さすがにそろそろ「未来で何が起きたのか」を避けて通れない気がしてきた。
【前提】
本来、最も参考にしなければいけないのはオフィシャルのコンプリートブック等なのですが、「解釈は委ねる」とのことなので確定情報以外は引きずらないようにします。
また「パラレルワールド」は非常に便利な言葉なのですが、「未来と現在」もパラレルなので(時間は同時に存在している)、いわゆる「分岐世界」を想定しなくても矛盾はしない、はず。
(以下では「パラレルワールド」と「分岐世界」は区別して記述します)
個人的に、分岐世界によるパラレルは想定したくない。
「あらゆる可能性が存在する」のような超大量の分岐世界観だと、「キュアエールが敗北した世界」や「野乃はなが育児ノイローゼではぐたんを殺した世界」も存在してしまう。それはテーマ的にもコンテンツ的にもおかしい。
そこまで「なんでもあり」ではなく、重要な分岐のみ存在する(例えば時間旅行すると分岐する)世界観だとしても、最終話でルールーが自分たちの世界に帰りつけなくなってしまう。(余談ですがリメイク版「タイムマシン」はこれがテーマになっている)
「1回時間旅行した世界同士の移動では分岐しない(あるいはそのような技術を確立している)」世界観だと、要するにただの異世界です。時間旅行を持ち出す理由が薄れる。
「クライアス社があった世界」は「野乃世界の未来」ではなく「よく似た異世界(パラレルワールド)」だったなら、「マホウ界とナシマホウ界」のように呼べば良い。「未来」や「過去」といった表現は不自然です。
たとえば「摩訶不思議な移動手段で別世界にいった。自分に外見が似た人物もいるが、生い立ちや環境や社会が全く違う。カレンダーは西暦2000年」として、「過去に行った」とは言わないのでは。
あるいは「異なる世界だが人物等は全く同じ。まさしく過去としか言えない」世界だとすると、何をもって「パラレル」や「分岐」と認識するのか。
「全く同じ」なのだから「クライアス社のいた世界でも、過去に別世界からルールーたちがやってきて、ハグプリ世界と同じ物語が展開されていた」ことになり、結局のところそれなら「分岐」を持ちだす意味がないです。「同一世界」になってしまう。
ストーリー上もクリアすべき課題が大量に出てくる。
分岐世界や異世界だとすると、ジョージが避けたかった未来はこの世界とは無関係です。ここで頑張る理由がない。
逆に、自分の元いた世界でなぜチャレンジしないのか。
「何度やってもだめだった」「だから時間を止める」が彼の戦略ですが、止めるべきは自分の元いた世界です。
「頑張ったけど止められなかった」のだとしたら、過去に何度も失敗した手段をああも自信満々には繰り出さないでしょう。
そもそも世界が分岐するのなら、ジョージにとって都合の良い未来を迎えた世界だって存在するはず。
どういうわけか偶然それだけ存在しないのは、かなり苦しい。
クライアス社がいた世界の描写も辻褄があいません。
時間を止めるのであれば、幸せな過去に戻ってから止めねば意味がないのに、あの世界はどう見ても崩壊しています。手遅れだ。
「何度もやり直した」のであれば過去に戻る手段はあったはずですから、何であの時間軸でトゥモローと戦っていたのか説明困難です。
「時間移動しながら戦っていた。たまたま崩壊した未来編から来ただけ」とかの逃げ手もあるのですけど、「だったら猶更パラレル(異世界)を過去とは呼ばないだろう」とか問題が次々出てきてしまいます。
といった具合に「分岐」や「パラレル」を持ち出すとかなりややこしいことになってしまう。
そして何より致命的なのが、「野乃はなが我が子を『はぐたん(はぐみ)』と命名したこと」が非常に不気味になってしまう。
「世界は分岐する」のであれば、あのはぐたんと、このはぐたんは別人です。
別人なのに、野乃さんは明らかに「あのはぐたん」を「このはぐたん」に重ねてみている。
いわば「死んだ第一子と同じ名前を第二子につけて、同一視する」ようなものです。一般的な倫理観としてNGだと思いますし、作中でも「罪」として描かれている(トラウムの回想)。
よりにもよって最終回の締めの部分で、それをやってしまったら色々台無しです。
だから「未来は不変」「世界は一つ」。あのはぐたんは、紛れもなくこのはぐたんだ。
私がぐだぐだ考察もどきや妄想を始めたのも、ネタとしてはえみるですが、動機の一つには「野乃さんを無神経な異常者にしたくない」のもあった。
(何度か書きましたが、「未来は不変」とハグプリテーマ「なんでもできる」「未来は変えられる」は矛盾しない。野乃さんは「タイムマシンで過去に戻ればアンリくんの事故を防げるよ!」といった意味で「未来は変えられる」と言っているのではなく、「不幸や困難があっても立ち上がれる」の意味でしょう。「悲劇や挫折そのものは防げない、しかしそこで終わりではない」の観点でいえば、「未来は不変(43年の崩壊は不可避)」の方が、テーマに沿っているとすら思えます)
【2043年放送のプリキュア】
最終回を見た時、直感的にすぐに思ったのが「クライアス社の黒幕は、未来で闇落ちした野乃さん(死亡した後の怨念とかのパターンも含む)」だった。
それぐらい「はぐたんと命名」はグロテスクです。「未来は不変」と確信していたとしても、「はぐたんと命名する」のはなかなかできません。
「未来は変えられる」「分岐世界」の認識だったら猶更だ。
私が野乃さんの立場だったなら、少なくとも命名はジョージに任せます(注:結婚相手はジョージの前提で進めます)。
一切の前情報を与えていないジョージが「はぐたん」を想起する命名をしたなら、「未来は不変。この子はあの はぐたん」の確信度が上がります。「未来は不変」なら、自分が命名しなくても必然的に彼女は「はぐたん」と命名されるはずですから、わざわざ自分からする必要がない。
ただなんとなく野乃さんは、純朴に「赤ちゃんは、はぐたん」と信じているし、同時に「未来は変えられる」と漠然と思っていそうです。野乃はなのキャラクターとしてはそのイメージだ。
えみるのように病的に深く推測したりはしないと思う。
しかしこれらはかなり危ういバランスです。未来は変えられるのなら、どうしてこの子がはぐたんだと確信できるのか。
ふとした弾み、たとえばイヤイヤ期でぐずる我が子に対し、「いうこと聞いてよ!前のはぐたんは良い子だったのに!」みたいに思ってしまったら最後、「…この子は、だれ?」と疑心暗鬼が生まれてしまいます。
もしはぐたんでないのなら、「別の子の面影を我が子に投影する」というなかなかキツイことをしてしまっている。
その罪悪感から逃れるため、「未来は不変」の証明のためにクライアス社として活動を始めた…というのが最初の直感的な推測だった。
ただこれは今にして思えば無理がある。
理由はいくつもありますが、何はともあれプリキュア40周年のストーリーに落とし込むのが難しい。
「プリキュア」である以上、大前提は「プリキュアコンテンツとして最低限の成立をしていること」です。
40周年といえば、初代を見ていた子供が40代半ば。
平均的に30歳で結婚したとすると、プリキュア適齢期の子供がいる感じです。
そこから類推されるテーマとしては、親視点では「思春期の子供へのもどかしい悩み」、子視点では「束縛してくる親への反発」あたりでしょうか。
最終的には
親視点:
・忘れていた初心を子を通じて取り戻し、次のステージに進む
・かつて自分も抱いた思春期の葛藤を思い出し、子への理解と信頼を深め、社会に送り出す
子視点:
・親の若かりし頃を知り、親もまた一人の人間だと気づき、対等に向き合う
・自分がいかに愛されていたかを知り、未来に進む勇気にする
基本ストーリーとしては、母に反発していたトゥモローさんが、過去に戻って赤ちゃん時代を再度体験。
母の人生と愛を知り、親への感謝の気持ちを持ちながら、未来に戻って再起。
素人の考えた薄っぺらい構成ですが、一応は「初代を見ていた人が40代半ば。プリキュア適齢期の子供がいる」時代背景で放送される「プリキュア40周年」として最低限の形にはなってると思う。
仮にその展開で「野乃さんは闇落ちしていた」とすると、ラストシーンはこうなる。
「思い出して、お母さん!」とか言いながらトゥモローさんが特攻するとか、そんなの。
それなりに感動はするかもしれない。でも43年のリアルタイム視聴者には唐突過ぎます。
野乃さんが第1話時点で敵側にいるとすれば、普通に考えればトゥモローさんとは別居。クライマックスになるまでろくに画面に出てこない。リアルタイム視聴者にとっては「野乃はな?キュアエール?誰?」となってしまう。多少は「過去編」をやるにしても、いまいち感動が薄い。
最初から敵幹部として戦わせる手もあるけど(親子対決を初めからギミックとして前面に出す)、シリアスにやると重すぎるし、コミカルにやると落としどころに困る。
日常のストーリーにも無理が出る。
「親との対立」を演出するには、友人やプリキュア仲間との会話で「お母さんなんて嫌い!」「私のことなんてどうでもいいんだ!」みたいなことを頻繁に言わせる必要がある。
ところが野乃さんが画面に出てこられないと、トゥモローさんが一方的に嫌いまくっているだけで、フォローのしようがないです。ただ単に「親に反発しまくる嫌な空気」だけが流れ続ける。
ターゲット視聴者層的にも、長々と「親を嫌う子」を描き続けるわけにはいかないはずで、「嫌いとは言いつつも、その回の中で何らかのオチはつける」べきに思う。
たとえば、
「敵の襲来を受け夜中に飛び出していく娘」
「事情を知らない(ことになっている)母から「こんな夜中に…。危ないでしょ」のような忠告が飛ぶ」
「また子ども扱いして!とか反発」
「戦闘後、こっそり帰ってきて眠る娘を、そっと見守る母」
「翌朝、ぼそりと謝る子」
「でも何だかんだでまた他愛無い喧嘩をしてちゃんちゃん」
みたいな感じ。
2018年にタイムトラベルし、再び43年に戻ってきたシーンも、野乃さんが出迎える方が話がまとまります。
戻ってきたトゥモローさんが母に心を開き、二人は熱い抱擁を交わす(その横で同じく涙の再会をしている えみるとルールー)。
スペシャルイベント的に、キュアエールとトゥモローの共闘とかもいいかもしれない。
どう考えても「野乃はな闇落ち」よりこっちの方が「プリキュア」コンテンツのストーリーとしてまとまってると思う。
【未来に続く】
では他に黒幕をやれそうな人はというと、既知のキャラクターではジョージぐらいしかいない。というわけでジョージの経緯を考えたのだけど、長くなったので別記事に分けます。
●参考:
HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察(一覧)
【前提】
本来、最も参考にしなければいけないのはオフィシャルのコンプリートブック等なのですが、「解釈は委ねる」とのことなので確定情報以外は引きずらないようにします。
また「パラレルワールド」は非常に便利な言葉なのですが、「未来と現在」もパラレルなので(時間は同時に存在している)、いわゆる「分岐世界」を想定しなくても矛盾はしない、はず。
(以下では「パラレルワールド」と「分岐世界」は区別して記述します)
個人的に、分岐世界によるパラレルは想定したくない。
「あらゆる可能性が存在する」のような超大量の分岐世界観だと、「キュアエールが敗北した世界」や「野乃はなが育児ノイローゼではぐたんを殺した世界」も存在してしまう。それはテーマ的にもコンテンツ的にもおかしい。
そこまで「なんでもあり」ではなく、重要な分岐のみ存在する(例えば時間旅行すると分岐する)世界観だとしても、最終話でルールーが自分たちの世界に帰りつけなくなってしまう。(余談ですがリメイク版「タイムマシン」はこれがテーマになっている)
「1回時間旅行した世界同士の移動では分岐しない(あるいはそのような技術を確立している)」世界観だと、要するにただの異世界です。時間旅行を持ち出す理由が薄れる。
「クライアス社があった世界」は「野乃世界の未来」ではなく「よく似た異世界(パラレルワールド)」だったなら、「マホウ界とナシマホウ界」のように呼べば良い。「未来」や「過去」といった表現は不自然です。
たとえば「摩訶不思議な移動手段で別世界にいった。自分に外見が似た人物もいるが、生い立ちや環境や社会が全く違う。カレンダーは西暦2000年」として、「過去に行った」とは言わないのでは。
あるいは「異なる世界だが人物等は全く同じ。まさしく過去としか言えない」世界だとすると、何をもって「パラレル」や「分岐」と認識するのか。
「全く同じ」なのだから「クライアス社のいた世界でも、過去に別世界からルールーたちがやってきて、ハグプリ世界と同じ物語が展開されていた」ことになり、結局のところそれなら「分岐」を持ちだす意味がないです。「同一世界」になってしまう。
ストーリー上もクリアすべき課題が大量に出てくる。
分岐世界や異世界だとすると、ジョージが避けたかった未来はこの世界とは無関係です。ここで頑張る理由がない。
逆に、自分の元いた世界でなぜチャレンジしないのか。
「何度やってもだめだった」「だから時間を止める」が彼の戦略ですが、止めるべきは自分の元いた世界です。
「頑張ったけど止められなかった」のだとしたら、過去に何度も失敗した手段をああも自信満々には繰り出さないでしょう。
そもそも世界が分岐するのなら、ジョージにとって都合の良い未来を迎えた世界だって存在するはず。
どういうわけか偶然それだけ存在しないのは、かなり苦しい。
クライアス社がいた世界の描写も辻褄があいません。
時間を止めるのであれば、幸せな過去に戻ってから止めねば意味がないのに、あの世界はどう見ても崩壊しています。手遅れだ。
「何度もやり直した」のであれば過去に戻る手段はあったはずですから、何であの時間軸でトゥモローと戦っていたのか説明困難です。
「時間移動しながら戦っていた。たまたま崩壊した未来編から来ただけ」とかの逃げ手もあるのですけど、「だったら猶更パラレル(異世界)を過去とは呼ばないだろう」とか問題が次々出てきてしまいます。
といった具合に「分岐」や「パラレル」を持ち出すとかなりややこしいことになってしまう。
そして何より致命的なのが、「野乃はなが我が子を『はぐたん(はぐみ)』と命名したこと」が非常に不気味になってしまう。
「世界は分岐する」のであれば、あのはぐたんと、このはぐたんは別人です。
別人なのに、野乃さんは明らかに「あのはぐたん」を「このはぐたん」に重ねてみている。
いわば「死んだ第一子と同じ名前を第二子につけて、同一視する」ようなものです。一般的な倫理観としてNGだと思いますし、作中でも「罪」として描かれている(トラウムの回想)。
よりにもよって最終回の締めの部分で、それをやってしまったら色々台無しです。
だから「未来は不変」「世界は一つ」。あのはぐたんは、紛れもなくこのはぐたんだ。
私がぐだぐだ考察もどきや妄想を始めたのも、ネタとしてはえみるですが、動機の一つには「野乃さんを無神経な異常者にしたくない」のもあった。
(何度か書きましたが、「未来は不変」とハグプリテーマ「なんでもできる」「未来は変えられる」は矛盾しない。野乃さんは「タイムマシンで過去に戻ればアンリくんの事故を防げるよ!」といった意味で「未来は変えられる」と言っているのではなく、「不幸や困難があっても立ち上がれる」の意味でしょう。「悲劇や挫折そのものは防げない、しかしそこで終わりではない」の観点でいえば、「未来は不変(43年の崩壊は不可避)」の方が、テーマに沿っているとすら思えます)
【2043年放送のプリキュア】
最終回を見た時、直感的にすぐに思ったのが「クライアス社の黒幕は、未来で闇落ちした野乃さん(死亡した後の怨念とかのパターンも含む)」だった。
それぐらい「はぐたんと命名」はグロテスクです。「未来は不変」と確信していたとしても、「はぐたんと命名する」のはなかなかできません。
「未来は変えられる」「分岐世界」の認識だったら猶更だ。
私が野乃さんの立場だったなら、少なくとも命名はジョージに任せます(注:結婚相手はジョージの前提で進めます)。
一切の前情報を与えていないジョージが「はぐたん」を想起する命名をしたなら、「未来は不変。この子はあの はぐたん」の確信度が上がります。「未来は不変」なら、自分が命名しなくても必然的に彼女は「はぐたん」と命名されるはずですから、わざわざ自分からする必要がない。
ただなんとなく野乃さんは、純朴に「赤ちゃんは、はぐたん」と信じているし、同時に「未来は変えられる」と漠然と思っていそうです。野乃はなのキャラクターとしてはそのイメージだ。
えみるのように病的に深く推測したりはしないと思う。
しかしこれらはかなり危ういバランスです。未来は変えられるのなら、どうしてこの子がはぐたんだと確信できるのか。
ふとした弾み、たとえばイヤイヤ期でぐずる我が子に対し、「いうこと聞いてよ!前のはぐたんは良い子だったのに!」みたいに思ってしまったら最後、「…この子は、だれ?」と疑心暗鬼が生まれてしまいます。
もしはぐたんでないのなら、「別の子の面影を我が子に投影する」というなかなかキツイことをしてしまっている。
その罪悪感から逃れるため、「未来は不変」の証明のためにクライアス社として活動を始めた…というのが最初の直感的な推測だった。
ただこれは今にして思えば無理がある。
理由はいくつもありますが、何はともあれプリキュア40周年のストーリーに落とし込むのが難しい。
「プリキュア」である以上、大前提は「プリキュアコンテンツとして最低限の成立をしていること」です。
40周年といえば、初代を見ていた子供が40代半ば。
平均的に30歳で結婚したとすると、プリキュア適齢期の子供がいる感じです。
そこから類推されるテーマとしては、親視点では「思春期の子供へのもどかしい悩み」、子視点では「束縛してくる親への反発」あたりでしょうか。
最終的には
親視点:
・忘れていた初心を子を通じて取り戻し、次のステージに進む
・かつて自分も抱いた思春期の葛藤を思い出し、子への理解と信頼を深め、社会に送り出す
子視点:
・親の若かりし頃を知り、親もまた一人の人間だと気づき、対等に向き合う
・自分がいかに愛されていたかを知り、未来に進む勇気にする
基本ストーリーとしては、母に反発していたトゥモローさんが、過去に戻って赤ちゃん時代を再度体験。
母の人生と愛を知り、親への感謝の気持ちを持ちながら、未来に戻って再起。
素人の考えた薄っぺらい構成ですが、一応は「初代を見ていた人が40代半ば。プリキュア適齢期の子供がいる」時代背景で放送される「プリキュア40周年」として最低限の形にはなってると思う。
仮にその展開で「野乃さんは闇落ちしていた」とすると、ラストシーンはこうなる。
「思い出して、お母さん!」とか言いながらトゥモローさんが特攻するとか、そんなの。
それなりに感動はするかもしれない。でも43年のリアルタイム視聴者には唐突過ぎます。
野乃さんが第1話時点で敵側にいるとすれば、普通に考えればトゥモローさんとは別居。クライマックスになるまでろくに画面に出てこない。リアルタイム視聴者にとっては「野乃はな?キュアエール?誰?」となってしまう。多少は「過去編」をやるにしても、いまいち感動が薄い。
最初から敵幹部として戦わせる手もあるけど(親子対決を初めからギミックとして前面に出す)、シリアスにやると重すぎるし、コミカルにやると落としどころに困る。
日常のストーリーにも無理が出る。
「親との対立」を演出するには、友人やプリキュア仲間との会話で「お母さんなんて嫌い!」「私のことなんてどうでもいいんだ!」みたいなことを頻繁に言わせる必要がある。
ところが野乃さんが画面に出てこられないと、トゥモローさんが一方的に嫌いまくっているだけで、フォローのしようがないです。ただ単に「親に反発しまくる嫌な空気」だけが流れ続ける。
ターゲット視聴者層的にも、長々と「親を嫌う子」を描き続けるわけにはいかないはずで、「嫌いとは言いつつも、その回の中で何らかのオチはつける」べきに思う。
たとえば、
「敵の襲来を受け夜中に飛び出していく娘」
「事情を知らない(ことになっている)母から「こんな夜中に…。危ないでしょ」のような忠告が飛ぶ」
「また子ども扱いして!とか反発」
「戦闘後、こっそり帰ってきて眠る娘を、そっと見守る母」
「翌朝、ぼそりと謝る子」
「でも何だかんだでまた他愛無い喧嘩をしてちゃんちゃん」
みたいな感じ。
2018年にタイムトラベルし、再び43年に戻ってきたシーンも、野乃さんが出迎える方が話がまとまります。
戻ってきたトゥモローさんが母に心を開き、二人は熱い抱擁を交わす(その横で同じく涙の再会をしている えみるとルールー)。
スペシャルイベント的に、キュアエールとトゥモローの共闘とかもいいかもしれない。
どう考えても「野乃はな闇落ち」よりこっちの方が「プリキュア」コンテンツのストーリーとしてまとまってると思う。
【未来に続く】
では他に黒幕をやれそうな人はというと、既知のキャラクターではジョージぐらいしかいない。というわけでジョージの経緯を考えたのだけど、長くなったので別記事に分けます。
●参考:
HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察(一覧)