ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

となりの芝生の川柳 (5回)

2009年07月31日 | テレビから
 夏の花  エキゾチックな可愛さの「ヒマワリ」  (尼崎・高瀬公園)




朝からカンカン照り やっと梅雨があけて夏日が続きそうな気配です。
私の気力・体力の後退の時期に入りそう。図書館から本が来ていると言うので、
昨日いったんです、月末整理休館日で、お休みでした。スケジュール表貰って
いるのに、うっかり見なかったんです。仕方が無いので今日も行きました。
此処まできたらとジムにサウナっ子しに行きました。

となりの芝生はお嫁さんの「一家に二人の主婦は要らない」「自分の自由に
使えるお金が欲しい」と言う考えから外に働きに出たいという事でした。
勿論主人は反対します。

私も経験あります。下の子が6年生の頃でした。でも「ば~さん(姑)に迷惑が
掛かる」の一言で拒否されました。予告編では「となりの芝生」では働きに出る
ようでしたよ。



嫁の歌   姑の三歩下がって影を踏む

これも川柳ですよね。影が後に伸びる時間帯は何時頃? 一応は姑を立てて
いるように見せかけて、実際はわが意を通して舌を出すって状態でしょうか…



姑の歌   期限切れ嫁にたべさせ毒みさす

これって笑えます?川柳って、其処に笑いが秘められているんじゃないですか?
「な~るほど、上手いね~」とくすくす笑うものだと思うのですが。
「皮肉」や「当て付け」をオブラートに包むユーモアだと思うんですけど…。
今回も私的には「X」ですね。

25日(土)の夕方から「きみこさんのマリンバとオカリナの夕べ」に行きました。
きみこさんは真っ赤なそして、ピーターパンのパフスリーブ(葉っぱが重なった
ような袖)のお洋服が良く似合っていましたよ。オカリナの方も皆さんお揃いの
きらきらブラウスで奇麗でした。音楽を楽しみに行って、着る物の話しですが、
私も歌う立場の人間としては、舞台衣装は気になるものです。

何時も私のブログを読んで下さっているおおつかさんが「音楽が好きそうなので…」
と今夜の「田村かよ子ソプラノリサイタル」の券をくださいました。
それで今夜でかけて行きました。

田村かよ子さんはおおつかさんの音大時代のお友達だそうです。私達ののりこ
先生はアルトですから、歌われる歌も違います。

第1部は田村先生の専攻がロシア民謡なので、荒筋を印刷して渡してくださっ
ているのですが、ロシア語?は解り難かったです。唯奇麗な声にうっとりする
のみでした。


第二部は衣装も着物に着替えてこられ、日本語で歌われました。2番目の
「おろかな嫁様」と言うのは姑は母、嫁は娘でコミカルに歌われました。
母娘という事もあって、音質が同じなのでしょうか、ハーモニーがとても
奇麗と感じました。

最後はオペラ「夕づる」より「さよなら」でした。高校1年生の時でした。
私は演劇部ではありませんが、頼まれて子供役で出ました。主人公与兵の
周りを「かーごめかごめ」と歌いながら廻る役なんです。

「夕鶴」のつう役(鶴の化身)の第1人者・山本安英(やまもとやすえ)さんの
大阪の舞台を見に連れて行っていただいたな~、それから何年後だったか、
神戸公演も見に行ったな~とか、色んな事を思い出しました。

聞きに来ておられた方の大部分は生徒さんのようでした。唱歌とか童謡とかを
教えておられるそうです。だからでしょう男性もチラホラ居られました。
先生方のリサイタルは生徒に支えられる事が多いのだと思いました。それも
熟年女性の力はすごいものです。 教えられ助けられと言う関係でしょうか…


     もう一つ 日本的な美人系  「アサガオ」  街角で…


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明治のお嬢様

2009年07月30日 | 読みました
              オレンジルブラ 雌花 (木立性ベコニア)

                     雄花
  

              花が咲く前は葉に斑が入っている


先日は写真の貼り付けが何の予告も説明もなしに突然代わりました。
今日は文字入力が変わりました。今まで編集に入る入り口が右側にあったのが、
突然無くなり、普通に打つとこんな小さな字がだらだらと続く事になりました。
おろおろして、片っ端からポイントをクリックしてどうにか理解までこぎつけましたが、
今までの文章の文字の大きさや形態が皆勝手に代わってしまいました。
なんだか自分の文章で無いような感じになっています。やっぱり嫌だな~と思います。
当分慣れるまで改行などがおかしく読みにくいかもしれません。
少しお時間をくださいね、色々やってみますので…

               ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       明治のお嬢さま     黒岩比佐子

明治のお嬢さまの生活ってどんなだろうか?と読んでみました。
勿論平民ではなく華族以上のお家柄のお嬢様なんですけど…

華族女学校のお嬢さまはお勉強の成績より「上流の良妻賢母」を育てる所でした。
お嬢さまの「三つのたしなみ」とは書道、和歌、お琴でした。華族の令嬢達は
ほぼ例外なく、これらを一流の先生から習っておりました。

身体はといいますと、色が青白いほど白く、痩せてほっそりとして、憂いを
帯びた女性が美人といわれていました。

華族以上の家督は男性しか継ぐ事が出来ませんでした。お嬢さましか居ない
家では養子を迎えて継がせました。又例えば公爵家に生まれた男子であっても、
公爵の肩書きを継げるのは、長男だけです。それゆえ次男以下は女性ばかりで
継ぐ男性の居ない家に養子に入ったりします。

お嬢さまは「猫舌」。大きな家に住み、厨房から食堂までの距離があるため、
お食事は常に冷めていたそうです。だから温かいものを食べた事が無いという
お気の毒な環境にあったわけです。

縁談があれば、女学校を退校してお嫁に行くわけですから、24歳に藻なれば
「老嬢」と呼ばれたそうです。

学校に行く時は良い嫁ぎ先を見つけるために(学習院女子部には姑になる人が、
息子の嫁探しに訪れたそうです)お化粧をして、美しく見せる事に熱心だった
そうです。素顔を見て驚いた人も居たそうですから、相当の化け方だったわけで、
そうして自分を飾ってから学校に通ったそうですよ。

今の一部の高校生が化粧をしているのを不良と呼ぶならば華族学校のお嬢さまは
れっきとした不良といえますね。

女性は美人である事が一番だったのです。とても美人の義妹の写真(義兄は写真家)を
「美人コンテスト」に出し、一位になったが為に退学になったお嬢さまが居ました。
本人が関わったのではなく、写真で応募しただけなんですよ。
其処まで強い処置が取られたのは、周りのお嬢さま方やその家族の嫉妬心だと
いわれています。そのときの校長が、あの有名な乃木将軍だったそうですよ。

お嬢さまは結婚して貴婦人と呼ばれるようになるのですが(勿論、本人の意思は
無く親の意思で嫁ぐ)、嫁いだ先の主人の7割までが妾を持っていて、妻妾同居
も珍しくなかったそうです。子孫繁栄と言う大義名分がありますし、妾も戸籍に
載せたそうですよ。

明治のお嬢さまはお幸せだったのでしょうか? 生活面では豊だったでしょうが、

精神面では幸せと呼べない状況の様な気がしますが、そんな事など考えもしないで、
「親に随い、夫に傅き、老いては子に随う」のが幸せと教育されたのでしょうか?


                ミセス橋本 (木立性ベコニア)


                        雄花


     雌花  真っ白の花なんですが、日があたりすぎると、少し色が付きます
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インド家庭料理 (18回)

2009年07月29日 | 今日この頃
       卓上花 コップの中の色砂も海辺に打ち寄せる波のようですね  
  

                    今日のお料理です


   スータニーとは王様の事ですって 高級料理に属するのかな?(夏用のお料理)


アルハール豆を30分ばかり水につけて、圧力釜で5分ほど煮ます。各種香辛料とインドのバター・ギーを炒め茶色くなったら、豆を加えて、生クリーム、ヨーグルト、牛乳を加えて5分ほど煮て出来上がり。白いカレー?、普通のカレーのようにご飯にかけていただきます。私が食べ易かった一品です。

     オクラライタ  何時もは野菜は生のままでしたが 今日は炒めます


オクラは輪切りと玉葱はみじん切りにします。オクラを茶色くなるまで炒めたら、玉葱を炒めます。オクラと玉葱の荒熱を取ってからヨーグルトと各種香辛料を加えて出来上がり。上の緑はコリアンダーリーフです。



                     ゴーヤフライ


ゴーヤを薄くスライスし、塩をまぶしてしばらく置く。思いっきり水分を搾り取る。ウラド豆を香りつけの為に茶色になるまで炒める。みじん切りの玉葱を透明に成るまでいため、生姜、ニンニクの下ろしたものを加える。ゴーやを加えて炒める、続けて炒める。ゴーヤの水分が飛んでパリッとするまで(始の量の1/3位になる)炒める。香辛料を加え、隠し味に砂糖を加えてさらに炒めて出来上がり。

これだけ炒めたのだから、苦味はとれているかな? と期待したのですが、口に含んだだけで「苦い!」と感じる。他の方は美味しい美味しいと好評なんですが、私はダメでした。お皿に取った分だけはの問答無用と流し込みましたが、苦さには勝てません。ゴーヤはほろ苦いのが良いのだといわれても、やっぱり嫌です。

                ファルーダ ローズミルクのデザート


ローズシロップをミルクで薄めて置く。その中に茹でて冷ましたベルミセリ(ビーフンに似ている)を入れます。今思えば何のためにと疑問? 1~2時間水につけた後洗ったバジルシード(写真で上に浮いているブツブツ)をコップに入れ、ロースミルクを加える。 良く混ぜた後に、アイスクリームその上にピスタチオを振りかけて出来上がり。

濃厚な甘さのドリンクです。フロートさせたアイスクリームは食べる頃には溶けていました。その後のレモンティーが口直しになりました。


インド料理には茶色くなるまでいためた玉葱を良く使います。その時間短縮の方法を習いました。 玉葱は微塵にして、生のまま平たく包み冷凍庫でフリーズさせておく。それを取り出して炒めると短時間にあめ色になり味も良く、色も鮮明になるそうです。
            私のお皿のご飯に白いカレーが掛かっています


今日はオクラにせよゴーヤにせよ、炒めまくりです。夏ばて防止の献立ですが、火の傍にいる時間が長いのが主婦にとってはつらいかな~。

来月はお休みで、9月にはお隣の部屋に料理教室専門の部屋が出来るそうですので、楽しみです。
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まぼろしの薩摩切子

2009年07月28日 | 一寸そこまで
        ポスター この品は天障院篤姫が将軍家にお輿入れの際に
          義父島津斉彬が持たせたものだろうと言われています
       お雛さま用という事で 白酒でも入れたのだろうかと…  

      

    これは会場内の大きなパネルで これのみ撮影しても良い事になっている


今までに何回も行こうとしたのですが、そのたびに雨に祟られ、今日やっと行く事が出来ました。

音声ガイドのナビゲーターが高橋英樹さんだというのも楽しみの一つでした。去年のNHKの大河ドラマ「篤姫」で高橋さんは島津斉彬役だったのでナビゲーターをなさるのかと思っていましたら、それだけではなかったのです。

「薩摩切子」そのものが斉彬の父・斉興の始めたもので、斉彬はその意志を継ぎ「薩摩切子」の制作を推し進めた人だったのです。斉彬は早世したものですから藩主の地位に居たのは7年ぐらいだったそうで、次の藩主が経済の引き締めをやり、「薩摩切子」もその対象になってしまいました。

鉛を沢山入れると、柔らかいガラスになって、その名もギヤマンと呼ばれます。「ギヤマン」とはポルトガル語の「ディヤマンテ(ダイヤモンド)」から来ているのだそうです。

              これは我家の「ギヤマン」です 
     母が「これはギヤマンよ」と普通のガラス食器と違うと話していました
  私が空襲で焼け野原になった我家の焼け跡の土の中から掘り出したものです
    よく家の焼ける温度にも溶けないで残っていたものだと思いました
    何時の日 母が求めたのか解りませんが70年以上は経っています
   この緑と藍色と白の3色あったのですがこれ一つになってしまいました
  鉛が含まれているからか普通のガラスと違う輝きがあり写真に写し難いのです



銅を混ぜると「紅色」になるのですが、その色を出すのに何百回もテストをして作り出された日本生まれの、いや「薩摩切子」の色だそうです。

紅色の品では、私は長崎の袱紗や(カステラ、私はこの店のカステラが一番好きなのです)所蔵の品が一番好きでした。模様も細かくなっていますし、「可愛らしく、モダンで、それでいて歴史を感じさせる」物だと思います。残念ながら撮影禁止で写せませんでしたが、上の写真の二枚目の写真の右端の小さな三角の中の紅色がそれだと思います。

全然知らなかったのですが、大方が「サントリー美術館」所蔵の品でした。山崎のサントリー美術館には何度か行っていますがモネの池や「絵画」に気を取られていたのでしょうか、全く気が付きませんでした。もしかして普段は陳列していなかったのでしょうか?

もう一つ驚いたのが、尼崎にある「旭ガラス」が「薩摩切子」と深い関係にあると言う事を知ら無かった事でした。あの財閥の岩崎家が始めた会社であるという事も知りませんでした。

もっと凄いのは日本国の旗、日章旗を初めて提案したのが島津斉彬であるといわれている事です。日の丸を始に考えてのは誰?と思っていましたが、思わぬ事を今回は知りました。「屋久島」に本籍を置く私は「こりゃ~、屋久島についても何か調べる価値があるかもね」と好奇心がむくむくと涌いてきました。ヤレヤレ…

人間の親指ぐらいからの数々のお雛様用の「薩摩切子」も篤姫のものだろうと言われています。

素人の私でさえ、順番に展示された作品を見て、その進歩ははっきりとわかります。面白い事にあまりに成功に出来たものは「薩摩切子」ではないと否定されたり、外国のものが逆に「薩摩切子」であると承認されたりしたようです。

「薩摩切子」は将軍家への献上品として、又大名間の贈り物として重宝していたらしいのです。都から遠く離れた鹿児島で世界に誇る「薩摩切子」は生まれていたのです。
                              (1130回)
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ロイクラトンナイト2009

2009年07月27日 | 一寸そこまで
      皆さん タイの舞踏学校の生徒さんで今日の為に来日された
              タイの美女勢ぞろいって感じでした


   

   




7月24日
帝国ホテル大阪でタイ観光協会主催の「ロイクラトンナイト2009」と言う催しがあるのを知り申し込みました。抽選の結果珍しく当たりまして行ってきました。

帝国ホテル大阪は初めてでした。タクシーで乗り付けたのですが、今思えば、1階にフロントがありませんでしたね。エスカレーターで直ぐ3階『孔雀の間』に上ってしまったのですが、フロントは何階にあるのでしょうか? 初めてのホテルですから、少し探検するつもりで行ったのですが、去年の天神祭りの写真やビデオを見ている内に時間がなくなりました。

何処の国でも縫ぐるみ人形はいるんですね。私達を迎えてくれたのは「スックチャイ」(クは発音しないそうです)日本語を習っている留学生が説明してくれたんです。意味は「幸せ」だそうです。だからニックネームは「ハッピーチャン」です。彼女が「一緒に写しましょう」と言ってくれたので写してもらったのですが、ボケボケなんです、残念!


入り口の所で金魚すくいならぬ、ビー玉救い(大きな瓶の底にしずんでいる)、目を瞑って(ゴミを摘むもの)見ないで取り上げるのです。玉の色で賞品が違います、主人はしろ(全員にあたる)金魚の形のストラップでした。私は赤でビーズの腕輪と金魚のストラップが当りました。しかし残念な事に最後の抽選会で「タイ旅行」は外れました。

     

主催者の挨拶の後は直ぐ食事です。バイキングで立食です。お腹が空いていたので色々と頂きましたが、一通りはとても食べられませんでした。最後のデザートはケーキでした。

私達のテーブルの男性は良く飲む人ばかりでしたが、次から次へビールが運ばれてくるんです。気前がいいな~! 私はビール、ウーロン茶、ジュースと皆試しに飲んでみました。お料理? まあまあですかね~。

お食事中は舞踊学校の楽団が演奏していました。その後にタイの舞踊があったんです。色々と1時間ばかりありましたよ。

私達もタイに行った時、タイ舞踊を見にいったんですが、人数もこんなに多くありませんし、時間もちょっぴりでしたから今日は堪能しました。

衣装もカラフルですし、アクセサリーもいっぱいつけているのですが、それが煩わしくないのは国民性でしょうか?男性だってカラフルですものね。

タイの人は普通どんな服を着ているのでしょうか?タイに行った時もホテルと観光地の往き帰りだけですから、民族衣装だったと思うのです。一般人の人はどんな服装だったか思い出せないんですよね。

         左:私の流した灯  でも願い事をするの忘れました


最後にはホテルの前の川辺で願い事をしながら川に流す事をさせていただきました。私達は始めのほうでしたから流れる灯が少なかったのですが、沢山になるともっと良かったかもしれませんね。

流し終えたら自然解散です。シャトルバスでJR大阪まで送っていただいて立花に戻りました。楽しかったですが、疲れました。やっぱり年には勝てません。






  

  



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遍路 (36回)

2009年07月26日 | 思い出話
    平成14年11月1日  (金)  第40番札所  観自在寺


        距離:24K   松乃屋旅館 ~ 観自在寺 ~ 三好旅館


11月1日  17:36  かずよ  (受)
今日は朝から雨でやっと止んだみたいです。明日から冷え込むそうですよ。身体に木を付けて…。

20:31  かずよ  (送)
三好旅館に居ます。朝から1時間小雨が降っただけです。峠越えをしました。朝コンビニでおむすび。昼抜きだったので、ちぎって取り立てのおみかんをお接待、子供のように喜びました。食事は美味しい、部屋は奇麗、風呂も清潔。昨日は全てダメだった。テレビ、暖房は1時間100円。その上に朝のお見送りはパジャマのまま。如何思う?

20:42  ふじいさん  (送)
「降るともみ見えじ秋の雨」でしたっけ?そんな雨が1時間だけ。そこで峠を越えました。山頂からの景色はすばらしかったけど、疲れたわ。

21:02  かずよ  (受)
お疲れ様です!今日は良い宿の様なのでゆっくり休んで疲れを取ってください。おやすみなさい。

21:06  おちさん  (送)
三好旅館に居ます。観自在寺から、雨上りましたので、柏~大門の峠越えをしました。あなたは冬だから、海岸沿いを歩かれたのでしょう?連続1時間の登りはしんどかった。堂手海岸の辺りは風が強かった。吹雪で前に進めないとあなたが書いていたのはこの辺りでしょうか?まだ青い大きなみかんは伊予柑?「はまる」って「入る」こと?

21:47  ふじいさん  (受)
お疲れさん。雨がひどくなくて良かったね。お大師様と一緒でしたね。私は東京で同窓会楽しんでいます。今夜もゆっくりお休みなさい。又明日頑張って歩きましょう。おやすみなさい。

                   観自在寺の仁王門

               本殿  奇麗すぎてありがたみにかける


愛媛県に入って始めてのお寺、第1番札所霊山寺から、直線で最も離れたお寺第40番札所 観自在寺なのに、私の記憶から飛んでいる。何冊もの本を読み写真を見ても思い出さない。宿を出て左に曲がった。其処から柏の遍路道までがプッツリである。余りにも強烈なお見送りで私の頭は占められていたのだろうか?

   柏~大門の中間点の美しい眺望  これがあるから峠越えできるのかな~



朝食は道中、コンビニで「赤飯のおにぎり」と「大福」を買ってその場を借りて食べました。この「赤飯おにぎり」もち米が多いらしくもちもちして腹応えがとてもよかったです。時々買う家の近所のコンビにの「赤飯おにぎり」とは段違いにしっかりしている。唯、お味のほうは都会の勝ち。このがっちりした「赤飯おにぎり」が4時間近いと峠越えの体力を支えてくれる事になりました。

柏から入り別格  柳水大師、水があるはずなのに見当たらない。持ち水を残る距離と量を計算しながら飲みました。

其処に突然女性が現れました。身軽くヒョイヒョイと言う感じでした。愛媛県のおちさんもこんな感じだったのだろうか?と考えてしまいました。彼女が言うには、もう1人学生の様な女の子を抜いてきたそうです。彼女は凄い荷物で野宿をしているらしいと言ってました。「私は今夜は『新橋旅館』に泊まります」と話すと、又現れた時と同様にアッと言う間に消えてしまいました。健脚!!

彼女の話した若い女の子と言うのは後にお知り合いになる時安麻紀(ときやすまき)さんです。「まだこないね~」と話しながら先に進んだのですが、その日はとうとう抜かされる事はありませんでした。後日、彼女に出会った時に納得しました、私達に追いつかなかったのは、凄い荷物は17Kもあるし、それに加え『遍路はゆっくり』が彼女のポリシーの為だったのです。
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遍路  (35回)

2009年07月25日 | 思い出話
           平成14年10月31日  (その2)


            距離:23K  JR宿毛 ~ 旅館 松乃屋


途中、坊さんと乳母車を押した女の人と普通の格好をした小さな女の人と言う不思議な3人組が反対側から歩いてきました。職業遍路だろうか?

大深浦(おおふかうら)の松尾峠への入り口が見つかりません。通り合わせた男性に聞くと、なんとその道は道路を隔てた目の前にありました。彼は言いました「水は持っていますか? 峠には水はありませんよ。昨日の雨で道は滑りやすくなっていますから気を付けなさい」私も今までの経験から水の必要性は身にしみているので、ついさっき交番所の前の水道で水を補充したばかりでした。

              土地の人に花の名前を聞きました 
        「此花は野の花だから名前は知らない」と言う答えです



道路の両側はみかん畑でした。大きなみかんが鈴なりでした。

      

三叉路に出て、「さて、右に廻るべきか左に行くべきか?」と立ち止まると、角の民家からおばあさんが出てきて「右に廻ってはいけない。左に行くと又このような三叉路に出るから、其処を右に行くと2軒の家があるからその間を抜けると松尾峠入り口です。私はお遍路さんを見ると何時も出てきて教えるのです。皆右にはまって違うほうに行ってしまうよ」こういう人が居てくださるから私達は助かるのです。「はまる」とは察するに「入る」と言う土地の言葉のようです。

    

日が曇り風が強く吹いています、私は峠に入りたくなかったのです。もし雨にでも降られたら…と反対したのですが、主人は無視してどんどん歩いていきます。

松尾峠に入りました。益々風は強く暗さを増す石ころ道、私が先を歩いていました「ぎゃ~!!」私は悲鳴を上げて駆け戻りました。「ヘビや!!」「杖で地面を叩け!!」杖で地面を叩くとその振動音でヘビのほうが逃げると教えられていたのです。だけど私は見ただけで肝が潰れてしまったのです。主人も自分が先に行こうとしないのはヘビが怖いのでは?

だけど狭い道いっぱいに伸びているヘビ、其処を通らなければ前に進めないのです。私は仕方が無いので杖で力いっぱい地面を叩きました。振動を感じたヘビはスルスルと右の崖に下りていきました。私は暗い道を必死で通り抜けました。何故なの? 如何してヘビは私の前に現れるの? 焼山寺の時も(主人は前を歩いていましたが見なかった)そうでしたが、ここでも主人はヘビを見なかったのです。

峠までに急勾配の道があり、石畳に成っているとはいえ半分以上土に埋もれた感じで、知らずにその上に足を置くと転びそうになりました。階段で言えば踊り場になるコーナーで昼食を取る事にしました。時刻は2時をとっくにすぎていたと思います。
  


松尾峠には茶屋跡が残っているのみでした。丁度、土地のご夫妻がお掃除をしに来ておられました。「良く登ってこられましたね。今までの道は大変だったでしょうが、これからの道は下りだし、道も奇麗に舗装されていますよ」と帰っていかれました。

     「西伊予の国宇和島藩支配地」と書かれています この左にもう一つ
     「これより東、土佐の国」とかかれた二つの碑が立っていました
            
          

昔は峠を下った所に夫々の番所があり、不法越境者を取り締まっていたといわれています。

私達はとうとう高知県を越えて、愛媛県に入ったのだと嬉しかったです。

今夜の宿に電話をする事にしました。豊田の岡本旅館を予定していたのですが「今日は宴会です」と断られました。道中、岡本旅館の前を通りましたが良い旅館のようでした。今日は日が悪いのか何軒目かでやっと宿が決まりました。

土手上を行けば良いといわれましたが、土手の下を歩いた為に、見事なススキの群生を見るチャンスを失ってしまいました。風流を解さない御仁との二人旅と諦めました。

あまりに喉が乾いたし疲れたので栄養ドリンクを買って、地図を見ていますと土手から自転車に乗った女の人が降りてきて「今夜はどちらに?」「松乃屋旅館に…」「それならもう少し足を延ばしてお寺の近くには大きな旅館が沢山あるから、松乃屋は電話で断ったほうが良い」「でも食事の用意をしておられるだろうから…」と答えた。第一の理由は早く着きたかったのです。予定の岡本旅館から2K以上も余分に歩いて、その上に歩きたくなかったというのが本音です。

四辻に出て「さてどちら?」と考えていると丁度、中学生が来たので主人が道を訊ねました。又この学生が真面目を絵に描いたような子で、地図の上下をひっくり返したり、自分の身体の向きを変えたり、気の毒なほど真剣であるが結局解らなかった。

私が学生に訊ねても家と学校を往復しているだけだからと言ったのに…、時間の無駄。「早く宿に着きた~い、靴脱ぎた~い」とイライラ。結局酒屋さんで教えていただきました。

宿は先ほどの女の人の言うとおりにすればよかったと後悔する宿でした。まず湯船が凄~く穢かった。泊まりは私達だけ。お風呂に入っている内にご飯が運んでありました。

面白かったのはトイレの電気で、ある距離まで近づくとトイレの電気が付く仕組みになっていました。今はこのセンサーは一般的になっていますが、当時は珍しかったと思います。私は初お目見えでした

朝起き抜けに出ますので夜のうちに支払いを済ませました。朝出発時、女将さんが見送ってくれました。が…ネグリジェ姿には驚きました。客商売で見送りに寝巻きかえ?! 暫く歩いて主人に聞きました「ネグリジェだったよね?」「うん」貴方は寝巻きでも見送られた方が良いですか? 常識外だよね!!!


             旅館 松乃屋   (2泊目)
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天神祭りの宵宮

2009年07月24日 | 一寸そこまで
                 大阪天満宮の正門


     裏門 私は何時もこちらから入る この手前に「繁盛亭」がある



        さすが太閤さんのお膝元 御輿もキンキラキン
     

帝国ホテルの「ロイクラトンナイト2009」と言うのに応募したら当たったので行きました。タイの一年の最後の満月の日(今年は11月3日)のお祭りです。とても行きたいと思っていたので興味があったのです。タイの政府観光協会の宣伝ですけどね。

それで帝国ホテルに行くルートが三つあって東西線に乗れば、今日のお祭りの天神さんの駅で降りるので、もしかしたら観れるかな~と思ったわけです。地下から地上に出てホテルに行くつもりだったのですが、目の前に下の写真の獅子舞の一行が居たのです。それで「天神さんはどっちですか?」と聞いて、時間も有るし行ってみようという事にしたわけです。

私達は乗り物の都合で何時も裏門から入っていたわけです。孫娘の七五三からきていなかったようです。何処にあるのだろうと探していた落語の「繁盛亭」がこの入り口の直ぐそばにあったんです。思いがけない発見でした。「此処なら、駅からも近いし今度これるね」と話し合いました。

繁盛亭の入り口の屋根からは今流行の「ミスト」が噴出しているんですよ。リラックス効果があるのでしたっけ。入り口で写真を写している人も多かったですよ。こじんまりした良い小屋のようでしたよ。

    

天神祭りの時に天神さんに来たのは初めてです。本祭りの船渡御(ふなとぎょ)と花火を見に来た事はありますけれどね。明日ですね。お天気だと良いですね。

みこしの前で女の人がお囃子に合わせて伸びたり縮んだり早かったり遅かったり、無我の境のように踊るのですよ。動きが激しくて、上手い事写せませんでした。

祭りの今日は本当は正門から入って、裏門に出るという一方通行らしいのですが、私達は逆行した模様です。警備の人に「帝国ホテルはどちら?」と聞きましたら「歩くと距離あるよ」「タクシーは?」「ワンメーター掛からないと思うけど、乗せてくれるかな~?」と言う返事でしたが、良い人に当たって、無事タクシーで今日の本命の帝国ホテルにたどり着く事が出来ました。


           天神祭りに参加 盛り上げている人たち
        御輿の前でお囃子の速さに合わせてゆるく激しく踊る



       

          毎年参加しているんだって (帝国ホテルにて)
          

    お母さんと同じ支度だったのよ 追っかけていって写させてもらったの 
       お母さんにはにげられちゃった


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となりの芝生の川柳 (4回)

2009年07月23日 | テレビから
             矢車ハッカ  この色が大好きです



            後の赤い花・浮き釣木と仲よく共生しています    
   


1週間ぶりのジムです。今日は「インドムービーダンス」精勤です。教室に入って驚きました。男性が居るではありませんか。それもビデオカメラを持っています。スタッフが付いています。「???」「撮影?」そうなんです。「朝日テレビの撮影スタッフ」だったんです。

色んなスタディオを廻って紹介しているのでしょうか、どうも私には良く解りませんがそうらしいのです。一応8月の中頃真夜中の番組らしいのです。はっきり決まれば知らせてくれるそうです。

先生が、まだ始の方は右側にといわれました。前列と左の方は半年間の実績のある方です。勿論私は右側に行きました。先生がつかつかと寄ってこられて、私に、「真ん中に来てください。一生懸命踊ってくださっているから…」私は後列ですが中央の位置に決まりました。

本当は嫌だったんです。だって4回目ですよ。まだ少しも覚えていないんです。私だけ間違っているのは恥かしいではないですか。でも度胸を決めました。これは発表会ではないんです、練習風景なんですから、習い始めの人が間違っていて当たり前ではないか、と思ったのです。

撮影する人だって、見れば私のぎごち無さがわかるでしょう。そうすれば私を写すことは無いでしょう。そう思ったのです。

先生は「カメラは気にしなくてもいいです。何時もの通りに…」といわれました。でも気になりますよ。カメラ2台が狙ってるんです。私は練習期間の長い、流れを覚えている人の直ぐそばで踊っているのです。私を狙わなくとも流れを覚えている方を撮っていけば必ずバックに私が写るはずです。

「ビデオ撮影終了後、インタビューがありますが、お急ぎの方は帰られても結構です」といわれました。私は、一番にスタディオを飛び出しました。「まだ4回目なんです」と弁解したいのは山々なんですけど、皆さん化けておられるのに、私はスッピンです。知っていれば、お化粧してきましたのに…。これ以上恥をかきたくないと思って、教室を飛んで出ました。

デモね、放映が決まったらやっぱり録画して、1人こっそり見ますよね。きっと。


            花後の花弁が抜け落ちた後


   ズームするとこんな感じです  これだけでも花のようにきれい!


「となりの芝生」の川柳

   嫁の句   お墓まで同居と思うと泣けてくる

そういえばそんな話を聞きますね。姑とは勿論、夫と同じ墓にも入りたくないって。私はのんびりしていると言うか、そこまで姑を嫌っては居ませんよ。お墓は大きいですからね、まだ何人も入れますから同居するつもりですよ。

今はお墓は一家に1基の時代のようですね。無駄なような気がしますが、墓守には案外お金が掛かるんですよ。昔のように全財産を跡取りが貰うのなら墓守もいいのですが、墓守をする子供だけが費用を出すのは嫌なのかも知れませんね。私達も50年間お墓を守ってきていますからね~、相当の金額だと思いますよ。

   姑の句   いい娘(こ)でもいい嫁だとはいってない

これも解りますね。結婚までは猫を被っていて、思いを遂げたら自己本位だという事でしょう? デモね、やっぱり相性というのはあるよな気がしますね。相性の悪い相手に当たったら不幸ですが、確率は低いでしょうが、相性の良い嫁姑も居ると思いますよ。


先日、友人に「となりの芝生見てる?」と聞いてみた。「見てる見てる、私、息子にも見て欲しいわ!」と言う答え。彼女は3人の息子がいるのでお嫁さんも3人いるのです。息子の家族とは行ったり来たり、「嫁姑でもこんなに仲の良い人もいるんだわ」と思っていましたから、なんだか残念でした。

そういえばお話の中の息子は、母親贔屓です。あれだけ庇ってくれれば同居し易いですね。でも今の時代、現実には母親の肩を持つ息子は少ないのではないですか? 同居しなくても嫁さんの顔色を見る息子が多いのではないですか? (そうしないとマザコンといわれてね、妻のほうが実家の母と仲良くするのは何も言われないんですよ。不公平だわ!)そうしておくと家庭が波風立たなくていいからですよ。

私達の世代は損な回り合わせの様な気がします。親を看たけれど、子供には看て貰えないという、不幸な狭間に生まれたようです。

物語のように良いお嫁さんはいなくなる、と言うより、嫁に行った娘を諭してくれる実家の良い母親が居なくなりそうです。

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映像でしか見れなかった「日食」

2009年07月22日 | テレビから
  消えてしまったかと諦めていた 「カサブランカ」 がやっと(7月6日)咲きました 



昔は「日蝕」とかきましたよね。「蝕」と言う字が当用漢字に無いのでしょうか?なんだか「蝕」のほうが神秘で感じが出ていると思うんですよね。「日を蝕む」「月を蝕む」って何となくミステリアスで闇の訪れに相応しくないですか?

「日食」を見ようと「フラダンス」は休んで、家で待機していたんです。薄暗くなってきて、もう直ぐかな~といいながら、テレビの「日食」の映像に見入っていて、気がつくと尼崎上空の「日食」は終わってしまったようです。

テレビに釘ずけにならずに、もっと頻繁に空を仰いでいれば、部分日食ですがはっきりと尼崎の空でも見えたと息子が言っていました。

悪石島は風雨が強くて見れなかったようですね。折角遠い所に高い料金を使っていっているのに、残念でしたね。自然のなせる技ですからどうしようもありませんね。「日食」は見れなかったけれど、「日食」による突然の闇や温度の変化は如実に感じる事がで来て、現地に来た甲斐があったたという方も居られましたね。

テレビでは屋久島を写していましたが「日食」自体ではなく影響を受けた神秘の森の映像でした。闇の訪れを感じながらも、最後の最後まで「緑」が奇麗だったそうです。やはり何時もの夕暮れとは違う神秘さを感じられたようですね。

「日食」の最中に、飛行機が横切る映像がありましたが、飛行機からはどんな風に見えるんでしょうね。「飛行機は天井が空いていないから見えない」と誰かが言っていたと息子は言うのですが…、全然見えない? そうかな~?。

それに引き換え海上から「日食」を見ようとした方達はズバリ見れましたね。初心者も多いという事から、刻々と現状の説明のアナウンスが流れていましたね。

新婚旅行に「日食観察」をと船に乗られた方が居ましたね。こんな良い思いではないでしょうね。26年後は家族連れで見られるのでしょうか? 北陸、東北地方だそうですね。

観測隊と、NHKのクルーは硫黄島からバッチリ観測できたようですね。基地にするために強制移動された硫黄島の元住民の方々はどんな思いで故郷の空を思い出されたのでしょうか?

観測隊員の人が言っていましたね「自分なりに研究もし、想像もしていましたが、全く違っていました」って。映像でさえその神秘的な美しさは感じられたのですから、生で見た方は絶句!言葉の出ない美しさだったのでしょう。

船は揺れますから、観測はどうしても土地の上でするそうですね。46年前とどこか違った事があったのでしょうか?

今度は26年後だそうですね。その時私は99歳だもの、無理だな~。




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