穴にハマったアリスたち

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我思う故に我あり

2012年11月16日 | 王様の耳はロバの耳
なんとなく仕事しながら思った事。

世に言う「議論」の際、よく「主観ではダメだ。客観で根拠を述べよ」と言われる。
私はこれを間違いだと思う。
というのも、何が「客観」なのかは「主観」によるから。

例えば「映画Aと映画Bのどちらが面白いか」という議論遊びをしてるとき。
「映画Aは面白い。何故なら売上が高いから」と、「映画Bは面白い。何故なら私が面白いと思ったから」だと、前者の方が客観的で説得力があるとされます。
が、よくよく考えてみれば「何で売上が高いと面白いことになるんだ?」が解決されてない。
単に「数字があった方が相手を騙しやすい」というトリックを使ってるだけなんですよね、これ。

ただ哲学的な議論をしていても仕方がないので(「では何が客観なのか」「面白いとは何か」「それを観測する我々とは何なのか」「そもそも我はここに存在しているとどのように証明するのか」etcetc)。
通常「議論」をするときには、お互いの「主観」をもって、「客観」を決める。
つまり、「売上で比較することは客観的であると、双方の主観によって合意する」というプロセスを経て、初めて「売上」が客観として使える。

なんかややこしい言い方をしてますが、要は事前に双方がルールに合意してからでないと、ゲームが始まりません。
「サッカーでは手は使わないんだよ。そう客観的に決まってるんだよ」というルールにお互いが納得してからでないと、サッカーが成立しないようなもの。
「いやスポーツなんだから全身使って勝負するのが『客観的』でしょ」みたいなことは言いださないと、事前に合意をとるわけです。

思うに、ここを分かってるかどうかが、「口がうまいかどうか」の境目の一つなのかなと。
少なくともこういう認識を持ってない相手には、議論をして負ける気がしない。
相手が「客観的だ」と思ってる根拠を、横殴りで盤上返しできるから。

例えば上述の「売上が高い。だから面白いんだ」のような場合。

最初にチェックするのは、「本当に売上は高いのか」という点。
「映画の売上」という例の場合、これは破綻します。
というのもこの手のは「公開1週間の成績No.1」とか「前売り券の成績No.1」とか、細々期限や条件をつけて出してるから。
(『全米No.1』がやたら沢山あるのはそのせい。それぞれ基準が違う)
従って、「なぜその基準の売上を根拠に採用しているのか。違うコレコレの範囲でもいいじゃないか」と詰め寄れば、概ね破綻する。(もちろんそちらの基準なら勝てることを確認してからですが)

もっと単純なのは相手の根拠を逆用すること。

双方が合意しないと根拠は「客観」として使えない。
だけど自分にとって不利な根拠を、わざわざ「それは客観です」と合意する相手はいない。(まぁたまにいますが)
そうすると双方に「主観」のぶつけあいとなり、決着が付かないのですが…。

でも絶対確実の「客観」として認められる方法があります。
相手が自分で持ち出した主張は、相手の主観により「客観的だ」と初めから認められてます。
つまりこの例でいえば「売上が高い。だから『つまらない』」と主張してやればいい。

そもそも「売上が高い」=「面白い」は、客観的なようでいて極めて主観的です。
背後にあるのは「大勢が支持しているから面白いはずだ」。
ですが「大衆受けを狙った駄作」といった「大勢が支持しているからつまらない」を示す評価は珍しくありません。
逆に「一部の分かる人には分かる。ツボをついた作品」といった「少数が支持しているから面白い」も普通に成り立つ。
故に「売上が高い。だから『つまらない』」を否定する「客観的」な根拠はない。そして相手が自ら「売上」は客観として使えると認めている以上、この論を否定するのは困難です。

ここで使っているトリックは、「売上が高い=面白い」は主観でしかなく、それを論拠に使うためには、相手とまず合意しなければいけない、というステップに気づいていない点を突いてること。
そして当然、売上が低い側は、そんな「主観」には合意しない。
あくまで自分にとって有利な「主観」を「客観」だと主張する。

だから「議論」の場では、基本的に相手の「主観」を逆用して殴り倒す手法が使われる。
上の例でいう「売上が高い。故につまらない」のような。
もしも相手がこの構造に気づいていない場合、一瞬の平行線や「お前は何を言っているんだ」という罵声の後、大抵こう遷移します。

『売上でつまらないかどうかなんて判断できないだろう』
『例えばこんな例外のケースが…』

この時点で勝ちです。
相手が自ら、「売上は指標となりえない」と言いだしてくれたんだから。
その瞬間に相手の持ちだした「主観」(売上は評価に使えない)に合意を示し、「客観的に見て売上は面白さと関係ない」に合意してやればいい。

基本的に「主観」と「客観」の考え方はこんな感じだと思う。
相手が自分で言いだした「主観」が、こちらにとって都合が良ければ「客観」と認定してやればいい。
相手の合意は得ているのだから、それで決着がつく。

(なお、ここで「ビジネスなのだから売上は高い方が良いに決まっている」といった展開を持ちだす相手は論外。
「面白いかどうか」の基準として「売上」を使っていたのに、そこに「ビジネスとして成立するか否か」を持ちこむと、もはや目的も根拠もブレ始める。
「ビジネスとして成立するから面白い」という根拠として使うなら「売上」の多寡の根拠は揺らぐし(どうして「売上」なの?「利益率」とか「純利益」ではなくて?)、「ビジネスだから売上が高い方が良い」と目的に設定するなら「今は面白いかどうかの話であって、ビジネスの話はしていない」で一蹴される)

逆に相手がボロを出さないようならば、ひたすらこちらの「主観」を「客観」だと主張すればいい。
別に卑怯でもなんでもないです。相手だって自覚してないだけで同じことやってるんだから。
(数が多い側が「多数決は客観的だ」といくら主張しても説得力がないようなもの。なんで「衆愚政治より分かっている専門家の意見を尊重すべき」が客観的ではないと言い切れるの?)

現実の議論の際には、これに利害の話が絡みますが(10:0ではなく6:4で決着を狙うとか、双方にとって利益のある妥協点を探すとか)、やってることの基本は変わらないと思う。
議論に限らず、営業のテクニックとかでも同じ。
こちらから「お困りでしょう?この商品が役に立ちます」と言うよりも、相手から「こういう状況は困ってるんだ」と言わせてからの方が売りやすい。

なんか会議に出てて、「議論」に負ける人のパターンを見てるに、こういうことなのかなと思ってみた。


【蛇足】

上記の例でいう「売上が高いから面白いんだ」の否定はそんな感じ。
逆に、もう片方の側「私が面白いと思うから面白いんだ」を否定したい場合、「検証可能かどうか」が軸に置かれると思う。
「貴方が面白いと思っているかどうかは我々には検証のしようがない。故に根拠として使えない」。

要は「世界中の生物は神が作ったのだ。なんか進化して発展したような化石とかが見つかるのは、神がそう見せているだけで、実際には神がある日、神秘的な力で創造したのだ」といった理論と同じ扱い。
もしかしたらその通りなのかもしれないけれど、検証のしようがないので(原理的に反論する術がないから)理屈として採用しません、みたいな。

もしくは「では貴方はいついかなるときも『面白い』と認定するのですね?」と詰め寄るとか。
(「あなたは肉親が他界した時でも、それを観て面白いと感じるか?」とか。
 「感じない」と答えたなら、「では状況に応じて評価は変わるのですね」と合意を得られる。
 「どんな状況だろうと変わらん」と強弁されたなら、それはそれで楽。
 「肉親の他界のような一般的に悲しむ状況(いくらでも根拠は並べられる)ですら感情が制御されるのですね」から「あなたの判断基準は一般とかけ離れている」でも「それは個人の状況を凌駕して作用する麻酔や麻薬と同種であり面白さの指標に使えないことが証明された」でも、なんでもいい。
 つまりは「相手の持ちだした主観を否定せず、客観根拠に使う」ことを意識できてるかどうかが大事)

そういったようなわけで、「主観だから説得力がない」といった、主観的な反論はしょぼいと思うのです。

【蛇足2】

相手も同じことを考えている場合。

双方に「相手の持ちだした主観を利用して殴ろう」と考えるので、お互いにお互いを(表面的には)否定しないのに、それぞれが自分の言い分を通そうとする、気持ちの悪い状況に陥ります。
やってる当人としては、案外爽快だったりしますけれど。
お互いに自分の利益や目的を理解した上で話をしているので、ある意味、交渉が成立しますし。

最悪なのは理屈を理解しない相手。
「その方が自分にとっても得だけど、何となく嫌だ」とか「売上が高いから面白いんだよ。客観的だろ?(上記のようなやり取りが発生して云々中略)うるせぇ!とにかく面白いんだよ!!」みたいなタイプ。
何故に自分が論破されてしまったのか理解が追い付かないけれど、負けたことは分かる…ときに、とにかく暴れる人はそこそこいる。

そうなってしまったら、こちらも「黙れこの野郎」と応戦せざるを得なくなります。
第2ラウンド、肉弾戦の開始です。
書を捨てて外に出よう。拳を握りしめて。

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