ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

「ありがとう」の表現

2007年06月18日 | 新聞から
              桔 梗
            明智光秀の紋
       蕾が面白いです、きっちりと5角形

「感謝の意示すことの大切さ」と言う題で中学生の女の子の文章です。

『下校途中、私は自転車に乗った高校生の集団とすれ違った。道幅が狭く相手の人数も多かったので、私は道の端のほうへよけてすれ違うのを待った。楽しそうに話しながら此方に来るので私の事など気にかけないだろうと思っていた。しかしすれ違った瞬間、此方に気付いた高校生の一人が小さく会釈してくれたのです。まさかそんな反応が返ってくるとは思っていなかったので、戸惑って何も反応できなかった。その反面、とても嬉しくもあった。自分がしたことに対して感謝の意を示してもらえると言うのは、行動を起した側としては、以外に嬉しいものである。・・・中略・・・「有難う」と口に出さなくとも、会釈をしたり、目礼をするだけでも、相手は「自分は感謝されている」と思うことができる。そんな少しの事が、実はとても大切なのではないかと思う』

これを書いたのが14歳の女の子、よっぽど嬉しかったから投書したのでしょう。
自分達が大勢で自転車で通過するのを、道端によけて待っている子が居る事に気付き、自分の仲間の話の腰を折るでもなく、気付いた自分が、感謝の気持ちを会釈で表した高校生。どちらも周りの事を考えての行動ができる子供たち。嬉しいお話でした。

人の好意に対して「ありがとう」の心を持てる人、自己中心の世の中と言われている現代の若い人にも居るんだ。この子達のお母さんはどんな人なんだろう。子供は親をよく見ています。特に女の子は同性ですからきっちりと見ています。

しかし親が良いから子もいいとは言えない。私の親も「有難う」の気持ちを相手に伝えることの上手な人でした。でも私は感謝の気持ちを持つことだけは出来ても、それを行動に言葉に表すことは下手だった。「ありがとう」は言葉に行動に表さなければ相手に伝わらないと感じて、行動に移し始めたのは大人に成ってからだった。変な話だが「ありがとう」の気持ちを表すのが何だか恥ずかしい、その当時はそう思ってた。

母は自分の感謝の気持ちを言葉を確実に表していたな~と思い出すようになってから、又、普段は無口な友が「ありがとう」の気持ちだけははっきりと言葉にしているのを見て私も見習わなければと思った。

私に比べて、この中学生と高校生は立派、年齢ではなくこういう事の出きるのが「大人」と言うに相応しい人なんでしょうね。

「こうのとりのゆりかご」利用者は居たんですね。一人の子には手紙が添えられていて「如何しても育てられません」って書いてあったそうですが、どういう意味なんだろうか、若い人なんでしょうか。「こうのとりのゆりかご」が無ければどうしていたのでしょうね。名前と生年月日は書いてあったそうです。

と言う事はもう一人の子は、名前も生年月日もなしで預けたと言う事ですか?この子はこの世に生まれた年月日さえ知らずに生きていくのですか? 推定で誕生日を決めるんですか? 同じ「こうのとりのゆりかご」に預けられても親の愛情の在るなしを感じますね。せめて真実の生年月日くらいは添え書きしてあげてください。成人して、自分には何一つ真実のものが無いと知った時の気持ちを考えないのでしょうか。

欲しいと望む家庭に子は生まれないで、いらないと言う所に子が生まれる。望まれなくともその子はこの世に必要だから生まれてきたのだろう、幸せになって欲しいと思う。
コメント (2)
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