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穴にハマったアリスたち

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「赤毛のアン」100周年記念小説「こんにちはアン」(バッジ・ウィルソン) 感想

2008年07月29日 | 小説・本
「こんにちはアン」を読み終わりました。
私の脳内副題「マリラとマシュウが神に見える本」。
なんだかお腹がむずむずしてくる話です。

アンの境遇は分かっていたことではあるのでそれ自体はいいのですが、単純に「不幸な子供」が胸に刺さる。
昔、保育園で働いてた頃のことを思い出して、ちょっと泣いた。
精神のバランスを保つために、ぜひ同じノリで「幼少時のルビーがいかにして耳年増になったのか」とかも出してください。

■こんにちはアン - バッジ・ウィルソン

初めに大前提。
本小説は「赤毛のアン」(原作:ルーシー・モード・モンゴメリ)のエピソード・ゼロ話。
主人公のアン・シャーリーの誕生~幼少時からグリーンゲイブルズにやって来るまでの物語です。
「赤毛のアン」出版100周年を記念し、バッジ・ウィルソンにより執筆されました。

「赤毛のアン」自体の知名度がどの程度のものか判断に悩みますが…。
多分、「世界名作劇場」の放送年代の影響で、「あしながおじさん」や「若草物語」の方が知名度は高い気がします。
(「赤毛のアン」の名作劇場でのアニメ化は1979年。「フランダースの犬」「三千里」「ラスカル」「ペリーヌ」の次作にあたる)

まぁそれでも、なんとなくのイメージは沸くかとは思います。
「100年前に書かれた、カナダの田舎を舞台にした、空想力豊かな孤児の物語」。
麦藁帽子と赤毛を三つ編にした、カントリーガール的なビジュアルが、多分一般的な絵だと思う。
(余談ですが、「オズの魔法使い」のドロシーのビジュアルイメージと混同されてる気もする)

 
 名作劇場31話より。中央の赤い子がアン。
 ちなみにその横にいる、やる気のない顔してるのがルビーギリス。

書かれたのが100年前で、世界『名作』劇場でのアニメ化や、小説という媒体、おまけにアンの魅力や舞台となった自然の美しさが強調されることが多いので、お堅いイメージを持たれがちですが、「赤毛のアン」自体はコメディです。
現代のコンテンツでいうなら、(先日終わった)「スクールランブル」が物凄く近い。あとは高橋留美子作品とか。
「若草物語」等のように教育書として書かれた話と違い、娯楽小説なので、性質としてはライトノベルであり、アンを初めとしたキャラクター造形は、基本的にギャグです。

それを踏まえた上で。
主人公のアン・シャーリーは、ファン(特に年配の女性ファン)からは、一種の理想像として絶賛される傾向がありますが、冷静に見るとかなり酷い性格をしています。

 ・コミュニケーション力に難あり
  独り言同様の勢いでしゃべり続ける上、白昼夢が激しい。

 ・基本的に性格が悪い
  言いつけは守らず、それどころか「でも結果的にはその方が良かったでしょ」と自己肯定する。
  
 ・容姿コンプレックスが極端
  自分の容姿を批判されると激昂するくせに、他人の容姿にはやたら厳しい。
 「赤毛」を馬鹿にされてキレるシーンは有名ですが、その割りには告ってきた男には「鏡見て出直せ」くらいのことを平気で言い放つ。

 ・気分屋
  思い込みとそのときの気分で行動指針がころころ変わる。
  「歯が痛くてイライラしてたから」という理由で、教え子を殴り倒すシーンは圧巻。

うん、ダメな子だ。
でもだからって駄作といいたいわけではないし、アンに魅力がないというわけでもない。
というか、学園ラブコメのヒロインだと考えれば、至極納得のいく配役ですよね。
多分、ここを納得できるかどうかが、「赤毛のアン」を楽しめるかどうかの境目です。

 
 名作劇場14話より。アン・シャーリー、容姿をからかった男子の頭蓋を砕くの図。
 でも自分は平気で他人の容姿を嘲笑する。恐るべきダブルスタンダード。


で、やっと「こんにちはアン」の感想ですが、二次小説として結構いい線を行ってると思います。
アンが大変な幼児期を過ごしたことは、「赤毛のアン」にてアン自身がほんのちょっぴり(1頁程度)語っているのですが、そこと上記の破綻した性格の説明として、面白かったです。

ただ、あとがきにあった、翻訳者の方の解説はちょっと外してたような…。

 (引用)
  アンのリアリティのなさは、意識するしないにかかわらず、やはり読者には心のどこかに引っかかるのではないだろうか。
  引っかかりの一つ目は、悲惨な幼児期を過ごしながら、その影がどこにもないということ、二つ目は学校すらまともに通わせてもらえないほど働かされていたのにもかかわらず、彼女が披露する、あっけにとられるほど豊富な語彙と、文学作品に対する薀蓄の多さである。
 (引用終わり)


「リアリティのなさ」は当たり前であって、気にする部分ではないと思うのですが…。
だってコメディなんだから、極端な性格設定は当然です。
アンにリアリティ云々とか言い出したら、ルビーやフィリパみたいな、より壊れたキャラはどうなるんだ。

それでもあえて答えるのなら、一つ目の「引っかかり」の回答は単純です。
「悲惨な幼児期の影は明らかに『ある』」。
アンの空想力は現実逃避ですし、会話にならない一方的なおしゃべりは人との交流に慣れていないから。
孤独に耐えかねて生み出した、空想上の友達「ケティ・モーリス」や「ヴィオレッタ」は、「素敵な空想」ではなく「哀しいエピソード」だと思います。

二つ目の「引っかかり」もほぼ同じ。
初期のアンは芝居がかった言動が目立ちます。
多分、モンゴメリとしてはギャグ演出なのですけれど(現代の漫画やアニメでも、ませた話し方をするお子様キャラとか、いますよね)、真面目に「そうなった原因」を突き詰めていけば、コミュニケーション不全にたどり着く。

「こんにちはアン」の作者のバッジ・ウィルソンも恐らくそう考えたんだと思う。
この小説のアンは、それはそれはしんどい生活を送ります。

幼い頃に両親は病死(これは原作で言及されているとおり)。
もらわれていった先はアル中の小父さんと厳しい小母さん(原作どおり)、そして美形ぞろいでいじわるな子供たち(オリジナル。アンが容姿コンプレックスになった原因としてかなり説得力がある。アンが異常にルビーに冷たいのも妙に納得)。
その次に行った先での子守生活(原作どおり)や、孤児院での友人の裏切り(オリジナル。アンの『親友』に対する極度の執着はこうして生まれた)。

 (「アル中のおじさんが失職し、経済的理由で家事奴隷扱いされ、遊び倒してる子供の面倒を見るために学校を断念した」シーンより、一部引用)

 「あたしも逃げ出して森の中に暮らしたい。永遠に」そしてこれまでのいきさつを話した。アンはこぶしでテーブルをたたいた。
 「学校に行けないの!本もないわ!新しいすばらしいことも勉強できない!サディもいないわ!ヘンダーソン先生もいない!トマスおじさんは酔っ払って、あたしにいじわるなの!あたしは働いて、働いて、働いている!もう二度としあわせになれないわ。二度と!」

 (引用終わり)


アンの慟哭がとんでもなく胸に刺さる。
この後の「新しい住み込み先には、子守をすべき相手が沢山いる」と聞いたシーンも熱い。
(参考までに、この時のアンは9歳です)

 新しい家には双子が二組もいる。それもまだ赤ん坊。
 子守担当としては絶望したくもなります。
 でも孤児院に行くよりは…と前向きに頑張るアン・シャーリー。

 アン:「四人も赤ちゃんがいたら大変ですよね」
 引取先のおばさん:「六人よ」

 アン、絶句。「六人?そう言ったんですか?六人って?」
 引取先のおばさん:「ええ、二組の双子の上に、娘がふたりいるの」

 子供が六人!しかも全員4歳未満!
 絶望です。酷すぎます。少しは家族計画を考えてもらわないと…。
 しかも家の周囲には気分転換になるものが何もないときた。

 アン:「き、近所には人は住んでいないんですか?」
 おばさん:「ひとりで住んでるおばあさんがいるだけよ」
      「あの人には長生きしてもらわなくちゃ」
 アン:「どうして?」
 おばさん:「お産婆さんだから」

 何故、産婆が必要なのか。思わず視線が小母さんのお腹に向かう。
 『七人』。
 真実に思い至ってしまい、絶望の更なるどん底に叩き落されるアン。

 ふと思い出す、昨夜したお祈り。
 『どうぞもうすこし生活が良くなりますように……楽になりますように』。
 そうお祈りしたのに。お祈りしたのに!


…その後、生まれてきた赤ん坊はまたもや双子で、総勢八人になった赤ん坊に絶望を通り越してどうしようもなくなるアンに、危うく惚れかけました。

総じて満足したのですが、演出のために犠牲になった原作設定があるのは、ちょっと残念。
原作では家事が不得手のはずのアンが、コキ使われる描写のせいでいつの間にか家事万能になってしまっていたり、お祈りを知らないはずなのに明確に祈っていたり。
でも二次小説としては、非常に出来は良いです。
「赤毛のアン」ファンの方は読んでみる価値はあります。


(左画像)
こんにちは アン(上)/バッジ・ウィルソン

(右画像)
こんにちは アン(下)/バッジ・ウィルソン


それにしてもこの話、原作ファンならともかく、「赤毛のアン」を知らない人が読んだら恐ろしく消化不良のまま終わるんじゃないだろうか。
この悲惨な境遇の後、グリーンゲイブルズやレドモント大学が訪れることを知ってるか知らないか、更に言えば「基本、ギャグでコメディ」という前提があるかどうかで全然違う感想を抱きそう。
アニメ化もするそうですが、特にアニメだとターゲット視聴者の幅的に「『赤毛のアン』を知っている」という前提が使えないので、違うものが見えそうです。


【余談】
本小説で、最もアン・シャーリーっぽいと感じたのは以下の場面でした。

 (殺風景な部屋に飾るため、薄汚れたゴミのようなマットレスを数枚貰い受け、幻想に浸りながら必死に洗濯。願いは叶って1枚目が綺麗になった、そのシーンより引用)

 (およそ4頁に及ぶ妄想語りの後)
 「一枚でじゅうぶんだわ」と、大喜びでいった。「それに、こするのに疲れちゃったし」。

 (引用終わり)


あんだけ熱狂しておいて、同時に「疲れたから、もういい」。
空想力万歳のアンですが、「まぁそれはそれとして」な言動も目立つのが可愛いです。
だからアンの空想はギャグとしての前振りなんだってば。決して、「理想の少女の美しい語り」とかではなくてさ。
コメント (5)
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