ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

生き急ぐ

2006年04月30日 | 新聞から
             ビオラ
      花一杯の会からお土産としていただいた
     この淡い色が今年の我家のビオラのピカ一だ

・・ホリエモン力失い「自由」得た・・と言う見出しで小さな囲み記事が目に付いた。読み進むうちに彼の話として「拘置所の中ではいろいろ考える時間があった。今思うと、生き急いでいた」と書かれていた。「生き急ぐ」と言う言葉に「あら!同じ・・・」と驚きとも喜びとも付かない気持ちになった。

下記は1月に会を去る時の私のクラブの皆様への挨拶状ですが。図らずもホリエモンさんが同じ言葉「生き急ぐ」を使っていたからです。

「逢うは別れの初め」と申します。お仲間に入れていただいて、七年半、愉しく学びました。まだまだ皆様とお勉強したい気持ちは一杯なのですが、今の私の体調で続ける事が、私にとって「生き急ぐ」事になると思うようになり「転ばぬ先の杖」と退会を決めました。「知るを楽しむ」は小さな旅と読書と言う元の生活に戻したいと思います。私も身体の声に耳を傾けながら、精一杯生活を楽しんで参りますので、あなたも「今」を大切に学ぶ事を楽しんでください。本当に沢山の愉しい思い出をありがとうございました。何時か何処かで 貴女の素敵な笑顔に出会える事を祈りつつ・・・ おげんきで  さようなら


彼は30代で「生き急ぐ」事を感じた。私は70代で始めて感じた。その差は大きい、
これを読んだ時「拘置所暮らし」をプラスにしたと私は感じた。

粉飾決算・・・それ自体は悪い事です。それを通してしか株主は内情を知ることが出来ないのですから。でも、でもですよ。粉飾決算がばれた会社は今までも多々あった。でも頭を下げた社長を見た事はあるが、調べの進まないうちに逮捕って聞いたことない。なのに何故この度はこんなに急いで、大騒ぎになるの?彼が選挙に出たり、放送業界にいり込もうとしたり、目立つ行いが多かったから?ホリエモンさんの味方をするわけではないけれど、私の心が疑問を呈している。

「ライブドア」は株を一般の人が買いやすく小型に分割したために、株主の数がふえ、損益を出した人が多く、保障を求めているとか、これも変よ。株ってそういう物でしょう。誰でも儲けたいと買うのだけど、思うようにならないのも株でしょう?損する事も覚悟で株投資ってするものだと思うのですが、間違ってますか?

株は素人はなけなしのお金でするものではないと思っていますよ。ましてパソコンでの取引、現物を見ない取引なんて一般の人のすることではないと思いますよ。「ライブドア」はその取引が多かったため、株券の手持ちがなく、改めて印刷して、株主の手元に届けるのに何億って費用が掛かるそうですね。

「平等」が声高に叫ばれる世の中だから皆で買って皆で儲けましょうっていうのですか?儲ける人があれば損する人があるのが世の中ですよ。その覚悟なくして株に手を出すなんて、どんな理由があるにせよ株主にも自己責任ありだと思いますよ。

ホリエモンさんは今度の経験を経て「生き急ぐ」事の危うさを感じたでしょう。「まさかの友が真の友」も経験されたでしょう。まだ若い貴方、考える時間を与えられたのですから、人生の踊り場で立ち止まり、ゆっくり出直してください。



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横田早紀江さん

2006年04月29日 | 雑誌から
         紅白のマーガレットの揃い咲き

まもなく早紀江さんはブッシュ大統領に逢われる。小泉さんは会見で「ブッシュ大統領が会うということは、拉致問題に力を入れると言う事でしょう」って人事みたい、貴方の国の事ですよ!米下院外交公聴会の席は満席だった。そして早紀江さんの訴えを聞いた議員からは「核より、拉致問題優先」の声も聞かれたとか。日本の議員さんどうします。恥ずかしいとは思いませんか?阿部さんを初め少数の人の力だけではどうにもならないから、アメリカ頼み、他力本願ですか!

娘をが拉致されたと知ってから9年の年月が経過している。何故なの? 早紀江さんの苛立ち、怒り、悲しみ、同じ子を持つ母として痛いほど解るが、どうすれば良いのか解らない。拉致が私達に知らされた頃、神戸で署名もし、寄付もしその頃はまだ青いリボンでしたが、外出時には身につけてもいました。でもあれからも数年がたった。

早紀江さんの心からの叫びが人の心を打たないわけがない、唯通訳をはさんで異国の言葉に変えられた時どうなんだろう、早紀江さんの表情がそれを補ってくれるのだろうか・・・めぐみさんの「おかあさん助けて」と壁をかきむしって、暗い海を運ばれていったと聞かされたときの早紀江さんはどんな思いだったろう。その母の心をしっかりと受け止めてくれるだろうか、こうなればブッシュさん聞いてください、受け止めてください、手を貸してくださいと祈るほかない。

「子どもたちが助けを求めている間は、どんな事があっても倒れる事はできません」と早紀江さんはいう。早紀江さんの心の中のめぐみさんはいまだ中学生なのだろう。今は40になるめぐみさんをどのように心に描いておられるのだろう。逢わせて上げたい、抱きしめてあげて欲しい、私達はどうすればお手伝いできるのだろう。

早紀江さんも悲しい運命を生きてこられたが、めぐみさんはまだその上を行く、家族と離され、又我が娘とも離されている。親子はよく同じような運命を辿るとは聞くが、余りに酷いではないか、彼女に何の罪があるというのか・・・

私から見てもヘギョンちゃんはめぐみさんにそっくり。早紀江さんは「どうして逢いに来てくれないの」と言うヘギョンちゃんの言葉を聞いて抱きしめたかったでしょう。でもおじいちゃんは「逢いに行きたい」と言葉に出されたが早紀江さんは堪えて口にはされなかった。そうすることでめぐみさんの拉致問題にピリョウドを打たれる事を恐れて。

このとき私は父親と母親の違いだと感じた。世間では「孫は子より可愛い」という。これは男の考えた言葉だと思う。確かに孫は可愛い、その行く末を見たいとも思う、しかし10月10日お腹で育て、最後の苦しみの中から身二つになったわが子より可愛いものがあるだろうか?

こんな話がある、高校の友人で私より先に孫が出来た人がいた。「孫って子供より可愛いって本当?」と聞いた私に彼女は憮然として「子供の方が可愛いわよ」と言った。彼女は結婚するまで産婦人科の看護士だった。「痛い痛い」と騒ぐ人がいると、もう少し辛抱すれば良いのにと思っていたけれど「自分が生む時は本当に痛かったわ」と笑っていた。

早紀江さんだってヘギョンちゃんは可愛いし、母親と別れている彼女を愛おしいと思うだろう、しかし早紀江さんにはめぐみさんあってのヘギョンちゃんであろうと私は思う。そこが男と女の違いであり、ご夫妻の意見の相違であったろう。

もうすぐ母の日が来る、今年の間に合わなくとも来年の母の日には早紀江さんとめぐみさん、めぐみさんとヘギョンちゃん二組の親子三代の笑顔が見られたらと切望する。





コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生涯の友だちとおしゃべり仲間

2006年04月28日 | 思い出話
             中田家の一葉さくら
      花の中心から小さな葉っぱが出てくる事から・・・
            花見のクラス会を持った
       花にはまだ早く、姥桜5本が話に花を添えた
           翁はいかに感じられしや?


中山あい子さんがこんな言葉を書いておられる。
生涯の友だちと言うのは精々三人いればいいが、愉しいおしゃべり相手は多いほど良い。人間一人ひとり考えも云う事も違う。沢山の知り合いの話を聞くことは、それだけ様々な人生を知ることである。

なるほどね~。同感同感。

若かった頃の私はどんどんお友達を作って、賑やかに最後を見送って欲しいと思っていた。お式の侘しく寂しいのは嫌だな~と思っていた。でも今は違う、自分が年を取るということはお友だちも皆年を取ることで、逢っている時を愉しく過ごせればそれで良いのではないかと思いは変わってきた。見送りは肉親だけで良いのではと・・・息子には仲良くしてもらった方々にお礼の葉書だけ出してもらえば十分ではないかと考えが変化した。

この一二年お別れの式に出て、つくづく思う。本当に心から来ている人は何人いるのだろう?大多数が浮世の義理からではないか、それは待っている時の人の世間話が示している。又気分が悪くなって周りに迷惑を掛けた老人もいた。お知らせを受ければ私はこれからも行くと思う。しかし生涯の友であれおしゃべり友だちであれ、自分の時はもういいのではと思っている。

何方かが言っていた。年を取れば不義理も賢い生き方の一つだって。中村メイコさんは知人のお葬式には必ず顔を出す事で有名だそうだ。それも一つの信念かもしれないが、心からの場合を除いて私はそろそろ浮世の義理からは離れて行きたいなと思っている。湿っぽい話はこれくらいでお終い。

中村メイコさんとは同世代です。私が10代の頃、中原純一さんの「ひまわり」「それいゆ」を愛読していました。病的なまでに大きな瞳の女の子の絵が大好きだった。その絵の女の子のようなボーイのモデルが今の三輪明宏さんです。若い頃の三輪さんはとてもほっそりとしていました。「ひまわり」の読者投稿欄に毎月採用されていたのが中村メイコさんです。私も投稿していましたが、一年に一度か二度採用されるだけでした。毎月真っ先に開くのが投稿欄で、メイコさんの文章はユーモアがあって愉しいものでフアンの一人でした。

私にもたった一人のフアンがいました。ある日「私は石坂洋次郎の姪です。文通をしていただけませんか」と言う葉書が来ました。石坂洋次郎といえば「若い人」の作家で時の人でした。私は喜んで文通を始めました。とても大人びた字の奇麗な人だったと覚えています。お元気かしらと、たまに思い出す事があります。

あの頃は余り娯楽もありませんでしたし、いろんな形の文通が流行っていました。
神戸市がアメリカのシアトルと姉妹都市になった記念にあちらの人と文通をしましょうと言う企画が有り、それを知った私は市役所に相手を紹介してもらいに行きました。リズ・ガードナーという女の方で、古い手帳に初めの住所が残っていました。でも暫くして彼女が結婚したと言う葉書が来て、忙しくなったのでしょう文通は途絶えました。顔も知らないのですが元気かな?と思い出すことがあります。

こうして次々と昔を懐かしく思い出すのも加齢現象でしょうか?











コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

友人と仲間の違い

2006年04月27日 | 今日この頃
            東山山荘のさくら


「友人」と言うのは「仲間」とはちがって、群れるわけではなく、何時も何時も一緒に居る必要もなく、お互い仕事を(生き方を)暖かく見守りながら「元気だった!」と再会を喜び、語り合う、そういうものです。
村上龍さんのRyu's倶楽部の「仲間」ではなく友人としての後書きです。

退会して後、「やすこさんの家に行くのでご一緒しませんか」とかずこさんからお誘いのメールが入った。私は「喜んで」とお返事した。今月半ば集まった。1月まで少なくとも月一度は会っていた人たち、まだ3ヶ月と経っていないのに、半年も一年も逢っていないような懐かしさを感じた。かずこさんも同じ事を言った。5時間半話は弾んだ。その時上記の書き抜きを思い出した。「仲間」から抜けた私は彼女達とは「友人」になったのだと。

来月にはとしこさんとたかこさんの再会が予定されている。としこさんのメールが一番早く来たのだが、三人のスケジュールが合わなくて(凄い!)延び延びになっていた。彼女達とも「仲間」から「友人」に代わる大事な再会である。

メル友は「仲間」であり「友人」でもある。さてどちらのパーセンテージが多いのだろうか?ひとそれぞれの考え方かな?

昨日、京都にお食事に行ったんですよ。「東山山荘」って言うのです。JR京都駅にお迎えに来るはずのバスが来なくて、3台のタクシー(相手払い、一台1,520円)を連ねていきました。着きますとまず囲炉裏が切られ、100年前のドイツ系オルゴール、地方の古い箪笥、時計、獅子頭、酒器、帽子等々骨董品に囲まれたお部屋に通されお茶を一服頂きます。「お料理が出来上がりました」の声が掛かるまでオルゴールを聞かせていただきましたよ。オルゴールで新知識、音楽を刻んだ盤(直径60㎝以上)は今でもドイツの会社に頼めばどんな曲でも、1曲50,000円ぐらいで刻んでくれるそうですよ。但し送料が本体より高いそうですが、2ヶ月ぐらいで出来るそうです。日本のように新型が出来ると旧型の部品がなくなる国とは大違いですよね。

お座席に席を移し、一品ずつ運ばれてくるお料理に舌鼓をうち、一時の「セレブ階級」に移籍した様な気分を味わいました。

食後はしばし桜の咲くお庭を散策・・・されど待てど暮らせど送っていただくはずのバスが帰って来ない「道が込んでおくれております。タクシーをご用意・・・」とて又あちら様のお支払いタクシーにて最寄の駅までお送りいただく。今日のお支払いの数%はタクシー代の露と消えたであろう。そうだその上、お飲みになる方が頼まれた白ワインが栓を抜いた時赤ワインであったと間違いに気づき、これまた新しい白ワインにお替えいただく。出てきた白ワインの名前が「王様のなみだ」グッドタイミング、何を訴えているの?

食欲を満たした後は知識欲とて「思文閣美術館」へ「長艸(ながくさ)の仕事展を見に行きました。日本刺繍の美しい事、でも気の遠くなるような手先の仕事8,000色の糸を使っています。昔の自然の物の染色ではなく、化学染料で染められていますので、昔のものに比べて華やかな色合いです。ちょうど来られた長艸氏は「染料に中心を置かず、日本刺繍そのものを伝えたい」との弁、お会いしたのが幸いと撮影禁止の作品の前で先生を囲んで記念撮影をさせていただいた。

さてこのグループですが、地域の集まりから派生して出来たもので、何時も同じメンバーではない。しかしこうして時々群れるので「お仲間」と言う事だろう、「遠くの親戚より近くの他人」と言う通りこのグループの「お仲間」からは「友達」に変わってはならないと思っている。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おゆきさん

2006年04月26日 | 思い出話
              花ニラ
    お友達から他の花をいただいた時付いてきました
  香りは良くなく何処にでもある花ですが子孫繁栄の手本

メキシコ在住のおゆきさんからの2度目のメールはご主人が亡くなったという悲しいものでした。今日4月26日が一周忌です。日本で福知山線脱線事故に心塞いでいた私が少し落ち着いた6月その知らせのメールを受け取ったのです。主人は電話をする様にといったのですが、私はどうしても出来ませんでした。唯涙で何も言えないと思うからです。私は1月にやはり未亡人になっていた、しっかり者の仲良しさんに「メキシコに電話して!」と頼み、私はやはりメールにしました。自分でも情けないとは思いましたが、それが私なのです。

ご主人は身体の大きな方で、メキシコに空手を広め「メキシコの空手の父」と呼ばれておられたそうです。晩年は空手に力を注いでおられ、お弟子さんを連れて何度も日本に来られたようです。お酒もタバコも嗜まない方ですが、家系として心臓病を持っておられ随分気をつけては居られたようですが・・・
今の73歳は若いのですが、京都から駆けつけたよしえちゃんもちゃんお別れがと出来たそうですし家族に囲まれ旅立たれたそうです。幸せな最後だと思います。

何故2度目のメールかと言いますと去年の2月に「メールデビューです」と突然メールが入り驚きました。次女三女はメキシコで結婚していますが、長女は京都に居ますから、私も何度か勧めたのですが「ノー」と言う答えが返るばかりだったからです。ご主人のお友達が機器一式を持ってメキシコまで教えに来られたそうです。

唯、私とのメールの相性が悪く、メキシコからは来るのですが、私からのメールは届かないのです。「初メール」へのお返事だけは届いたそうですが。残念ですが何度試みても駄目なんです。それだからと言って返っても来ないのです。必要な時は「京都のよしえちゃん」経由で転送してもらうと言う形を取っています。本当は頻繁にやり取りしたいのですが。このブログからは通じるのではないかと祈るような気持ちで書いています。

彼女は上海からの引揚者で、一旦は九州にいて、中学2年の3学期に私たちの中学に転校してきました。放課後、私達が校庭でボール遊びをしていましたら、朝礼台にもたれて仲間に入りたそうにしている少女が居ました「入る?」と声を掛けたのが始まりです。3年に進級して今度は同じクラスになりました。それから毎日のようにお宅に遊びに行きました。おばあさんを中心にした兄弟姉妹の多い大家族・・・母子家庭の私の憧れの家庭でした。おばあさんも私を可愛がってくださいました。

戦後間もない頃です何処の家庭にもピアノがあるという時代ではありませんでした。彼女は早朝に音楽室で練習すると言う許可を音楽のなかがわ先生にもらっていました。その日は私も早く行って彼女が弾くそばで聞いていました。「エリーゼのために」と言う曲だと教えてくれました。あれ?「乙女の祈り」だったかな~。

又歌う事も上手で学校代表で元町の三越デパートにも出ました「歌の翼に」を歌われました。彼女が言うにはあがって間違ったそうですが、私は大勢の人の後ろから背伸びをして彼女を見ていた事だけを覚えています。音楽会といっても椅子があるわけではないのですよ。その頃は立って聞くのでした。

カラオケも大好きで「八代亜紀」の歌が好きだそうですが、なんと言っても原語の「ベッサメムーチョ」は一品です。訪日した時は必ずクラス会を開くのですが、皆のリクエストは「ベッサメムーチョ」です。とてもとても良い声です。

外国生活が長いからか何所となくハイカラさんのおゆきさんと私が出会って半世紀以上が経ちました。メキシコと日本では中々会うことは出来ません。去年の来日時「もう何度日本に来られるかしら?長い飛行時間が重荷になってきたのよ」と心細い言葉が出ます。ご主人を亡くされた心の弱りからと信じたいです。よしえちゃん一家や私たち友達のためにこれからも何度でも来て下さい。待っています。そして私ももう一度メキシコに行きたい!!









コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR福知山線脱線事故

2006年04月25日 | 花物語
              宝  塚

一年が過ぎました。去年の今日の朝食を人生最後の食卓と一瞬でも思われただろうか?そんな事ありえませんよね。青年の狂った頭と心の運転によって多くの尊い命が奪われた。貴女の命もその犠牲になられた。神様は何ゆえこんなむごい運命を貴女に与えられたのだろう。

貴女と私がお会いした同じ時刻の快速電車は春休みの為だと思いますが、事故当日程、車内は込んでいなかった。私はあの時間に伊丹から乗りました。一つ空いていた座席に座り車内を見ると赤のブレザーが目に付きました。目を留めたその先に貴女の笑顔がありました。私も笑顔で目礼をしました。あなたはご主人様でしょうお隣の方に盛んに話しかけておられました。尼崎でお辞儀だけのご挨拶をして私は下車しました。事故当日も貴女は何時もの通り、何時もの時間に何も考えず乗り込まれたのでしょう。数分後に大惨事に巻き込まれるとは露知らずに・・・  

所属していた会では貴女は大先輩でした。クラブも違いましたが、その年は貴女のお仕事を手伝う事になりました。実際には貴女が全てをなさり私は名古屋であった日本大会の1日目に貴女の代理として出席しただけでした。「ごめんなさいね。貴女に何も相談せず、一人で予算を立ててしまって・・・」と気遣ってくださる優しい貴女でした。一年後お仕事が終わり、私は貴女にお礼のお葉書を出しました。この「宝塚」の写真を使って。貴女はとても喜んでくださって「私は字は打てるけれど、こんな綺麗な葉書は作れないのよ。機会があれば教えて欲しいわ」って。その後、会でお会いした時は大勢の人の中から私を見つけて声を掛けてくださいましたね。「宝塚元気にしていますか?」って。花は元気にしておりますよ。今年もようやく新芽が開き、まもなく花を咲かせますよ。「宝塚」を見るたびに貴女の笑顔を思い出します。ご冥福をお祈りいたします。

            ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

貴女にこの「宝塚」を頂いて早4,5年になりましょうか?いくこさんと二人に頂きましたね。余り丈を高くしたくないので切り詰めますが、幹の太さは頂いたときは1㎝ほどでしたが、今は3㎝ほどに太く花数も年々増えていますよ。その貴女が去年の9月脳血栓の二度目の発作で倒れました。目の前で起きたことなのに今だ信じたくない気持ちです。一度目の時も、その後、足を怪我された時も、私はお見舞いの葉書を(自分の作品を使ったもの)出し続けましたね。「私が元気になったからだと解っているのですが、貴女からのお葉書が来ないのがさみしい」とメールくださいましたね。「嬉しかったよ」と言う貴女の言葉を信じて、この度もリハビリ中は楽しいお葉書で貴女を励ますつもりで居りました。だのに、だのに、貴女はまだ眠り続けたまま・・・ 7ヶ月が過ぎようとしています。

私の「宝塚」は常識的には不吉な花の位置にいる。しかしそれ故に私はこの花が尚愛おしい。花を見てそれぞれの人との思い出を大切にしたいと思っている。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛騨高山春祭り(4)

2006年04月24日 | ちっちゃな旅
         JR下呂駅プラットホームからの桜

風邪のため入湯を控えていたが、折角日本で3本(草津 有馬 下呂)の指に入ると言われる下呂温泉に来ながら、入らないのも惜しいので、朝風呂に入った。主人のように温泉大好き人間ではない私でさえ、「お肌によさそう!」と感じる優しいお湯だった。

宿でゆっくりするつもりが、貧乏性と言うか、せこいと言うか、切符は午後だったので、宿から歩いて5分の「合掌村」に行く事にした。此処にも「朝市」があた。
その前を通ると近道で「合掌村」に行く事が出来る。

そこの桜は満開だった。一軒の中で老人が黙々と「わらじ」を編んでいた。私も縁故疎開で富山の砺波郡に疎開していた時、編んだ事があるので懐かしかった。小さな篭の中に「1,5cmほどのわらじ」がちゃんと一足でストラップになっていた。「91歳のおばあさんが編んだんだ。足腰丈夫のお守りよ」こんなに小さいのをどのように編まれたのか、足腰丈夫につられて500円でお買い上げ。

屋内の二階は富山と一緒で「蚕の棚」があった。私が縁故疎開したのは2ヶ月だけで、夏だったけれど、1階の囲炉裏は使われていたと記憶する。囲炉裏の周りを囲んで食事をする。囲炉裏の灰にくべて焼かれた「玉蜀黍」おいしかったな~。天井は煙が抜けるようにだろう板と板の間が開いていた。そこから時々「蚕」がポトンと落ちてくる。恐いと思っている私の上に落ちてくる。私は飛び上がったな~。沢山居ると「蚕」の桑の葉を食べる音ってすごいんだな~。何しろすごい食欲なんだ。「桑のは」をやる仕事をするのだが私は恐くて気持ち悪くて出来なかった。

仏間は南向きの大きな部屋で、大きな仏壇がで~んと据えられていた。家族、特にお嫁さんの部屋は北側の薄暗い小さな部屋だった。子供の私でさえ「嫁」の居場所でその立場が感じられた。牛部屋は同じ屋根の下にあったと思うが、お便所は外だった。夜中、外に出るのは恐かった。お便所といっても足を置く板が2枚掛っていると言う感じで中央から下丸見え、戦時中だからかも知れないが確か「わら」で拭いていた。水は裏山から引かれて台所の竹筒で受けていた。入り口の前に小さなせせらぎがあり洗濯はそこでしていた。

園内の演芸館しらさぎ座で「夢芝居」をしていて、主人が見たいと言う。2時間見ていると電車に間に合わないので1時間だけ見る事にした。桟敷を区切っている仕切りは通路だそうで、その上に「おひねり」用の紙の入った篭が置いてあった。芝居の1時間が過ぎ、幕を引き始めるとおひねりが数十個飛んだ。思ったより人が(100人程)入っていた。時間で帰りかけると「これからが歌謡ショーで良いのに帰るの?」と言われた。歌好きの私後ろ髪を引かれる思いで退出。

無事立花に着いた。お医者さんに駆け込んだ。「風邪です。こんな売薬飲みました」「風邪?珍しいですね」そう言われれば風邪を引く回数がへったが、反比例して長引く。

何はともあれ、長々とお付き合いありがとうございました。
お疲れ様でした。






コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛騨高山春祭り(3)

2006年04月23日 | ちっちゃな旅
            夜祭の提灯を点けた山車

有名な宮川の朝市に行った。此処も20年前とは違っていた。
20年前と同じであれと思う私が間違っているのは解ってい
るが、懐かしさゆえにどうしても昔を求めてしまう。まず
衛生面のためか今はビールの箱の上に商品が並んでいる。
故に腰掛けている店主と客がしゃがんで話す必要がない。

道路を隔てた片側は普通の店舗になっているし、異様に
漬物屋さんが多い。自家製漬物あり、手作り小物あり、
野菜あり、花ありと万屋さん的なお店が減ってしまった。
お店も減って、空地が目立つ。私は早々に立ち去った。

高山線は1号車が全面大きなガラス張りで写真を撮るにも
もってこいである。来る時にそれを知ったので、1号車の
一番前があれば変更してもらおうと言う事になった。
幸いな事に席は有った。主人の希望が叶ったのである。
何故ならば喫煙席が1号車のみだから・・・
咳に苦しむ私の事は考えず、席で吸える事を選んだのだ。

下呂に着いて駅前の観光案内所にいった。事前の調べでは
「合掌村」位しかなかったし、白川郷や富山で合掌造りは
見ているので余り気が進まなかった。まず私の目に飛び込
んだのはテレビで見た「苗代桜」だった。それも明日まで
期間延長しているというのである。「見たい!」と思った。
しかし私の風邪は持参の薬ではだんだん効かなくなり、声
まで嗄れてきた。帰ってすぐの約束が頭を掠める。19日
21日22日26日とこのままで行けるのだろうか?(実際には
順調にこなしている)ままよ行ってみよう!会期延長され
たのも私を待ってくれたからだ・・・何てね・・・

申し込みを済ませたものの、夜出る事に迷いは有った。
まず「咳止め」を買うことにした。薬局を見つけたが不運
な事に今日は日曜日休みである。観光案内所に取って返し
「薬局がないか?」と聞いたが「駅の向こうに一軒あるが、
日曜日なので休みです。車で15分のところにコンビニが
ありそこならある」と言う。ケチケチ言ってる場合ではな
いとタクシーに乗り込んだ。運転手さんに話と「そんな遠く
まで行かなくても開いてる店を知っている」と言う。
店は開いていた。4時間毎の薬を買い時間は忠実に守った。

夜8時いよいよお迎えのバスに乗り込んだ。25分の距離で
ある。私は唯ひたすら「風邪が拗れません様に」と祈った。

桜の前に立った私「綺麗!」と叫んだのみ、後は言葉もなく
ただ目の前の桜を見つめた。周りの人もそうだ。携帯で
この美しさを伝えている人の声も上ずっていた。初めて見た
時の一言の他は皆無言である。シルエットだけが人間の
存在を知らせている。滞在時間は50分と言われていた。
この寒空に長時間どうしようとの心配は無駄。あっという
間に集合時間は来た。

私は元々木や花が水面に写っているのが好きなのだ。
だから被写体としてカメラに収める事はよくある。しかし
この度は私のカメラ、腕ではその美しさを捕らえる事が出来
なかった。しかしこの感動を伝える事はいかなる機器を使っ
た名カメラマンでも出来ないだろう。自分の目で、心で受け
止めてこその心の喜びだと感じた。

私達が着く前までは漣の為、水の上の桜は映ってなかったと
言う。なんて幸運なんだろう、私がその場に立ち、一目見た
時から上下対称の桜が待っていた。

この美しさをどのような言葉で表現すれば良いのだろう。
静寂 優雅 妖艶 言葉が見つからない。

醍醐の桜も吉野の桜も美しい。「苗代桜」は特別なのだ。
今はライトアップという力を借りているが、この木が若
かったその昔、人工的な助けを借りる事無く月光を受け
静けさの中に立って、少数の人の心を満たしていたのだ
ろう。それは夜にそこに在るからこそだろう・・・

満足満足な下呂のよるでした。  








コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛騨高山春祭り(2)

2006年04月22日 | ちっちゃな旅
              からくり人形 三番叟
             箱を開ければ童子が翁になる                

15日
宿舎に帰る道すがら薬局で「カイロ」を買った。寒がりの私
はまさかの為に「カイロ」を二枚持ってきていた、けれどそ
れでは足りそうにない寒さである。自分に必要な薬は自分で
薬袋に入れておくと言うのが旅のルールになっているが、袋
ごとぽんとほり込むのがO型の主人、3泊分きっちり数えて
必要数だけ持つのがA型の私。「カイロ」二枚はその為だ。

昨夜は両肩に一枚ずつ、腰に一枚張るという。「カイロ」は
空気にさえ触れなければ2日もつと教えたが信用しない。

20分ほどの距離なので歩こうと言う事になり会場まで歩い
た。人は続々と集まってくる。昨日の事があるので今日は
待つ覚悟である。写真を左右から撮ろうということになり、
二手に分かれた。

お人形は高い山車のうえにあるので小さく見えるが1m20㎝
もあるのだ。熟練の綱方が息を合わせて何十本の綱を操る
とからくり人形が見事な動きを見せるのである。観衆をう
ならせる見事な演技でした。90分があっという間に過ぎて
いいった。満足満足!

有名なお蕎麦屋さんの前に来たので昼食に並ぶ事にした。
私達の後ろに並んだ茨城からのご夫妻の話では「雨のため
2時のからくりが中止になり、それぞれの館で行われると言
うのです。と言う事は一つしか見れないと言う事なのです。
そういえば傘をささなくても良いほどの時雨があった。
金箔と漆は湿気を嫌うので、パラパラとでも降れば中止は
良くある事だそうだ。私達は幸運にも三体とも見る事が
出来た。

並んでいる時ふと隣を見ると、奥様方が紙袋を提げて大勢
出入りしています。そこは「落雁」のお店だった。
上品なお味の美味しい落雁でした。

「蕨もち」も美味しかったですよ。「蕨もち」大好き人間
の主人が買うと言うので昨日買って食べたのですが、美味
しいので買って帰ろうと言う事になった。関西と違って
「冷蔵庫に入れないでください」と言うのです。「蕨もち」
は冷やして食べるものと言う常識の外の食べ方の美味しか
った事。「落雁」も「蕨持ち」ももう一度食べたい品だった。

今日こそ宿舎でゆっくりしようと言う事になった。
一宮の「臥龍桜」を明日見て下呂に行くつもりだったが、
来る時の車窓から見た桜がまだ咲いていなかったので中止
にした為、明日朝市を見ても十分の時間があるからだ。

「どうなっているか見て!」主人の言葉に「カイロ」を張っ
ていた辺りを見ると赤くなっている。「これ低温やけどや」
良く聞くと一度外した昨日の「カイロ」落ちないように
バンドでしっかり抑えていたという。まさに皮膚にアイロン
を押し付けたと同様である。「低温やけど」今も主人の腰に
鎮座ましましている。これって直るの長く掛るよね!

二日目の夜はふける。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛騨高山春祭り(山王祭)

2006年04月21日 | ちっちゃな旅
                ビオラ              
           吹けば飛ぶような種を蒔く            
         10本ほど芽を出したが育ったのは3本


4月14日
春の高山祭りに行ってきた。20年程前秋の祭りに行った。
私が夜祭を見ていると男性がすーと寄ってきて耳元に囁いた
「春祭りも良いですよ」あっけにとられている私を残し来た
ときと同様すーっと人ごみに消えた。私の心には「行って見
なければ」と何時までも消えない囁きだった。

今年やっとその思いが叶った。予定通り11時前高山に到着。
電車を降りたとたん身震いした。「何?この寒さ?」私達は
春のジャンバーを着ている。暖かい車中から出てきたから
と初めは思った、でも違った。本当に寒いのである。
5度だ。18度前後の関西からの私にはまるで冬に逆戻り、
その上風邪でゴホンゴホンやっている、嫌な予感がした。

気持ちを持ち直し「観光案内所」に直行、祭りのパンフレッ
トと説明を受ける。車中でも感じたが外人さんが多い、私の
前も外人さん、窓口のお嬢さん、すらすらと英語で会話して
いる。資格は英会話の出来る人なんだろうな・・・

第一目的の「ご巡幸」まで時間があるので昼食を取る事に。
今年2月中尾温泉の雪のかまくら祭りに孫娘を連れて来た
時入った喫茶店が美味しかったので、その店に行った
「美味しかったので又来ましたよ」と言うとあちらも
「カルボナーラ注文のお嬢ちゃんがご一緒でしたね」と
覚えていてくれた。ココも外人さんが多い。口コミだって。

日枝神社に向かう道すがら山車が勢ぞろいしていた。桜の
名所の神社にも花影はなく寂しい。まもなく「ご巡幸」が社
から降りてきた。各山車毎にそれぞれの格好でお練である。
若い巫女を揃えているのは一部で、後は見事にご老人であ
る。町中のご老人が全員集まっているのではと思うほど。
紋付袴に小さく平べったい笠を頭に載せて、何人かの人が
手に笊を持っている、もしかして?と思っていると、やはり
お祝儀を頂く笊らしい。この行列各町内を廻るため3時間
掛るらしい、大丈夫かな~ご老体・・・
いやいや一年一度の喜びの日かな。

からくり奉納1時間前、人もまばらまだ大丈夫と喫茶店へ、
10分前戻って驚き、人人人で前に進めず、山車ははるか
かなたに。すっぱりとあきらめて明日10時に変更を決め
その場を後にする。これぞ個人旅行の良さである。

夜祭は今夜きりである。宿舎の人が「7時ごろ行けば良い
ですよ」と言われたので、それに間に合うようにタクシー
を頼んだ。一風呂浴びたいところだが、この寒さ風邪引く
ので我慢して、布団を被って夕食までひとねいり。

会場は大勢の人だった。昼見た山車に提灯が点けられてい
た。その明かりだけの山車は、煌びやかな金箔も精巧な
細工も隠れた感じで何処となく物足りなさを感じたのは
町行く人の声にもあり私だけではなかったようだ。

20年前あんなに綺麗だっと感じたのに・・・と考えると
その頃は小路を、手の触れる所を通過していたからだろう、
今は大通り(都会感覚から言えばそんなに大きな道幅では
ない)を通るからだろうか。それとも私の心が感動に鈍く
なっているのだろうか?

何はともあれ高山の第一夜は更けていった。





コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする