ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

明日の記憶

2006年06月29日 | 今日この頃
            ゼラニューム
         さし芽でどんどん増える
     この八重は少し確率が悪いが咲かせている

主人は昨日から明日まで2泊3日で「強羅温泉」に行っている。会社のOB会に出ようとしない主人を関東に住む後輩の若い方達が「XXX会」と称して一年に一回呼んでくださる。主人もその日をとても楽しみにしている。天気も上々楽しんでいる事でしょう。

そこで今日は私は「明日の記憶」を見に行った。何とも悲しいと言うか辛い映画であった。この間はこの劇場で「寝ずの番」を見たのであるから、えらい違いである。ご夫婦もちらちら来ておられたが、圧倒的に女性二人組みである。この映画を夫婦で見る勇気は私には無い(ダイジェスト版を読んだので、一人で見よう決めていた)。お互いに当事者になるかもしれない相手が隣に居るのには耐えられない。隣が気になって考える事も出来ない。

隣の席は母娘だった。嫌な予感的中。よほど後ろの空席に替わろうかと思った。見ている内に何度替わっとけば良かったと後悔した事か。小声ではあるが母が娘に話しかける。母がまず泣くので私はつい我慢してしまう。そんな事ありませんか?私は隣の涙を感じると返って冷静になってしまう。

若年アルツハイマーのお話なんですが、現役時代と言うのが本人も部下も辛いですね。退職を勧めなければならない上司の友人も辛いね。自分の目を掛けていた部下の告げ口もつらいね。アルツハイマーのことは書物で読んでいて理解していたつもりでも、それは私の理解であって、身近に病者が居ない私の理解には限度があった。現実に動く映像として見せられると言葉が無い。

友人に1人居る。もう何年経っただろう。彼女ももう何も判らなくなっているのだろうか。「外出は無理です」とのご主人の言葉でクラス会に出てこれなくなって、数年は経つ。男の子3人だったと思う。もうすでに家を離れているだろう。ご主人1人で見ておられるのだろうか。仲良しさんのちよこさんに訊ねても、状態を聞きにくいから連絡を取っていないと言う。彼女と重ね合わせてしまって私にとっては辛い映画だった。

主人公が「私が私でなくなっても・・・」の言葉に「私が居ます。私がず~とそばにいます」と共に泣き、後の暴言暴力に「貴方がしたんじゃない、病気がさせたんだから」そ~言っても長い年月堪えきれずに妻も永年の恨みを吐き出す。病人も何もわからなくなれば(トップシーン)未だしも、まだらボケの時が本人も周りも一番辛く悲しいだろう。

働き盛りであると言う事が苦しみ悲しみを深くしている。妻の永年の恨みの言葉の中に「貴方は家庭を省みなかった」「娘が高校時代ぐれた時も貴方は無関心私1人で耐えた、彼女が第一志望の大学に落ちて部屋に閉じこもっていた時も、貴方は酔っ払ってソファで眠っていた。娘も『お父さんは私の事を思っていない』と言っている」と言う台詞があった。

多かれ少なかれ会社人間の夫は家庭を顧みないようにみえる。我が家も主人が家で晩御飯を食べるのは年に数日、接待と称して毎晩午前様だった。土日はこれまたゴルフウィドウ。でもそれで文句を言った事は無かったと思う。私は私で何か楽しみを見つけていたからだ。唯もし私がボケたら、やはり思いっきり罵るのではないかな~と心配になる事はある。心に蓋をしていても理性が無くなれば噴出す恐れはあるわけで、ボケたくない理由の一つでもある。出来るなら心に納めたままあの世とやらに持って行きたい。

腹の立つ事も一杯あったけど、今となれば助け合うのはお互いしか居ないのだから。熟年離婚した人にはこの気持ちはわからないだろうな~。

  ☆明日6月30日~7月2日までお休みいたします。















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ハワイ

2006年06月28日 | 思い出話
               ギボシ
         枇杷の木の根元にひっそりと咲く
          年々葉数を増し大きくなる

            心斎橋筋商店街
          中 元 大 売 出 し
             特   賞

        パンアメリカン機で(4泊6日)
        ハワイ・(オアフ島)へご優待
           ご当選No.043
          昭和48年7月7日

38歳の七夕の日私に幸運が舞い込んだ。その日は主人と二人買い物に出た。私の家庭着の服地2着分とサンダルを買った。たいした買い物ではないので、抽選を2回まわす分しかなかったので、人も沢山並んでいるので抽選しないで帰ろうとした。主人が「目の前にあるんだから(靴屋の前が抽選場だった)引いたら」と言った。私の前の女の人は、事務員さんらしく片手に掴みきれないくらいの抽選券を持っている。待ち草臥れる位、うんざりするくらい「ティシュ」を貰っている。

やっと私の番が来た。目の前の「ティッシュ」の山を見ているので2枚と言うのが恥ずかしかった。何の希望も持たず「ティッシュ」2枚貰うつもりでまわした。
ポロリと一つ、何かも確かめないで続けてもう一回、「あれ?色が違う・・・」後ろから主人の声「ハワイや・・・」私も色を見定めるべく目の前の垂れ幕をみた。
白(確かそうだったと思う):特賞・ハワイ。あまりに思いがけない事が起きると人間って何の感動も無く「あら、そうなの?」って冷静である。

主人が後で言うには、私が一回廻して白が出た時、係りの人が「あっ!」と声を上げて垂れ幕を仰ぎ見たんだそうだ。それで主人もつられて見ると「大当たり」だったと言うのです。早く廻して「ティッシュ」2っ貰って帰ろうとした私は、確かめもせず続けて2回廻していたのです。

係りの人に連れられて、商店街事務所に行き手続きを済ませました。それから日にちがありません。パスポートを取る為に屋久島の役場に抄本を依頼したのですが、田舎の役場はのんびりしていて、中々送ってくれない、電話してやっと送ってもらって、今度はパスポートが今のように早い事務処理ではありません、3週間ぐらい掛かったと思います。ギリギリセイフで間に合いました。

前日6日間の食事の用意をして冷凍しました。一寸待って?その時分冷凍庫あった?なかったわね?では冷蔵庫だ。何しろ6日分用意したんです。

今思えば笑い話、下着を全部新品にしました。もし事故にあっても恥をかかないようにと・・・。その時は真剣に考えたのです。事故ったら身体はばらばらか丸焦げになるのにね・・・経験が少ないと言う事はこんなものでしょう。今でも飛行機に乗る時この事を思い出して1人苦笑する事があります。

飛行機が飛びました。ハワイ空港では良い香のレイが一人ひとりに掛けられました。それから続けて半日コースのツアーでした。後は私はオプションでマウイ島に行きました。早くに起こされて日帰りの旅ですから、何だか眠りに行ったようなものでした。

部屋割りは年齢の近い順のようでした。私の同室は堺?のタオル工場の奥さんでした。ご飯時はどうして参加したかの話になります「私はたった20枚で当たったのよ」「えっつ!すごい!私は100枚以上よ」って。私の番です「私は2枚よ」皆さん驚きます。信じられない顔です。次々に話は広がりました。

私は動物園とスーパーに行こうと思っていました。同室の方と隣の部屋の二人が私の後を付いてくるのです。私は1人で行動したいのですがぴったりとくっついてきます。悪いな~と思ったのですが苦肉の策、彼女がトイレに行っている時に「一寸買いたい物がありま~す」って飛び出して目星を付けて置いたスーパーへ直行・・・心置きなく見て廻り息子達にトランプ(その当時の日本製は紙でしたが、アメリカ製はすでにプラスチック)と自分自身には可愛い猫の絵のトランプを買いました。今でも使っています。町に出て、主人にはゴルフクラブの可愛いキャップや珍しい酒の友等、こまごまと両手に一杯買い込んで帰りました。

所がそれを見た彼女達が「私達も欲しい案内して」と言う事になり、又4人金魚のフンよろしくつらなって、お店に逆戻りです。海岸は歩いただけで泳ぎません。後はブラブラウインドウ・ショッピングです。

ホノルル動物園行きましたよ。規模としては小さいと思うのですが、いえいえ、調べますと随分変わっているようです。放し飼いにされて、南国ゆえ鳥が奇麗とか。とても面白いと思った檻(今もあるのかな~)がありました。檻の前には「世界中で一番恐ろしい動物」と書いてあるのです。何だと思います?檻の中には鏡が一枚・・・そこには覗いている人間(私)が写っているのです。そうです「世界で一番恐ろしい動物」は「人間」です。シャレて居るとは思いませんか?































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サウナ

2006年06月27日 | 思い出話
esute              ワノソトユア
           日本名が判らないのです
       これも小さな花です、去年の秋植えました

神戸に「レディースサウナ」が出来て間もなくです。お嫁さんのお仕事完了後、色んな事に動き始めました。私の友達が次男に会った時「お母さん如何している?」と聞いたら「お母さん家に居ません」と答えたって。姑を見送った後2ヶ月位は原因不明の微熱が続いて、ホームドクターにご心配を掛けたが結局は色んな検査でも悪い所が見当たらず、単に「疲れ」だろうという事になった。

疲れの取れた頃から色々始めました「太極拳」「カスパリー編み」「ジム」「食べ歩き」、「サウナ」もその一つです。主人が「神戸サウナ」に通っていて「今度女性サウナもできた、行ってみ~」と教えてくれた。

初めての所に初めての経験をしに行くのですから緊張しました。今のように色んな浴場の一部として「サウナ」があるのではなく「サウナ」がメインです。大きな水風呂と湯船が在っただけです。「サウナ」から出て「水風呂」にチャポンと入るのは何とも気持ちの良いものでした。今はとても出来ません心の臓が踊り始めますから。

安静室ではゆったりした長椅子がずら~り並んでいます。私は2度「サウナ」に入ると此処で1~2時間眠ります。目覚めの時間帯に「エステ」の予約を入れておき、呼ばれると別室で「フェイシャル」を受けます。身体のマッサージ(按摩)もありました。色んな人にしてもらうわけですから、上手下手はわかるようになりました。

安静室のコーナーにはドリンクや軽食が取れる店がありました。何もかも割高です。でも時々「ドリンク無料」の日があるので、その時は私もその椅子の座って「ハイビスカス」のドリンク、色は奇麗な赤、お味はお世辞にも美味しいとは感じない酸味のある飲み物を頂きました。

あの震災の時、此処も崩れたんです。当時は24時間営業でしたから、居た人は驚かれたでしょうね。裸で飛び出した方もあったとか聞いたような・・・先日前を通りましたが立て替えて営業していました。どんなになっているのでしょね。一度入ってみたいです。

「サウナ」に来ていた人ですが、三宮ですから水商売の方が多かったようです。朝起きぬけに此処に来て、風呂に入り、サウナに入り、エステで手入れしお店に、磨きを掛けて「いざ出陣!」てなもんです。

トーアロードのエステの店も水商売の人が多かったです。私はパックの時間寝ているのですが、その方達はその時間を利用して、マニキュア、ペディキュアをして貰っていました。手と足と二人の美容員の方が付いているのがカーテン越しに感じましたね。水商売の人は服装もですが声でもわかります。何時も煙の中に居るから声が少し独特にしわがれているんです。

今突然思い出しました。「サウナ」に行く前に、何年か家の近くの化粧品やさんに「フェイシャルエステ」に通っていた事を・・・。此処には3週間に一度の割で通っていました。今も使っている化粧品を置いていたのがこの店だったからです。

あの頃の日焼け止めと言うのは1時間位しか持たなかったのです。その化粧品だけが3時間ぐらい持つというので、探しているとこの店にあったからです。

何故日焼け止めが必要だったかといいますと「ハワイ」に行く為です。思いもかけず「心斎橋の夏の抽選会」で特等「ハワイ旅行」が当たったのです。それも2枚の抽選の1回目で当てました。今になって主人が言います「あの時『行ってもいい?』と聞きもせずに係員の人に付いて手続きしにいったな~」1等が「香港旅行」でした。だから私の始めての海外旅行は「ハワイ」だったのです。

その頃はまだ大阪から「ハワイ」直行便は飛んでいませんでした。心斎橋が何年分かの当選者と(各々お店のお得意さんを安い料金でご優待と聞きました)を集めてチャーター便を飛ばしたのです。私の時が最終でしたので、7月に当選して9月に「ハワイ」に飛びました。チャーター便ですからお酒飲み放題です。今は無い「パンナム」でした。

今通っているジムが建て直しで「サウナ」が小さくなったんです。石を焼いて温めているのですが、以前の時はこの石の在り処が凸で仕切りもあり直接見えないようになっていたのですが、今度は部屋の隅にあり柵はあるがむき出しですので、直接熱さが伝わって、温度は同じでも身体に感じる感覚は熱~い。ブーブー文句言いながらも入っています。水風呂も出来ました。プールはホテル並です。何ぼ奇麗でも私は泳がないモン!











































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エステ

2006年06月26日 | 今日この頃
              ? ? ? 
        お隣から飛んできたのは解っています
          名前を聞いても解りません
      長~いお首の先に2mmほどの花が固まっている

今日は久し振り、いえ15年ぶりの「エステ」です。先日?万円の化粧品を買って、「無料エステ」の権利を得たその日だ。一度に?万円買ったらのサービスなのか、ポイント方式で?万円たまれば権利が発生するのか聞き忘れた。

今日の説明では私が化粧品を買った時は一度に?万円買ったらのサービスだったが、この6月からポイント方式に変わったので?万円貯まったらの権利に変わった。だが今までの2.5倍も貯めなくてはサービスを受けられなくなった。その代わり今まで以上のサービスとなるそうだが、私は今日ぐらいのサービスでいいけどな~。

狭い一坪ぐらいの部屋に寝椅子が一台、ズボンはそのままで上だけ着換えて欲しいといわれた。「リラックスしてください」と懐かしい蒸気の出る機械が顔をめがけて進んできた。「お化粧をしておられないようですが、一応ふき取ります」ふき取った後マサージが始まった。職業柄爪は短く切っているが、一箇所だけ爪を感じる時があるな~と感じながら気持ちよくマッサージを受ける。時々壺を抑えるがこの人は実に正確で気持ちが良い。下手な人だと微妙にずれたり力が入っていなかったりといらいらするのだが・・・。

「ひんやり冷たいパックです」パックの間、前腕(肘から手首)をマサージしてくれていたらしい・・・と言うのが手を触られている気配まで解っていたが眠ってしまった。パックの後は「熱い」と感じるほどのタオルで蒸す。「顔そり」に理容院に行った時も蒸してはくれるが生あったかいから余り気持ちが良くない。「ハイ。お肌モチモチ、吸い付きそうですよ」で1時間のコース終了。

次はお化粧である。隣の半畳の間に移動。次の人が「フェイシャル」の方に入る。
私が教えられた通り、但しゆっくりと丁寧に塗ってくれる。目を瞑っているがその気配で塗り方の研究をする私。随分少量を丹念に塗る感じ。「マスカラを塗りましょう。斜め下を見ていてください」生まれて初めての経験「お目目パッチリでしょう?」そんな気がする・・・「眉は水で洗っても取れない眉ずみを使ってみましょう」実際家でお化粧を落とす時も取れ難かった。ほほ紅を差し「明るいローズ系の口紅を使います」鏡の中に少し若返った私が居た。さすがプロだ。化粧時間私5分、プロ30分。

帰宅した私を見て「やっぱりプロは違うな~。10歳位若く見えるで~」と旦那さん。やっぱりお金で若さ?も買えるんだ。女優さんが奇麗に見えるのもプロの腕ゆえか?何時もなら外出先から帰ったらお風呂に入ってお化粧も落としてしまうのに、今日は夕方まで顔を洗わずに、時々鏡を覗いている私でした。

40代から50代私は「エステ」に通っていた。神戸の「女性サウナ」に通って「フェイシャルエステ」を受けていた。お化粧をするのが面倒なのでせめて肌だけ清潔にと言う思いだった。

ジムに通いだすと、そこにサウナがあるので、エステ専門のお店に通いだした。
一番安いコース(一回2,000円)に毎金曜日通っていた。此処は、甲子園球場に行った日、時間が早かったので入った本屋の立ち読みで偶然見つけた。トーアロードのこの店は会員制で自分でコースを選び入会金を払う。コースによって入会金も違う。私は一番安い簡単基本コースを選んだので、忘れたが入会金も最低だった。

神戸のジムに行く前に「フェイシャルエステ」を受ける。此処は専門店だけにゆったりしたスペースだ。受付でロッカーの鍵を貰いロッカールームへ、ロッカーの中にはタオルとガウンが入っている。それに着替えて待っていると、エステルームに通される。そこには寝椅子が三台ありカーテンで仕切られている。一週間の汚れを取り除くだけなので、マッサージ、パックだけ、15分ぐらいのパック中は何時も寝てしまう。終わるとサロンでお茶を頂く、ロッカーの隣の部屋には色んな化粧品がそろえられているが、私は化粧をしないので使った事は無い。帰りに次の予約を入れて気持ちよく帰る。

主人の退職まで、週に一回10年間通った。安いお客様とは言え回数からすればお得意様か、私が指名したわけではないが同じ人が付くようになった。冷たくない美人で、マッサージの間一週間のお話をしたものだ。彼女が結婚の為止める事になり、住所の交換をした。今は和歌山のほうに住み、男の子二人の母になっている。年賀状の僕達の写真はお母さん似で美男子だ。

宝くじでも当たれば又通いたいけど・・・

































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老化に挑む(高齢者の脳)

2006年06月25日 | テレビから
            ふーこさんの百合
      昨日携帯のメールに奇麗な百合が入っていた
         パソコンの方に送ってとお願いし
            今日送ってもらった

としこさんの「朗読教室」の発表会がパレス神戸で行われたので聞きに行った。

としこさんは去年に続いて2年目の出演である。私も2度目のお客様だ。としこさんはピアノの先生で音大の仲間となさっていた「コーラス」(私達のコーラスとは大違い、歌は勿論ダンスもある衣装も変わる。)を勇退なさって(私は最後の舞台を拝見した)「朗読」に鞍替えです。

ご挨拶には:昨年ご好評を頂いた「源氏物語」に引き続き、今回は日本の文学や芸能の原点ともなった「平家物語」に挑戦いたしました。平曲から薩摩、筑前の琵琶曲として余りにも有名なものですが、今回は東京から新内須磨派の家元賀須磨寿々師をお迎えして、新内の名曲「敦盛最後」(一谷嫩軍記)を、さらに青柳流詩舞の青柳藍子さんにも参加いただいて「祇王」の一節を舞っていただきます。新しい趣向を交えながら、古い美しい日本語の響きをお楽しみください。

「新内」を楽しみにしていた。さすがお家元だけあって良いお声だ。又三味線が良い。先日の太鼓と言い、琵琶と言いこの度の三味線と言い日本の楽器は良いですね。又何でも本物を聞くべきと改めて思いました。

「祇園精舎の鐘の音・・・」と始まる古典なので皆さん相当お稽古をされただろうと察する。聞いていて解り難い所もあったが、有名な場面ばかりなので、それとなく理解できた。としこさんは「那須与一」の場を語った。 腹の底から声を出す事は健康にも良いし良い趣味だと思った。

中間にケーキと紅茶(コーヒ)タイムがあり、一息つけるのも嬉しい。これがフロインドリーブのドイツ菓子だったら良いのにな~なんて考えながら・・・ふんわりしたショートケーキよりかたいドイツ菓子がお好みなんです。

帰りはコスモポリタンに用事があり、センター街を通り三宮まで出たが、町は若者の町と化していた。大きな袋を提げた女性が多かった。給料貰ってお買い物なんだ。

           * * * * * *


先日、NHKスペシャルで(再放送)脳は本人の心がけ次第で生き返る。嬉しいですね。100歳前後の3人の方の脳を調べて、比べていましたよ。

Aさん:男性98歳で知的障害者の学校経営、自分の男の子2人が知的障害で教育を受ける事が出来なかったので、私財をなげうって学園を作った。子供3人にも先立たれた。数年前奥さんにも死別今は1人暮らし。健康を考えて若い時から朝の冷水摩擦、数年前から自分の考案した体操を5分間するそうだ。頭を鍛える為に60歳から韓国語、90歳から中国語を勉強。脳年齢は60代だそうだ。「与えられたものは忘れるが、掴もうとしたものは忘れない」

Bさん:男性100歳代マラソンをしていたが脳梗塞になる。次に妻の死、生きる希望を無くし走らなくなった。家にじっとしていると軽いボケ症状が出て、歩く事もままならなくなった。家人の後押しで歩くようになり、今ではスローペースながら毎日走っている。脳の再生が起こったのである。
「前向きに生きる、嫌な事があれば走る。そうすれば嫌な事は忘れる」

Cさん:女性100歳代。今も現役の三味線の先生。100歳過ぎた今でも、人に教えながら勉強も欠かさない。「勉強を忘れない」

「生涯現役」と言う言葉を聞くと、なんとなく収入と結びつけて考えるが、そうではない。自分で何か一つしたい事を決めたらそれをやり続ける。これぞ生涯現役だ。

脳は1千億の神経細胞で出来ている。考えたり記憶できたり出来るのは軸策で複雑に繋がっているから。神経細胞は一日10万個死滅すると、一旦死滅したら終わりと言われていたが、近年、新生する事が解ってきた。それには頭は使へば使うほど良い。処理すべき情報が多いほど神経細胞は新生する。

三人の方に共通するのは前頭前野が発達している事である。人間の脳は50ヶ所に分けられる。そしてその9,10番が前頭前野であり、それは海馬に繋がっている。海馬は知識のお蔵である。普通人が0.5の大きさならなら、お三人は1の大きさがある。お三人何らかの形で脳を使い続けているからである。

脳と言うのは筋肉に近いらしい。だから身体の筋肉と一緒で使うほどに脳の健康が保てる事が解ってきた。

その脳には過激な激しい運動は必要ない。ウォーキング程度の軽さでいい。継続こそ力である。

「自らの脳は自らの意志で育てられる」その年齢に相応しい運動量を継続して、脳の新生を促し、愉しき晩年を送りましょう!


























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勉強

2006年06月24日 | 思い出話
              メドーセイジ
             異色の紫?青?
         大きくなって草と言うより小灌木

姪(主人の姉の次女)の長男が賢い子だとは聞いていた。その子が進学校に入学した。4月終わりだったと思う「学校から英語を夏休みまでに皆の(学校の)標準まで持ってきて欲しい」といわれたと言うのだ。公立なら英語に対しては白紙で臨むはず、だが私立の進学校に入学する子は入学した時点で「英語」もそれなりのレベルは出来ているらしい。今から20年以上前の話だから、今の子の様に小学生から英語を学ぶという事は無い時代だが。

姪は「高い授業料を払って、その上家庭教師をつける余裕は無い。しげきの勉強を見てくれないか?」と言うのだ。普通の塾では進む速さが違うので駄目だと言う。2年間で中学3年までの教科書を終了するからだ。「しげちゃんと私の相性があえば見てもいいよ。でも何故私に頼みにきたの?」「実は私も忘れていたけど、しげきが『親戚のおばちゃんで英語を教えていた人いるやろ、その人に頼んで』と言ったそうだ。両親の話を小耳に挟んでいた彼が覚えていたらしい。

実は私のほうにも不思議な予感があった。小さいしげちゃんに会った事があるだけだが、その頃私はなんとなくNHKの「基礎英語」を勉強していた。しかし秋の涼風の立つ頃には私の心にも怠け心が芽生えて挫折。それを何年も繰り返していた。新年度になって又始めようという気になった時、顔も忘れた「しげちゃん」を教えるのに勉強しておかなければ・・・と言う気持ちが湧いてくるのである。この様な気持ちに何故なるのか自分では説明出来ないが本当の話だ。だから彼が進学校に合格したと聞いた時「もう英語の勉強はしなくても良いな?」と思ったのも事実だ。進学校に通った彼に私が教える事はないな~と思った。

姪の話で、自分の予感の的中した事にも、まして本人が聞きかじりの話を覚えていた事にも驚いた。日頃の行き来があるなら別だが、私としげちゃんは没交渉だ。運命とはこういうものだろうか。赤い糸で結ばれているのが結婚相手とすれば、私達は何色の糸で結ばれていたのだろうか?

相手に好感を抱き共に勉強する事になった。夕方5時半~7時迄週に6日、2年間彼は通い続けた。元々が頭の良い子だから、学校の授業には夏休み前に追いついた。先生も驚かれたらしい。頭が良いだけに直ぐ反発が来る「なんで?」「アンタのように何でも一言言わずに居れないのを『一言居士』言うねん」私は彼を一言居士と渾名した。2年生の終わりに中学3年間の勉強は無事終了した。「自分ひとりで勉強する事も大切だよ。基礎はしっかり出来たんだから、進学校にも行っているんだし」と私は二人三脚にピリョウドを打った。彼は4年後見事に京大現役合格した。

しげちゃんの小耳に挟んだ話とは:近所に住む親戚の男の子の勉強を見ていた事がある。この子は公立中学の3年間一緒に勉強した。

我家の次男である。中学生になっても、塾に行かずに私と勉強すると言う。1対1では続かないと思ったので「誰か一緒に勉強する人さがして」誘ってきたのがみつるくんだ。3年間通ってきた。5教科である。その代わり私は掃除洗濯が済めば、次男の机で勉強した。その当時「僕おばちゃんみたいに、人に教える人になる」と言っていたみつるくんが本当に先生になってしまった。

みつるくんは私立の高校を受験し合格した。学年では同じ高校を4人受けた。みつるくん以外は有名塾に通っていた子供達だ。4人中2人合格。これは何を意味するのだろうか?勉強は本人だと言う事だ。どんなに立派なカリュキラムであっても、本人がやる気が無ければ身に付かない。当時「トレーニングペーパー」と言う練習帳を教材にした。繰り返すと言う事が大切だと思っていたので。兎に角雨の日も風の日も通ってきた。「おばちゃん合格した」の電話に喜びと同時に毎日顔を見ていたのに、もう会えなくなると一抹の寂しさも感じた。実際には今度は「英語」だけ先生は主人に変わって高校の三年間、日曜に通ってきた。

我家の次男も母ちゃん先生の指導の下、「滑り止め」無し「公立高校」に合格した。これは父親との約束だった。「滑り止め」なしの受験は彼にとっても不安だっのだろう反抗した事もある。主人は「男同士の約束」と「公立一本」の一点張り。担任の先生がとても良い先生だったので、私は事情を話し密に連絡を取り合った。
「公立一本で良し」の許可が出たのは2学期に入ってからである。

今になればこの「男の約束」を守った事は本人に自覚は無いかも知れないが、彼の人生にプラスになっていると信じている。

















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懇親会

2006年06月23日 | 今日この頃
             ? ? ?
      いきつけの理容店の店先で涼しげに咲いていた
           名前は知らないって
        さし芽用に3本頂いたうちの1本
            親は枯れたそうだ

今日は「唱歌の学校の懇親会だった。とてもお世話好きの方が居られて、半年に一回ぐらい何処かで会を持っていたが、私は何時も欠席だった。この度は日帰り11人、お泊り11人。勿論私は日帰り組み。3時に授業が終わって待つ事30分、教室の前まで迎えのバスが来た。乗ると同時ぐらいに後ろの席から「飴」が廻ってきた。おばちゃんのグループのコミュニケーション。道中何も見るものが無いので「夙川」沿いを登りましょうと運転手さん。しかし皆にぎやかなおしゃべりで窓の外なんか見ていない気配。私も隣の方としゃべりながら目は窓外へ・・・

夙川は毎年桜見に来ている。その時は桜の色でそのあたりがふわっとピンク色、今日は緑一色で同じ場所とは思えない。夙川を離れて山に向かうこの道は数え切れないくらい通った道だ。私のお気に入り「北山植物園」前通過、日本中に名を轟かせている「甲陽高校」を左手に見て、この一本道を突き当たり、そこを右に廻ると、だんなさんか通い慣れたる「西宮ゴルフ場」。コンペの時にはお酒が入るので私がだんなと車を迎えに通った道だ。道が奇麗に整備され、車の量が多くなっていた。

ゴルフコンペのお迎えと言えば、「道場」とか「有馬」とか遠方の事もある、そんな時は一緒に乗って行って(弁当も持って)車の中で本を読んで待っている。しかしトイレは借りなければならない、誰がプレイしているか解っている訳で、その頃は女性はまだまだ少なかったので、なんとなく疑いの目で見られているような気がして、始めに受付に車で待つ事情を話して置くとトイレが借り易いと気づいた。運転手の待合室はあるが、そんな所で待ちたくないしね。名門といわれるゴルフ場ほど厳しい。

私も一応はゴルフクラブを買ってもらって、レッスンを受けたり、打ちっぱなしに行ったりしていたが、どうしてももう一つゴルフを好きになれぬまま止めてしまった。

丁度甲陽高校の下校時間らしく生徒の列が延々と続く、さすが皆賢そうな顔、顔、顔。長髪や茶髪なんて居ない。服も自由だがけばけばしいのは居ない。姪の長男も、あやこさんの長男もこうして此処に通って、京大に一発合格だったんだな~と彼らに彼らを重ね合わせていた。

兵庫県立甲山いこいの宿「六甲保養荘」こんな施設があるとは知らなかった。一泊二食つき7350円、アルコール持ち込み可。私達日帰り組みは3500円、到着後6時のお食事まで2時間もある、お腹が空いて仕方が無いので、幹事さんの用意して下さったお菓子をぼりぼり食べ、ぺちゃくちゃ話をする。

日帰り組みも温泉にはいってもいい、レンタルタオルもあると言われたが入らなかった。一応健康浴場「放射能泉・炭酸水素塩泉」だそうだ。気泡湯、打たせ湯、歩行湯、フォルガー(圧注浴:温熱と圧注の刺激により血液の循環を促す)もある。お泊りのかたは半数以上はいり、お洋服の御召かえである。

隣の人と「何年生まれ?」「11年」「私が一つ年上ね。私10年」「えっ!私より5,6歳お若いと思っていたわ。肌が奇麗だからかしら?」嬉しいね、嬉しいね5歳も若く見られた上に、肌が奇麗って・・・私の思い切り美容、大成功の模様。

22人の内半数以上がお酒のみ。ぐいぐい飲んで大らかになる。お金持ちさんの差し入れのビールをどんどん飲む。私はウーロン茶をゴクゴク飲む。

お食事が終わって「カラオケタイム」私のグループの人が「歌いなさい」って言うので、久し振りに「悲しい酒」を歌う。「アンコール」「アンコール」の大合唱、しかしそこは節度を重んじる私の事、再び歌う事はしなかった。皆さん歌が好きな人の集まり、1人一曲で十分ですよ。甘えてはいけない。後は演歌、童謡、叙情歌を誰かが中心で皆で合唱。歌好きの集まり、歌の途切れる事は無い。最後にはお手繋いで、アカペラで「・・・又逢う日まで」を歌う。

タクシー2台を呼んでもらって、大阪組、ご近所組みに別れて乗る、私はご近所組み、大阪組は遠方まで乗るが私達は逆瀬川まで1,460円なのでタクシーの運転手さんご不満のようだった。1人365円だもんな~。デモ私達に愚痴っても仕方が無いよ。保養所が呼んで、タクシー会社が受けたんだもの。

お泊り組の皆さんがお見送りの中を出発。今頃はまだぺちゃくちゃ、グイグイやってるかしら。女の人もお酒飲む様になったもんだね。

今日はうきうきの帰宅だった。「アンコール」の声を貰ったのは私だけだったし、美容の効果は現れてると言ってもらったし嬉しかったね。一寸褒められると喜ぶ私は単細胞だな~。
































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モニュメントバレー (続き)

2006年06月22日 | 思い出話
          神戸花鳥園の球根ベコニア
           ベコニアには青色がない
        今何処かで交配が進んでいるだろうか

モニュメント・バレー此処が私の今回の本命です。映画「駅馬車」の撮影現場だそうです。色んな形の変わった岩?土のモニュメントがニョキニョキ立って居ました。これが名前の由来でしょう。形はやはり叙々に変わっているそうです、天文学的数値の年月の後風化されてなくなるだろうと言う事です。途中駅馬車とすれ違った。本当は昨日実行されていたならば、私達も駅馬車の予定だったが、今は普通のバスです。来れただけでも良かったとと思いつつもやっぱり羨ましかった。西部劇の住人になり損なった。

途中一箇所バスは止まった。日本でも同じで、現地インディアンの手作りアクセサリーのテントの前です。私もネックレスを2本買ってしまった。色のハーモニーが日本人と違うんです。今でも気に入って使っている。

酋長だと言う恰幅の良いおじいちゃんと、見目麗しいインディアン嬢が馬を牽いてきて、少し歩いても良いし、写真だけでも良いと言うアルバイトです。写真は1ドルだ。勿論カメラは自分のもので自分達で写す、早く言えば馬に乗るのが1ドルかな。皆さんしり込みして遠巻きしているだけで写そうとしない。「お願いします」私は酋長の前に進み出た。馬に乗るのは始めてである。乗ってみて驚いた。馬って本当に背が高い、その上からだ(背)の幅がある、山では馬の背(馬の背のように両側が深い谷となって落ち込んでいる山の尾根伝いの道)とはやっと歩ける様な道を言うが、トンでもない、がっしりと幅があった。だから鐙まで私の足が届かない。写真なので足が鐙の上に届いているように見せる為身体を傾けた。見えないほうの足は浮いている状態だ。私の写真はしょうまが撮ったがピンボケだった。
私の後には続いて皆さん乗った。こんな経験が「旅の余禄」では無いだろうか。しょうまにも勧めたが「いい」と言う、このような積極性の無さが私は気にかかる。

ラスベガスに帰った夜、ホテルのショッピング街を見て歩いたり、簡単な食事をした。バーガーやさん(日本でもある飲み物飲み放題の店)だったが「・・・ください。此処で食べます」と言ってごらんとしょうまに教えた。蚊の鳴くような声で彼は頼んだ。彼が生まれて初めて英語を言葉として使った初体験だ。

翌日は免税品店とスーパー(私は外国に行くと必ずスーパーに行く。その国の生活が身近に感じられる様な気がするので)で買い物をした。暑いのなんのって、さすがサバクの中の町、43度の光が肌に突き刺さってくる。行きはバスで来たが、荷物もあるし、帰りはタクシーに乗った。その運転手が携帯で話しながらの運転で、高速道路を突っ走るので気が気でなかった。日本では考えられない事だ。私達が女子供と見くびったのかな~。
後は荷物を部屋に置いて無料のショウを梯子した。どれも無料にしては見ごたえがあった。

夜は「すき焼きとランス・バーディン・ショーを頼んであった。本当は「オー」を見たかったのだ。しかし未成年者は駄目だというのだ。仕方が無いのであきらめた。このときは「すき焼き店」と「ショウーのあるホテル」までの送り迎えは現地添乗員の方が面倒を見てくれたが、これも私達だけ。すき焼きを中国系の人が世話をしてくれるのだが間違いが多く、次に日本人の若い人に代わったがこの人も駄目。たまりかねて自分ですると申し出る。遠目とはいえじ~っと見ている。食べ放題なのでお呼びがあればと見ているのだろうが監視されているようで余り気分の良いものではない。時間に添乗員さんが迎えに来て劇場に連れて行ってくれた。

ショウは素晴らしかった。手先のマジックの時は大きなスクリーンが下りてきて、手先をしっかりと見せてくれる。全て英語だが、マジックなので不自由は無い。

見物客の中の子供を舞台に呼び参加させる。「アレッ?居ない?」と思っていると、なんと天井のシャンデリヤの上に移動している。なんといっても舞台の自動車が一瞬に消えたり、飛んだりには度肝を抜かれた。種のある事はわかっていても、不思議だし、驚きだし、結構愉しかった。

ホテルに帰ってから町が一望出来ると言うタワーに登った。この町とも明日はお別れ如何にか無事で、楽しめたと言う思いで眼下の夜景を楽しんだ。

しょうまに「何処が良かったか」と訊ねた。「何処もかも全て良かった。次もフリー・タイムのツアーが良いね」だって。人の気も知らないで!彼に不安を感じさせなかったのでこの旅は成功か?空港には私には亭主さま、彼には両親と妹が総出でお出迎え。無事帰国、目出度し目出度し。

翌年は香港に行った。その翌年からは妹にバトンタッチ、今の私のお相手は孫娘である。


























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モニューメントバレー

2006年06月21日 | 思い出話
            神戸花鳥園の球根ベコニア
            ダリアと見まがう大輪の花
       この種は芥子粒より小さいと信じられますか?

テレビでモニュメントバレーの映像を見て平成13年8月12日孫を連れて2人旅に出たときの事を思い出した。過ってメキシコもニュージーランドも1ヶ月も旅しながら何の記録も残していない。あるのは写真のみ、写っている所は思い出しても細かいところはすっかり忘却の彼方、アメリカの旅も始めは書き留めるつもりも無かったので、メモも無い。必死に思い出して、スペースが限られていたが、その頃所属していた読書会の冊子に投稿したものが次に掲げる文です。

20年ぶりのアメリカ
しょうまと二人グランドキャニオンへと向かった。心細いので初めてツアーにした。関空について驚いた。ツアーといっても行動するのは二人っきりだと言う。お任せで全てやって貰えると思っていたのに、私の頭が忙しく動き始めた。入管では、ホテルでは必要最小限の言葉が通じるかしらと言う心配である。しょうまも初めての海外旅行に興奮しているらしく、つまらない事を話しかけてくる。私を頼りにしていると思うと心配顔は見せられない。頭の中の計算が終われば「折角の旅行だ、楽しもう」と腹は据わった。

ロスに着き荷物を受け取り、ラスベガスへの乗り継ぎ場所に急いだ。そこでやっと同じツアーの人と現地添乗員の人に出会った。それも束の間又別々のホテルへ。翌日のキャニオン行きの飛行場行きのバスに乗り遅れてはいけないと思うと眠りは浅い。

小さな飛行機でキャニオンの上を飛んだ。何故か20年前に比べて緑が増えているような気がした。キャニオンの飛行場に付くと「午前中の雨で道が川になっているので、モニュメントバレーへの飛行機は飛ばない」と言う。老夫婦は「仕方ない、来年又こうか」と言ってる。私達はそんな事出来ない。こんな時、添乗員が居れば何とかしてもらえるのに。私達は今晩は此処泊まりの予定だから、行くのは明日でも良いのに。私はカウンターに行って見た。他のグループの人が何か交渉しているらしい、その成り行きを聞いていた。どうも交渉成立で「何人か?」といってる。「すみません私達二人も入れてください」と叫んでいた。厚かましいかも知れないがどうしても行きたかった。

翌日モニュメントバレー行きの飛行機を待っていると私達だけ呼ばれた。荷物を持ったまま秤に乗れと言う。飛行機に乗るのに何故?飛行機を見てそのわけが解った。なんと6人乗りのプロペラが二つ付いた小さな小さな飛行機だった。今更「行かない」ともいえない。若者二人と私たちと機長と言うメンバーだった。タラップの下で機長が「英語はなせる?」4人同時に「ノー」「じゃーカウボーイソングでも掛けますか」イヤーホーンからカウボーイソング、恐いと言う心を押しのけていた。景色はとても良かった。ぼんやり見ていた景色が「あれ!何か違う?」そ~でした。地平線が90度になっている。「わお!」思わず歓声を上げた。機長がその声に振り向いてニヤッと笑った。すごい経験をさせてもらった。私は嬉しくて「ヒヤ~ウワ~」と喜んでいた。ふとしょうまが大人しいのに気づいた。顔面蒼白、慌てて出したハンカチが間に合った。私の新しい帽子の上に戻してしまったのだ。二人の若者も声なし。男3人だらしが無い。気づいた機長が機体を正常の位置に戻した。折角サービスしてくれたのに、喜んだのは私だけ。その時思った。下からみたら、機体は真横になってた?そんな事無いよね、デモ地平線は確かに90度になってたよ。遠心力か何かの働きなんだろうか?私が夢見ていた?絶対正気・・・自分で説明出来ないだけ。

もう一つ吃驚した事がある。前の晩のグランドキャニオンでキャニオンの宣伝映画があるというので見に行った。室内の前面、上下、左右皆スクリーン、客席はすり鉢のようにそそり立っている。前の人の頭の辺りに私の足がある。そこで自分がカヌーか小船に乗った感じなんですから、その迫力は凄ましい。酔わないと自負している私でさえ、もう少し長ければ気分が悪くなったかもしれないと言う迫力。日本でもサントリー館がこのようなものらしい。一度行ってみたいと思っている。   

軽飛行機の機長さんは「きっと軍籍上がりの人で、操縦に自信があり、私達を喜ばせようと思ってやってくれた」と想像した。その他にもぐ~んと岩肌に近づいたりサービス満点だったのに、男3人がだらしないから・・・大きな飛行機の人達はそんな経験は無かったらしい。「あんな小さな飛行機で気の毒に!」と見上げていたそうだ。         《続は明日に・・・》
                          (80回)




























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橋田幸子さん

2006年06月20日 | 新聞から
         木立性ベコニア(オレンジルブラ)
          もう20年は居るでしょうか
    さし芽で増やしているが、斑ガ年々薄くなるのが心配

イラク・サマワに派遣している陸上自衛隊を撤退させると小泉首相が発表した。月内開始、8月完了とか。地元の人は「まだ電気も水道もまだ完全に出来上がっていないのに・・・」と完成させて欲しいようだった。

思い出したのが戦争ジャーナリスト「戦場のことは橋田に聞け」といわれた橋田信介さんと甥の小川功太郎さんのイラクでの銃弾に倒れた死である。

今年の3月2日その未亡人「橋田幸子さんの講演」を聞きに大阪に行った。行くか行かないかと随分迷った末行く事にした。テレビの幸子さんを見て「随分冷たい人」と思う人と「なんと気丈で立派な人」と見方が二分するようだ。私は前者である。それゆえに行動を起こすのに迷いがあった。

実際の幸子さんのお話を聞いて私の感じと全く違っていた事に気づいた。幸子さんは淡々と橋田信介さんとの出会いから死まで、そして彼の遺志を継いでイラク人の少年モハマド君を日本に呼び、目の治療をし、その為に集められた資金の残りで「モハマド基金」を立ち上げ、モハマド君の故郷イラク中部の都市ファルージャに子供病院を建てるべく頑張っておられた。幸子さんは今故郷に帰られ、ヨガや英語を教えておられるらしい。

幸子さんは静かに語った。「子供病院」の為の準備はすでに始まっている。今はいつ爆破されるかも知れないので病院の建設はしていないが、そこに勤務する先生の教育を始めている。特に女医を育てたい。なぜならばイラクでは女の人は男の医者には見てもらえないからと言う。お国柄とはいえ日本では考えられない事である。今選ばれた女医さんの卵は日本の何処かで一生懸命勉強しているのだろう。

皆様のお陰でモハマドくんに寄せられたお金は半分以上(金額も言われたが私が忘れた)残った。それを元に「橋田メモリアル・モハマド基金」を立ち上げた。一緒に亡くなった小川功太郎の遺族に話を持ちかけたが断られたので、一人で立ち上げた。

幸子さんは「主人」とも「夫」とも言わなかった「信介さんは・・・」と言う。一度だけ何の話のときか幸子さんが口を閉じ顔を上向けて感情を抑える場面があったが、それ以外は静かな声で淡々と話された。

信介さんが戦場に行くのを止めなかったのは「信介さんが一番輝いている場所だから、男の人が輝いて仕事が出来る場で働かせてあげたかったから」と言う。2004年5月27日一発の銃弾が戦場ジャーナリスト信介さんの命を奪った。イラク戦争におけるジャーナリストの死は50人を越えると言う。

モハマド君は家の窓辺で外の銃撃戦を見ていた。銃弾で割れたガラスが左目に入った。母親は家に居たが病院に連れて行ったのは帰ってきた父親だった。日本なら母親が連れて走るとおもうのだが、病院に行っても母親なら男の先生に診てもらえないと言うのがあるからだろうか。二度も手術を受けたが痛みは強く、疲労でふらふらになり気絶するまで眠れなかったと言う。

そんな息子の苦しむ様を見かねた父親が信介さんを訊ねてきた。親戚の1人が信介さんがバクダットの病院で負傷した子供達を取材している事を知って「親切な日本人がバクダットのホテルに居る」と聞いて「この子の目を治して欲しい」とマホメド君を連れてきたそうだ。

日本でモハマドくんの治療をするには渡航費や治療費を工面しなければならない。アムスティ・インターナショナル日本、日本赤十字、国境無き医師団、全国各地のNGO(非政府組織)事務局等片っ端から電話したが、何処も個人の患者を受け入れてくれなかった。仕方なく幸子さんの知り合いの沼津の病院が受け入れ先と決まった。信介さんは再びイラクに渡りモハマド君とその父親を連れて日本に帰国する前日凶弾に倒れた。幸子さんはその手続きを引き継いだが、バンコクで信介さんの密葬の為残り、モハマド君を日本に連れて行ったのは、信介さんの取材仲間やテレビ局のスタッフだった。日本では沼津の仲間達が待っていた。幸子さんがモハマド君に会ったのは手術後10日も経ってからである。

二度目の手術の時は疎開先(ファルジャーから逃げている)に家族を残した父親は残り代わりに叔父さんが付いてきた。手術により失明していると思われた左目も僅かながら視力を得た。モハマド君は言う「日本にこれて、目を治してもらって本当に嬉しい。勉強して目を治すお医者さんになりたい!」

戦火の収まったファルージャに子供病院が出来、いつの日か、そこの眼科にモハマドくんの姿があるかもしれない。日本で学んでいる女医さんの姿もあるだろう。
形こそ違え信介さんの遺志を立派に引き継がれた幸子さんにエールを送りたい。






      




























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