選挙事務所に通ったものだったと懐かしく思い出した。

だからスタッフの名前には記憶があり、その人はそんな関係で、この人はこんな思いで選挙に関わっておられたのだと知ることが出来た。

あの選挙の時、早朝の立花駅やその他の場所に演説を聞きに出向いたり、夜の「モモタロウ」の行列を迎えて「頑張って!」と手を振るために、食事の支度を中断して、声が聞こえると門まで飛び出した事など思い出しました。

長野県知事の田中康夫さんの応援演説の件は私も聞いていました。その頃私は歩き遍路で四国を廻っていましたから、お大師さんにも応援お願いしましたし、田中さんが応援に来られるという日には立花に居ようと予定も立てました。しかし其れは不発に終わりました。

しかし当選した時初めて思ったことは「田中さんの応援が無くてよかった」と言う事でした。もし応援を受けていれば「田中さんの力が大きかった…」と言われかねなかったでしょう。素人に近い、其れも寄り合い所帯でも、「誠」は通じると示せてよかったと思いました。

当選した夜も、友人と誘い合って駆けつけて、白井さんの当選後の一声を直に聞けた事、あっという間に何処からこれだけの人が集まったのかと言うぐらいの群集…、気が付けば我主人も居て、新市長と握手なんぞしていましたっけ。色んな想い出をいっぱい思い出させてくれた本でした。

この本を借りはしたものの、他の本の延長できない本を先に読むので、延長延長の手続きを続け手元においていました。又延長しようとパソコンを開くと「借りる人があります」と延長できないと告げていました。「読んでみようという人が居るんだ!」と喜び、そして大慌てで読みました。今日期限ギリギリで返却します。

白井さんが「発刊に寄せて」に…
『「もし北村さんが居なくなったら、私やっていけないと思う」といったら「まかしとけ。死んでもずっと白井さんのそばにおる。もし市長としての白井さんを邪魔するヤツがおったら、徹底的につきまとってじゃましたるから。死んでも白井さんを守るから」と、わけのわからにエールを亡くなるまで送ってくれていました』と書いておられます。

北村さんのご冥福を祈ると共に、「北村さん約束わすれてませんか? 白井さん大変だってよ!」とお願いしたい。
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