ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

初体験

2007年06月05日 | 気にかかる
           斑入り額アジサイ
         花に力を取られるのか
       葉の斑が一時消えてしまいます

「あの~七松小学校に行っていられました?」「息子が?」「それから日新中学に・・・」「○○さんではすよね」「ハイ」「私ひがしだです。息子が仲よくしていただいて・・・」思い出しました。中3の時転校して行った仲良しの男の子のお母さんだったのです。「この間からそうではないかな?間違ってたらと声をかけられなかったのです」そういえば今日はこの方と「ヨガ」が始まる前に3度顔を合わせた事になります。一回目靴入れの前で、二回目トイレで、三回目取っていた座席がお隣同士だった。「なつかしいな~、一度お母さん同士の同窓会をしたいですね」と言われた。

2,3ヶ月前にも「○○さんですよね。お久し振りです」って声をかけられた。お顔に見覚えがあるものの、名前が出てこない。あちらが覚えていてくださるのに「失礼ですが、どなたさまで・・・」とは言いにくい。知ってる振りして会話し、後日やっと解ってほっとした。私は本当に人の名前と顔を覚えるのが苦手。30年も会わないと忘れてしまう。これはどうにも仕様の無いものだろうか?

帰りのバス停で女の方が「コーラスしてはるの?」と聞いてきた「ええ?」何故?と思った。6月の発表会に向かって、覚える為テープを聞いているのを忘れていた。小さく口ずさんでいるつもりが、イヤーホンをつけているので自分には聞こえず、人に聞こえていたらしい。「そ~でしょうね。ソプラノの綺麗な声ですね」普段ならありがたくお褒めの言葉と頂くのですが、今日は「一寸待った!」なのです。

来月の発表会は私は「アルト」にシフトしているのです。だのに「ソプラノ」と言われては私の今までの苦労は何だったの!と言う事になります。私は楽譜が読めないのですが音痴ではありません。今まで何十年も「ソプラノ」ですので、苦労なしで覚えられるのです。「メゾソプラノ」の経験はあります。でも「アルト」は今回が初めてなんです。周りの声を聞きながらこのぐらいの低さかな?と自分では一生懸命覚えたつもりだったのです。

人間の声って加齢で高い声が出にくくなると言われていますが、低音も出にくくなるんではありません?低い音が出にくいものですから、つい少しずつかさ上げしている内に、出やすい高音にシフトして行ったのでしょうか?発表会まで後一週間ありません。何時もの「ソプラノ」の時は「テープ」何て聞かずとも覚えられます。
でも今回は「アルト」なものですから、音程に自信が無いのでギリギリまで「テープ」で皆様の声を聞きながら合わせているのです。

ただもしかしてと言う救いがあります。この度は斉唱の部分が1/3位あるのです。其の部分を聞いて「ソプラノ」と言ってくださったのかも知れません。「ソプラノ」部分になると安心して声が大きくなったのかも知れません。そ~ですよ。そう思いましょう。それでないと当日「お口ぱくぱく」するより仕方がありませんもの。

こんな事を考えていますと、自分の生真面目さが歯がゆいです。何でこんなに一生懸命になるのだろう、やれる所まででいいのじゃないの。一人で歌うわけじゃなし。職業でなし。と思いつつも真面目に練習をする。これからも私は「言われた事は精一杯努力する(余り意味も無い事にも)」「約束は守る」こんな生き方を続けていくでしょう。と言っても普段の私はいたってのんびりしています。「馬鹿につける薬は無い」と言われますが、こんな私につける薬は無いでしょうか?
コメント
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